開き直ったドアマット令嬢は推し活のために断罪されることにした。
できる妻の朝は早い。
カリン・エルメロイの活動開始時刻は早朝どころか、なんならまだ深夜じゃね? くらいの時間からスタートする。
部屋は勿論チリ一つなく清潔に。
旦那さまが袖を通す上着は皺もほつれもなく整え済み。
朝食作りからテーブルセットまでの流れるような動作は手慣れすぎてもはや本職と言ってもいいレベルだ。
どう考えても女主人が一人でやることではない。
が、一瞬でも愛する旦那さまを鑑賞できるというのならば全く苦にならないから不思議である。
「あ〜本当、属性:ドアマット令嬢で良かったー! この身体超タフだもん」
色んな技術身につけといてよかったーと虐げられた過去ですらポジティブに受け止めるカリン。
ドアマット令嬢の定義が揺らぎそうではあるが、カリンからすればそんなの知ったこっちゃない。
「旦那さま喜んでくださるかしら?」
わくわくという効果音が聞こえそうなくらい万全の状態で出待ちもといお出迎えの準備が整ったタイミングで控えめな音と共にドアが開いた。
中を見た途端にチッと舌打ちした男性はカリンが3時間前から待ち侘びていた相手、ヴァルジリオン・エルメロイ公爵。先日正式に籍を入れた最愛の旦那さまである。
「お早うございます、旦那さま! 本日も素晴らしい朝ですね!!」
それはもうハイテンションで元気よく朝の挨拶を行うカリン。
「今日は土砂降りだが?」
しらっとした声で窓の外を指差すヴァルジリオン。
だが。
「天も旦那さまの尊さを称えて涙を流しているのでしょう。さすがですわ」
キラキラとした曇りなき眼で豪速球を打ち返してくるカリン。
何がさすがなのか1ミリたりとも理解できないが、ここで反論すればその後ひたすら褒め称えられるという人生上経験したことのない口撃に合うのでヴァルジリオンはため息をついて呑み込んだ。
代わりにヴァルジリオンは周囲に視線を彷徨わせる。
数日前まで廃墟同然だったとは思えないほど整えられた部屋と、テーブルに載せられた温かい食事。
この家には使用人は一人もいないというのに、彼女は一体いつからコレを準備したというのか。
「俺に構うな、と言ったはずだが」
鋭く冷たい視線を向ければ、
「はぅぅーーっ。まるでゴミでも見るかのような冷たい視線。身も凍るような低音ボイス。完全解釈一致!!」
と宣う始末。
何故そこで胸を押さえて身悶える。自分でいうのもなんだが、普通ならここは怯えて震え上がるところではなかろうか。
「お前、頭沸いてんのか」
「新妻相手になんて容赦ない蔑み。でも旦那さまがやるとご褒美でしかない!」
と、何を言っても喜ばせる結果にヴァルジリオンは軽く頭痛を覚える。
突然妻になったこのカリンという女は、全く堪えない上にまるで聞く耳をもたないのである。
「はぁ、勝手にしろ」
何故自分の方が折れねばならない。
少々イラつきながらもヴァルジリオンは席につく。
「あれ、旦那さま。今日は朝ごはんを召し上がってくださるのですか!?」
「悪いか?」
「いいえ! 滅相もございません!!」
わぁっと心底嬉しそうに目を輝かせたカリンは、手慣れた様子でコーヒーを淹れる。
自分の態度など決して褒められたものではないというのに、何がそんなに嬉しいのか。
「物好きが」
そんな彼女に悪態をつけば、
「ふふっ、今日もいい一日になりそうですね」
彼女はふわりと幸せそうに笑ってとてもいい香りのするコーヒーを差し出した。
**
侯爵令嬢、カリン・エステラードはこの世に生を受けて18年、他人に振り回され踏みつけられても耐えるのが当たり前だと思っていた。
……ほんの数日前までは。
「ははっ、嘘でしょう」
過労で倒れた翌日、突如として蘇ったのは使い潰された前世の記憶。
主張するのが苦手で、押し付けられても嫌とはいえず、苦労して苦労して苦労しても報われなかった前世。
そんな前世の自分が読んでいた小説『聖女の最愛』に登場する、侯爵令嬢カリン・エステラードにどうやら転生しているらしかった。
