二人の居場所
「冷めない内にどうぞ、百桃さん」
「ありがとうございます、桜雪さん」
リビングにて、可愛い木製のマグカップを手渡してくれる桜雪さん。ここに来た時いつも淹れてくれる、温かいココアだ。
「……それにしても、いつも申し訳ありません。このような時間に足を運んで頂くことになってしまって」
「気にしなくて良いですよ、桜雪さん。私が来たいから来てるだけですし……それに、そもそもこの時間に来ることになるのも、どちらかと言えば私の都合じゃないですか」
言葉通り申し訳なさそうに話す桜雪さんに、軽く首を横に振り答える私。実際、彼が気にしなきゃならないことじゃないしね。
私は現在、このアパートに住んでいない。就職後、初任給が入ってすぐ別のアパートに移り住んだから。一番の理由としては、就職を機に一人前の大人として自立したかったから。
尤も、それだけならきちんと家賃を納入すれば良いわけで、桜雪さんのアパートを離れる必要はなかったかもしれない。だけど、入居当初から恋人の振りをしておいて今更ではあるが、やはり同じアパートの大家と入居者がそういう関係というのはあまり宜しくはないと思う。以前母の言っていたように、大半の居住者は彼が私を特別扱いしてると思っているだろうし。……まあ、事実そうなんだけど。
「――それに、ちょっと楽しくないですか? すっかり暗くなった頃に、こうして人目を忍んで逢うのって。なんだか、平安時代における上流階級の恋愛みたいです」
「……まあ、貴女がそう仰るなら」
そう伝えてみると、少し呆れたように淡く微笑み答える桜雪さん。私の方は既にこのアパートの住人でないとはいえ、私達の関係は総じて当アパートの居住者の歓迎するところではない……いや、端的に言ってしまえば普通に妬まれている。なので、極力人目につかないよう暗くなった頃に訪れているわけで。
ちなみに、退去理由の一つ――同じアパートにいるのが良くないからという理由を伝えたところ、彼はそれなら自身もここを出るという意向を伝えてくれた。だけど、私は首を横に振った。もちろん、桜雪さんの気遣いは嬉しいけど……彼には、このアパートにいてほしかった。やっぱり、ここが私達二人にとっての居場所だと思うから。
「――そういうわけで、そのお客さまの申請手続きにすごく手間取ってしまって。その間にも、窓口には長蛇の列をなしていますし。今日はなんだか、一段と疲労感を覚えましたね……まあ、私が未熟なのが原因なのですが」
「……そうでしたか。それは大変でしたね。本日もお疲れ様です、百桃さん」
円卓で食事を楽しみつつ今日の出来事を話すと、優しい微笑で労ってくれる桜雪さん。……まあ、分かってて甘えてるんだけどね。
ちなみに、時間が時間なだけに訪れるのはほとんど休日の前夜で。区役所は土日祝が休日だから、基本的に金曜日や土曜日ということになる。今日は数少ない祝日の前日だけど。
そして、来た時はいつも桜雪さんがご飯を作ってくれている。今日のメインはヤンニョムチキン……うん、今日も最高に美味しいっ。
その後も閑談を交わしつつ食事を終え、二人で食器を洗った後、再びゆったりとした時間を過ごす私達。すると、徐に立ち上がりキッチンへと向かっていく桜雪さん。きっと、飲み物を用意してくれるのだろう。そんな彼の背中に、ほとんど呟くようにポツリと話し掛ける。
「……ねえ、桜雪さん。私達、少しは強くなれたかな?」




