感情
――時は、三年前に遡り。
『……それから、もう一つ留めて頂きたいことがあります。もしも――もしも、本当に新たな命を宿していたとしても……そして、その際に貴女がどのような決断をなさろうとも――私はその決断を尊重し、力の限り貴女をお支えする所存であると、今ここに申し上げます』
妊娠の県について夜野さんに相談したあの日、真っ直ぐに私を見つめ彼が伝えてくれた言葉。……どうして、そこまでしてくれるのか――そんな旨を尋ねると、彼は少し顔を俯かせて口を開き言葉を紡いだ。
『……そうですね、もう11年前のことになります――私は、当時交際をしていた女性に望まぬ妊娠をさせてしまいました』
『…………え?』
衝撃過ぎる夜野さんの告白にポカンと口を開き呆然とする私。……えっと、どういうこと? つまり、無理やりそういう行為を……いや、それはない。もちろん過去までは知らないけど……それでも、夜野さんはそんな人じゃない。だとしたら――
『……避妊、してなかったということ……?』
『……いえ、双方とも避妊対策はきちんと行っていました。……まあ、言い訳にしかなりませんが』
『……あ、いえ、そんなことは……』
……えっ? ちゃんと対策してても妊娠することってあるの? ……でも、そうだとしても――
『……でも、でしたら誰が悪いというわけでもないと思います。不適切な表現かもしれませんが……不運な偶然だったとしか……』
『……お気遣いありがとうございます、藤川さん。ですが、話はここからでして……大変想定外のことではありましたが、二人で深く話し合った末、前向きな結論へと至りました。折角、神様が授けてくださった尊い命――二人で、大切に育み守っていこうと』
『……そう、だったんですね』
夜野さんの言葉に、些か驚きつつもどこか納得を覚える私。なんとも彼らしい考え方だと思ったから。
『……ですが、妊娠が判明してから二ヶ月ほど経過した頃――以前の結論から一転、堕胎したいと彼女は仰いました。その決断がいかに苦しいものであったか、あの時の彼女の表情からも痛いほどに伝わりました。そんな彼女の苦痛に、一番近くにいながらどうして二ヶ月も気付かずにいたのか――本当に、今思い返しても情けない有り様です』
『……夜野さん』
『……ですが、私の愚かさはそこに留まりません。彼女の決断を聞いた私は、その瞬間――心の奥底で、そっと安堵を覚えたのです。助かった――そんな思いが込み上げてしまったのです。授かった命を大切に、などとたいそうな綺麗事を申しておきながら……結局のところ、私は自分のことしか考えていなかったのです』
そう、自嘲するような淡い微笑を浮かべ話す夜野さん。そして、すぐさま悟った――これが、最も深く彼の心に根を張っている苦痛なのだと。
――だけど。
『……でも、それは致し方のないことなのではないでしょうか? その恋人の方と同様、夜野さんにとっても思い掛けないことでしたし、相当に不安だったはずです。安堵を覚えてしまったとて、ご自身を責める必要などないと思います』
『……藤川さん』
思ったことを正直に伝えると、少し目を見開き呟く夜野さん。だけど、驚かれるようなことじゃない。大切な恋人との間に授かった尊い命を、夜野さんのような誠実な人が軽々しく考えられるわけがない。きっと彼女と同じくらい真剣に向き合っていたからこそ、それ相応に不安も覚えて――結果、堕胎するという決断に対し安堵を覚えてしまったからといって、いったい誰が責められるというのだろう。――少なくとも、私にはできない。
……ところで、それはそれとして――
『……ところで、ちょっと聞きづらいんですけど……結局、その恋人の方とは……?』
そう、逡巡を覚えつつ尋ねてみる。とは言え、この話の流れなら不自然な問いではないだろう。実際、夜野さんも表情を変えることなく軽く頷き口を開く。
『……その後、一年ほどでお別れすることとなりました。ですが、堕胎が原因だったかといえば、必ずしもそうではないと思います。むしろ、その件を除いても、どうしてずっと一緒にいてくれたのかと思うほど私自身酷い有り様でしたから』
『…………え?』
『……そうですね、具体的には……人を信じられないくせに、見捨てられることを極度に恐れ強く依存してしまう……そのくせ、こんな自分を愛してくれる大切な人に対し、度々心ない言葉を浴びせる始末……きっと遅かれ早かれ、別離は必然だったのだと思います。むしろ、どうしてせめてもっと早く彼女を解放してあげなかったのか――そうすれば、彼女にあのような苦痛の決断をさせずに済んだのに……』
『……そんな、こと……』
そう、顔を俯かせ話す夜野さんの告白に言葉が詰まる。……彼の言葉が、いったい何処まで事実なのかは分からない。でも……どうか、そんなふうに言わないで。そんなふうに、自分を傷つけるのは止めてほしい。だって、私は貴方に救われて――
『……少々、本題から逸れてしまいましたね。今お話した私の過去が、貴女の問いに対する回答に起因するのかと思います』
『…………あ』
そんな夜野さんの言葉にはっとする私。……そうだ、あまりに衝撃的な告白だったのですっかり忘れていたけど、私が聞きたかったのは――
『……それ以降、遅ばせながら私は誰とも一緒にならないと決めました。今後、金輪際誰も愛さないと決めました。そのような資格など、私にはありませんから』
『……夜野、さん……』
そう、仄かに微笑み話す夜野さん。そんな彼を見つめながら、あの日の言葉を思い出す。……そっか、あれはそういう意味で――
『……ですが、妊娠のことで苦しむ貴女を目の当たりにして、私の中で大きな感情が込み上げてきました。私の全てを以て、貴女のことを支えなければ――そのような感情が。……尤も、そうすることで自身の愚かな過ちの贖罪を――そんな身勝手な思惑が働いただけなのかも知れませんが』
『……そう、だったんですね』
……ここまで聞いて、ようやく理解できた。彼には全く関係ないはずの……言ってしまえば自業自得でしかない私の苦痛に、どうしてあそこまで真摯に向き合ってくれたのか。だけど――
『……身勝手な思惑だなんて、言わないでください。例え贖罪でも、私は一向に構いません。私は貴方の言葉に、誠実さに、優しさに、温かさに……本当に、本当に救われたのですから。だから……本当にありがとうございます、夜野さん』
『……藤川、さん……』
そっと夜野さんの手を取って、ありったけの心を込めて感謝を伝える。すると、少し間があった後――
『……こちらこそ、本当にありがとうございます。藤川さん』
そう、穏やかな微笑みで謝意を伝えてくれる夜野さん。私のよく知る、私の好きな笑顔で。……よかった、ちゃんと伝わったみたいだ。
……ところで、それはそれとして……この流れで尋ねることでもないのだけど……それでも、話の中でどうしても気になっていたことがあって――
『……ところで夜野さん。つかぬことをお伺いしますが……今、おいくつですか?』
『へっ? あ、はい、今年で31を迎えました』
『嘘でしょ!?』