鏡を見ながらペタペタと自分を触る。
18年カリンとして生きてきた記憶も確かにあるので今更だが、自分をみてしみじみと思う。
「生まれ変わっても、私ってヒロイン向きじゃないんだな」
髪色はありふれたハニーブラウンだし、目の色も茶系。
顔立ちは前世より可愛いけれど、綺麗な令嬢達の中では埋もれてしまうだろう。
「あれ? 待って。カリン・エステラードって確か」
小説の『カリン』について思い出していると、
「カリン! 私は真実の愛を見つけたんだ」
ノックもなくバンッと扉を開け開口一番にそんな言葉を聞く羽目になった。
「…………フレディ様」
こんな世迷言を恥ずかしげもなく宣う相手なんて、自分の婚約者であるフレディ・リーンハイル以外いない。
これで王太子。いくら政治的に優位であるエステラード侯爵家が後ろ盾になったとはいえ、よく王太子になれたなこの人とカリンは内心で盛大にため息をつく。
「フレディ様、私現在療養中なのですが……その話今聞かなくてはなりませんの?」
暗に帰ってくれというカリンの心情なんて微塵も汲み取る気のないフレディは、
「なんだ、その言い方は」
じとっとカリンを睨む。
心底不満げな声をあげるフレディに心から問いたい。
お前こそ何言ってんだ、と。
仮にも自分は彼の婚約者だ。その婚約者が倒れたというのに、だ。
「この私が運命の相手に出会ったというのに、共に喜べないなんて君はそれでも婚約者か」
と踏みつけてくる始末。
ていうか、過労で倒れた原因の半分はお前だからな!? という言葉を王族相手に言えるわけもなく、怒鳴られてズキズキと痛む頭を押さえながら、
「何故、フレディ様はそれを私にいうのです?」
カリンは一応対話を試みる。
「なんで、って君は私の婚約者だろう?」
はっ、と小馬鹿にしたようにフレディは宣う。
イラッとしつつも、悲しいかな厳しい淑女教育と今までの習性でカリンはぐっと耐えてしまう。
「確かに私は婚約者ではありますが、婚約破棄をお望みなら陛下のご裁可が必要でございます。なのでまずは父と陛下にご相談なさってはいかがでしょうか?」
婚約者をやめられるならこんな王太子喜んで差し上げたい。
そのための書類の準備くらいなら手伝ってやらんこともない、と粛々と婚約破棄までの行程を思い描いていると。
「カリンは馬鹿なのか? お前を娶らなければ私は王太子でいられないだろう?」
はっ、と小馬鹿にしたようにフレディは宣った。(本日二回目)
なんでそれは理解できるのに、相手を尊重して大事にするという発想に至らないんだろうか? この男は。
「では、相手の方を愛人としてお迎えしたい、という事でしょうか?」
了とは言い難い上、婚約段階で愛人の心配までしなくてはいけないなんてとため息しか出てこないカリン。
「愛する彼女を愛人に据えろだと!? お前はなんて非情なことを」
「では、どうなさりたいので?」
理不尽な非難を受け、理解を諦めたカリンはこの無駄な時間を終わらせたくて率直に尋ねる。
「察しが悪いな。第二妃にするんだよ、カリンを」
さも名案とばかりに迷言を量産するフレディ。
「フレディ様。我が国は王族であっても重婚できません。よって、側室を持つことは不可能です」
王国法にきちんと規定されているというのに、一体何を言ってるんだ。
しかも現在の婚約者である私が第二妃なのかよ、とツッコミどころしかないのだが。
「それをなんとかするのがお前の仕事だろう」
フレディは当然のようにそう言った。
王太子にどうともできないことを一介の侯爵令嬢にどうにかできるわけないだろう。
無茶が過ぎるがコレは今に始まったことではなく、この阿呆を助長させた原因の一人は自分なのだろうなとカリンは今更ながら自覚する。
「えーっと、ちなみにお相手は?」
「聖女アイネだ」
「…………。」
やっぱりか、とカリンは先程思い出したばかりの前世の記憶を脳内で再生させる。
聖女アイネ、とはこの物語のヒロインである。
マルール子爵の庶子であったアイネが聖女の力に目覚め、子爵家に引き取られるところから始まるこの小説は、アイネが逆境にも負けず明るく元気に社交界を渡り、愛する人と幸せを手にするまでの物語、なのだけど。
「フレディ様、念の為お聞きしますがアイネ様とはいつ恋仲に? 彼女を王太子妃に据える点において、彼女の意思は確認なさっているのですか?」
「恋仲だなんて。まだ私が想いを寄せているだけだが、これから彼女とは愛し合う予定だ」
照れ照れしながら恥ずかしげもなくそう宣言するフレディ。
コイツ、マジで毎朝寝起きに足の小指ぶつければいいのに。
なんて、言えるはずもないので。
「……そーですか」
カリンは心底どうでも良さそうな顔で相槌を打った。
この物語において残念ながら聖女アイネの最愛の相手はフレディではない。フレディは所謂当て馬で、恋物語を盛り上げるための障壁なのだけど。
「つまり、アイネ様の意思を無視して王太子妃に据える、と。私を第二妃にして」
現実的な話をすれば、王国法上では重婚はできないことになっている。
そうでなかったとしても社交界でも政界でも最大派閥を持つエステラード侯爵家が娘を第二妃にするなんて話を受け入れるわけもない。
にもかかわらず、残念ながら不幸が重なりこのままだとこれは実現してしまうのだ。
何故ならそんな不幸に巻き込まれた聖女アイネが愛する人に助け出されるのがこの物語の見どころだから。
さすがロマンス小説。ご都合主義が過ぎる。
「意思を無視してなんて、そんなことはないが。私は王族で、手に入らないものなど何もない存在だぞ? 美麗で誰もが傅くそんな私から愛されて、何故拒む?」
何故そんな分かりきったことを聞くんだとばかりに心底不思議そうな顔をするフレディ。
この男、靴に毎日小石が入って歩くたびに地味にダメージを受ければいいのに。マジで!!
小心者なので地味な呪いしか思いつかないカリンは、
「では、私は? 王太子妃として支えるべく尽くしてきた私はフレディ様にとってなんなのです?」
ただ淡々とした声でそう尋ねた。
「何、って婚約者以外の何者でもないだろ。それに別に私に仕えるのに王太子妃である必要もないだろ。カリンは私のモノで、第二妃だって私の妻であることに違いないのだし」
と、さも当然とばかりにカリンを踏みつけていくフレディは、
「じゃあ、任せたぞ。あ、そうだアイネに贈る彼女が喜びそうなプレゼントの調査も頼んだぞ」
そう言い残し、ウキウキしながら帰って行った。
「何、それ」
パタン、と閉じたドアに向かってカリンはそうつぶやく。
でもそのつぶやきに共感してくれる声はない。
カリンは小説の内容を頭に浮かべる。この小説において、カリン・エステラードはあまり重要人物ではない。
だが、読者たちはコメント欄で彼女のことをこう呼んでいた。
『ドアマット令嬢』と。
ヒロインとは違い救いはなく、ただただご都合主義を成立させるために存在するカリン・エステラード。
前世で読んだ時、正直に申告すれば彼女よりはマシだ、と思ったこともある。
そして今、何故か自分はそのカリン・エステラードとして生きていて。
「また、今世も踏みつけられるんだわ」
前世でも散々踏みつけられたのに? とお先真っ暗な未来に絶望しかない。
正直ヒト様の恋愛事情なんて心底どうでもいい。
ぎゅっとシーツを握り締めたカリンは、ハッと彼のことを思い出す。
そう、この世界には自分の"推し"がいるではないか。
「どうせ踏みつけられるなら」
ドアマット令嬢にだって、踏みつけられる相手を選ぶ権利くらいはあるだろう。
躊躇うだけで、終わってしまった前世。
死ぬまで分からなかったけど、もう後悔なんてしたくない。
原作なんか知るか、と心を決めたカリンは今世推し活に全振りすることにした。
**
ここに来るまで意外と早かったな、とカリンは感慨深く思いながら、鬱蒼としたその土地に足を踏み入れる。
断罪の舞台は派手好きなフレディのためにカリンが自分の手で用意した。
もっとも、卒業パーティーの場でずらりと並べられた罪状には身に覚えのないモノも沢山紛れていたけれど。
フレディの口から告げられたのは、婚約破棄並びに黒曜宮に永久追放された一級犯罪者に嫁ぐことだった。
黒曜宮の名に会場はざわめいた。そこには凶悪で冷酷な元騎士が封じられている。その彼に嫁ぐということは、事実上の死刑宣告だった。
会った瞬間首を落とされるのでは? という囁きに、涙ひとつこぼさず粛々とカーテシーをして了承を告げたカリン。
処分が確定し、泣きながら手を離してくれた両親には申し訳ないけれど、カリンはずっとこの日が来るのを心待ちにしていた。
何故なら、ここには彼がいるはずだから。
騎士達の監視の下、カリンは手入れがされていない石造の階段を一段ずつ上がる。
送るのはここまでだ、と堅固なドアの前で告げられ鍵を渡された。
どうやらお前が開けろという事らしい。
それは別に構わないが、まるで忌々しいモノでも見るかのように黒曜館を睨みつける騎士たちの視線が気に食わない。
中にいるのは一応貴人だというのに、何という扱いだと舌打ちしたくなったカリンは、
「ここまでで結構ですわ」
ツン全開で端的に別れを告げる。
「しかし」
帰れと言われ躊躇う騎士達に、
「別に私の亡骸を回収して来いとは言われていないでしょう? それとも、一緒に心中してくださるの?」
カシャッとカリンは手元につけられた鎖を鳴らす。
「どうせ、逃げられませんわ。どんな風に扱われても」
それは罪人につけられる鎖で指定された範囲から外に出た途端、ヒト一人なんてなんなく吹き飛ばす爆弾に変わる代物だった。
それを知っているからだろう。少しだけ同情的な表情を浮かべた騎士達は、それ以上何も言わず立ち去った。
「さて、無粋なヒト達にはご退場頂きましたし、これで心置きなく推し活ができますわ!」
よし、と気を取り直したカリンはドアに鍵を差して回した。
次の瞬間、カリンが開けるより早くドアが開き、
「こんなところで、何をしている」
殺気に満ちた声が耳に響いた。
カリンは驚きのあまり大きく目を見開く。
シルバーブロンドの髪を持ち、今にも射殺さんばかりのこちらを睨むのは光の加減で煌めく神秘的な翡翠眼。
前世から推しているのだ、見間違うはずがない。
「答えないなら今すぐ」
「……かっこいい」
「は?」
「えっ!? えーーー!! 声までイケメンっ!! えっーー何コレ、イメージ通り過ぎなんですけど!!」
長い獲物の鋭い切先が喉元に当てられ、今にも斬り捨てられそうな状況だというのに頬に手を当て顔を赤らめたカリンは、
「美しく人目を引くシルバーブロンドの髪に加え、世界一美しいと讃えられるエメル湖のように澄んだ翡翠眼をお待ちだなんて、まさに至宝と呼べるレベルの美丈夫ですわ! 眼力だけで誰もが泣き出し自白するとか、女嫌いで近寄る淑女は例外なく冷たく袖にされるなんて逸話は有名ですが、実は情に厚く仲間のために自ら憎まれ役を引き受け立ち回る器用貧乏さは胸キュン必至! はぁーもう! 存在が尊いしかありませんわ」
興奮気味に早口で澱みなく思いの丈を言い切った。
「はぁ〜ほんっと生きててよかった! ヴァル様、この世に生まれてきてくださってありがとうございます」
そしてヴァルジリオンを拝み倒す始末。
今まで色んなタイプの人間を相手にしてきたがこのパターンは初めてだと困惑するヴァルジリオン。
「もう一度問う。お前は一体何者で、何の目的でここに来た」
刺客には見えないがここに来る人間なんてまともなわけがないと、警戒心を解かず冷たく睨むヴァルジリオンにキョトンと目を瞬かせたカリンは、
「私とした事が名乗りもせず、失礼いたしました」
淑女らしく背筋を整えたカリンは、
「エステラード侯爵家長女、カリン・エステラードと申します。王命により、本日よりヴァルジリオン・エルメロイ公爵閣下の妻になるために参りました。カーテシーは、このような状態ですのでご容赦くださいませ」
首に当てられた剣を指して微笑んだ。
「妻、だと?」
「あれ? 事前に王家からご連絡が来ていませんか?」
カリンにそう言われ、そういえば珍しく王家から書状が届いていたなとヴァルジリオンは思い出す。
「ご不要かも知れませんが、こちら写しになります」
手際よく差し出された手紙には確かにカリン・エステラードとの婚姻を命じる内容が書かれていた。
「……冗談じゃない」
不快、を全面に出し、ドス黒いオーラを背負ったヴァルジリオンはギロッとカリンを睨みつけると、
「帰れ」
短くそう命じ、書状の写しを破り捨てた。
ストン、と地べたに座り顔を伏せ肩を震わせるカリン。
貴族の令嬢など、どれも同じ。泣き出し、怯え、喚き立てる、面倒な存在。
腰が抜けたか、とヴァルジリオンが追い返す手間に舌打ちした時だった。
「はぁ、なんてこと! イケメンは睨みつける凄んだ顔まで美しいなんて。まるで歌劇のワンシーンのようでしたわ」
我が人生に一片の悔いなし、とガッツポーズを決めたカリンは、
「ヴァル様、ファンサありがとうございます!!」
ふわりと幸せそうに笑った。
この状況で泣かない女は初めてだった。
それよりも。
「ファン、だと?」
自分とは無縁の単語に眉を寄せたヴァルジリオンに、
「はい! 私、ヴァル様の(前世からの)ファンでして」
カリンは手持ちのバッグからノートと姿絵を出す。
「華々しい騎士団長時代も素敵でしたけれど、私としてはこの騎士見習い時代を推したいですわ」
びっしり書かれたその記録を大事そうに撫でたカリンは、
「本来王族という立場であれば免除される苦役を、現場を知らず何故上に立てると自ら志願される高潔な精神も見事ですが、そこから騎士団の劣悪な状況を改善させ、我が国の軍事体制を変えさせたのは大きな功績と言えますわ」
ヴァルジリオンのどの辺りがすごいかを熱弁する。
この辺は番外編で軽く描かれていたけれど、せっかく同じ世界にいるならばと王都にいる間にヴァルジリオンについて可能な限りカリンは調べた。
結果、カリン的には全て萌え要素しかなく、ファンレベルは強火担から業火担に上がった。
「はっ、俺が何者か随分詳しいようだ。なら、何故俺がここに幽閉されているかも知っているだろう」
「勿論、存じておりますわ」
ファンなので! と元気よく回答したカリンは、
「そして、私も罪人なのです」
カシャッと手首につけられた鎖を鳴らした。
ヴァルジリオンはカリンの手首につけられた鎖を凝視する。かつて、騎士団にいた頃何度も使用したそれは一級犯罪者につけられる鎖で、鎖に込められた命令に逆らえば容易く命を奪う代物だった。
「お前、一体何を?」
「聖女様に毒を盛りました」
あとは嫌がらせを少々、と全く悪びれることなくハキハキと答えるカリンは、
「愛して欲しいとは申し上げません。軒下でも私は構いませんし、ヴァル様を煩わせたりいたしませんわ。名目上だけで構いませんので妻にして頂けませんか?」
私結構使えますよ、とプレゼンを締め括った。
「断る。第一お前はフレディ王太子の婚約者だろうが」
ヴァルジリオンが王都を去って数年経つが、記憶違いでなければフレディが立太子できたのはエステラード侯爵家の後ろ盾があったからだ。そして、エステラード侯爵家には娘は一人しかいない。
つまり目の前の彼女がそうであるはずなのだが。
「まぁ、私みたいな地味で目立たない引きこもりの存在まで把握してくださっているなんてさすがヴァル様ですわ!」
カリンはぱぁぁーっと嬉しそうに顔を明るくする。
「ですが、少々情報が古いですね。私フレディ王太子から婚約破棄されておりますの。そして、私をここに送り込んだのも彼ですわ」
「は? 奴に一体なんの権限があってそんな暴挙を」
「これはまだオフレコですが陛下が病に臥せってしまいまして。現在フレディ王太子殿下が全権代理を務めてらっしゃるのです」
なのでご安心ください、と胸を張る。
あのバカが全権代理なんてどこに安心できる要素があるのか不明だが、そんな状況で強欲な王家が果たして本当に彼女を手放すだろうか?
そもそも彼女からもたらされた情報はどこまで信用できるものか、と考え込むヴァルジリオンに、
「お嫌、ですわよね。こんな私との結婚なんて」
ここに来て初めてカリンは困ったような顔を見せた。
自信無さげに目を伏せて、言葉を呑み込みぎゅっと手を握り締めて耐えている。
その様子はかつて王城にいた時、理不尽な量の仕事を押し付けられそれらを粛々とこなしていた少女の姿を思い出させた。
「お前は……」
あの時のとヴァルジリオンが確認するより早く。
「婚姻をご承諾頂けないなら、ヴァル様の手で楽にしてくださることを所望します」
顔を上げたカリンは困った顔で微笑むとはっきりとそう言って頭を下げた。
おそらく、こちらが本命の願いだったのだろう。そう決めていた、とばかりにキャメル色の瞳は強い意志を秘めていた。
「断る。何で俺がそんな事を」
かつて何人もの命をこの手で葬ったけれど、大義なく誰でも彼でも斬り捨てる殺人鬼に身を落とした覚えはない。
それに突然現れたカリンは、少々変わってはいるものの、どう見ても一級犯罪者には見えない。
そんな彼女を殺す理由がヴァルジリオンにはなかった。
だというのに。
「どうせ、あと6時間以内にヴァル様の妻になれなければ、この身は爆ぜてなくなります。黒曜館の敷地外に出てもそう。ここを追い出され、私がふらふらとどこかを彷徨ってそのまま息耐えたら、お優しいヴァル様のお心を煩わせてしまうでしょう?」
ファンなので、とノートを掲げたカリン。
確かに気がかりにはなるかもしれない、と己の性分を見抜かれたヴァルジリオンは舌打ちする。
そんな彼を見ながらクスクス笑ったカリンは、
「きっと、ヴァル様ほどの腕をお持ちでしたら苦しまずに済ませてくださるでしょうし。何より最期にこの目に映る光景があなた様なら、死ぬのも怖くありません」
「何故だ」
「顔がタイプなので」
どうせならイケメンに葬られたい、と力強く言い切ったカリンはすっと立ち上がり、
「不要な妻だというのなら、どうぞヴァル様自身でご処分ください」
綺麗なカーテシーをして見せた。
多分カリンは何を言っても引き下がらず、そして彼女の手首につけられた鎖の効果は嫌というほど知っている。
深い深いため息をついたヴァルジリオンは、
「公爵、とは名ばかりで今の俺は何も持っていない」
騎士団長という剣を振るう大義を失い、王位継承権は剥奪された。
代わりに与えられた公爵位は一代限りで、守るべき領地も領民もなく、資産は全て取り上げられた。
王族であるが故に殺されず、ただこの土地に幽閉され存在を忘れられているこの国の第一王子。
それが今のヴァルジリオンだ。
「それでも、そんな俺の妻になりたいか?」
「はい! 私ヴァル様のファンなので」
見ているだけで幸せになれる自信があります! と清々しいほど一貫した主張で笑ったカリン。
土で汚れてしまっていたが、彼女が着ているのはウェディングドレスであると今気がついた。
落ちている彼女の鞄を勝手に漁れば、記載済みの婚姻届がすぐに見つかった。
これには特殊な魔法がかけられていて、お互いの意思さえあれば婚姻はすぐに成立する。
「俺に干渉するな。そして、俺がお前を愛することはない。だから夫としての役割を期待するな。文句は一切受け付けない。あとは勝手にしろ」
ヴァルジリオンは淡々と冷たく告げると婚姻届にサラサラと何かを書き足す。
「ヴァル様?」
不思議そうに首を傾げその光景を見ていたカリンはヴァルジリオンによって突然動きを封じられ、そのまま口付けられた。
驚き過ぎて目を閉じることさえできなかったカリンはただされるがまま受け入れ、長いような一瞬が終わる。
「愛称で呼ぶな。俺はお前と親しくなる気はない」
冷たい視線と共にそれだけ言い残し、ヴァルジリオンはさっさと家に入ってしまった。
「へっ、えー!? えっ----????」
一体何が起きたのか、と惚けていたカリンの手から鎖が落ち、契約済みになった婚姻届が消える。
つまり、カリンに科された刑が執行されたことを示していた。
婚姻の儀式については知っていたけれど。
「推しとのキスなんて、奇跡みたいな大イベントちゃんと覚えとけばよかった」
一生分の運を使ったかもしれない、とへなへなっと腰を抜かし、耳まで真っ赤になったカリンはしばらくその場から動けなかった。
習性というのは恐ろしいもので、電池が切れるように眠った後、日が昇るより随分早い時間にカリンはいつも通り目が覚めた。
「……生きてる」
手首に嵌められていたはずの鎖はなく、昨日の出来事は夢ではないと知る。
「ふわぁぁーー/////」
そこから先芋蔓式に昨日の出来事まで思い出してしまったカリンは言葉にならない叫び声を上げる。
顔を両手で覆ったままソファで悶えたカリンは、
「またヴァル様に助けて頂いてしまったわ」
この屋敷の主人の事を思い浮かべる。
前世『聖女の最愛』を読んだ時、彼だけが唯一ドアマット令嬢カリン・エステラードを気にかけ庇ってくれた。
その描写はたった一度、それも数行程度の出来事だったけれど。
それでも当時凹みまくり、何となくカリンと自分を重ねてしまっていた時だったから、いいように使われていたカリンがヴァルジリオンに気にかけてもらえたことで、自分まで救われたような気がしたのだ。
ちなみにその出来事は今世でもあったけれど、前世を思い出す前で使われることに慣れ過ぎていたカリンは、助けてもらえたことに驚き碌碌礼も言えず終わってしまった。
そんな些細な出来事だったから、きっとヴァルジリオンは覚えていないだろう。
だからヴァルジリオンからすればカリンの存在はほぼ初対面の赤の他人だというのに。
彼は何の得にもならない自分と婚姻を結び命を助けてくれたのだ。
『俺に干渉するな。そして、俺がお前を愛することはない。だから夫としての役割を期待するな。文句は一切受け付けない。あとは勝手にしろ』
確かに冷たい物言いだったけれど、ヴァルジリオンの生い立ちを知っているので腹が立つことはない。
何より突然押しかけてきた女のことなんて見捨てることだってできたのに、彼はそうしなかった。
「はぁーヴァル様紳士過ぎる。本当好き。前世から大好き。推せる要素しか見当たらない」
ずっとヴァルジリオン推しだった。
原作を読んでいた時はラストで聖女と結ばれず『聖女様見る目がないっ!』なんて文句を言ったりしたけれど。
今なら権力や資産よりも幼馴染との最愛を選んだ原作の聖女の選択に素直に感謝したい。
でなければ、自分の性格上きっとヴァルジリオンに会いに来ようとは思わなかったから。
「さて、せっかく助けて頂いたのだもの。ドアマット令嬢の本領を発揮して見せましょう!」
どうせ踏まれるなら"推し"がいい。
なんて掃除のしがいがありそうなのかしら、と鼻歌どころかスキップしそうなハイテンションでカリンは廃屋もとい新居の掃除に取り掛かった。
「これは一体……」
ヴァルジリオンはあまりの変わりように目を疑う。
廃墟と呼んでも差し支えなかった屋敷は隅々まで綺麗に掃除され、廊下にはどこから出てきたのか分からない絵画が飾られ、ところどころ花が生けられており。
必要最低限揃っていればいいと放置していたリビングには細かな刺繍が施されたカーテンがかけられ、手入れされた家具がセンス良く配置された快適空間に。
テーブルクロスがかけられたそこには、一人で済ませる簡素な食事ではほぼ使う事のなかったカトラリーがずらっと並び、出来立ての温かな朝食が用意されている。
誰がこんなことを? と我が目を疑うヴァルジリオンの耳に、
「おはようございます旦那さま。早朝からの鍛錬お疲れ様でございました」
鈴の鳴るような声が届く。
そうだ。昨日成り行きで彼女をここに置く事にしたんだったとカリンに視線を向ければ、
「旦那さまがこちらにお住まいになってからもうかれこれ5年になりますのに、現役を退いたとは思えないほど素晴らしい剣捌き。旦那さまが行えばただの素振りがさながら剣舞のよう!! 芸術的な筋肉美から察するに毎日鍛錬なさっているのですね。その向上心の高さ、さすがです!!」
まるで見ていたかのような口ぶりで興奮気味に語った。
「旦那さま、だと」
ヴァルジリオンは聞き慣れない言葉に眉を寄せる。
「はい、昨日正式に婚姻を結びましたし、愛称で呼ぶな、とのことなので」
照れ照れしながらカリンはそう主張する。
まぁ、確かに婚姻は結んだし愛称で呼ぶなと言った手前呼び方については良しとする。
「なら、その格好はなんだ」
「ふふふふふっ、こんな事もあろうかと用意しておきました!」
ドヤッとスカートの裾をふわりと持ち上げ、くるりと回ってみせたカリンが着ているのはメイド服だった。
「ぶっちゃけジャージとTシャツの方が断然動きやすいんですけど、やはりここはメイド服一択かと」
メイド服には夢とロマンが詰まってますと力説するカリン。
ジャージとTシャツは知らないがメイド服と並べられた所から察するにおそらく作業着の一種なのだろう。
「……俺は、使用人を娶った覚えはない」
素っ気ないヴァルジリオンの物言いなどまるで気にしていないカリンは、
「ですが、当家には現在使用人がおりませんし、私これでも家事、特に料理は得意でして」
こちらに置いて頂くのですからお任せくださいと胸を張る。
「さて、そんなことより食事にしましょう! 旦那さまのお好みが分からなかったので少量ずつ用意してみましたが、旦那さま朝はパン派ですか? ご飯派ですか? コーヒーと紅茶どちらに」
「俺に干渉するな、と言ったはずだ」
ヴァルジリオンの冷たい声がピリリと空気を揺らす。
そこでカリンは冷や水を浴びせられたかのように正気に戻る。
「申し訳ありません。出過ぎた真似を」
推しを前にはしゃぎ過ぎた、とすぐさま頭を下げたカリンに、
「俺に構うな」
それだけ言い残してヴァルジリオンは去っていった。
「……失敗、しちゃった」
去っていく足音を聞きながら、そうつぶやいたカリンは、テーブルに残された手付かずの食事をチラ見する。
「毒、は入ってないけど。ヴァル様の今までを思えば警戒されて当然よね」
だが、しゅんとなったのは一瞬で、
「はぁ、それにしてもヴァル様今日も朝から素敵だったぁ。鍛錬後の色気がヤバいっ。しかも会話までしてくださるなんて」
朝からヴァル様鑑賞できるなんて幸せ過ぎると秒で立ち直るカリン。
ドアマット令嬢歴が長く阿呆の婚約者時代の扱いが散々だったので、冷たくされた程度ではへこたれない。
「よし。反省はここまで。せっかくドアマット並みに目立たない容姿をしてるのだし、次は完璧に景色と同化して見せますわ」
推しの邪魔をせず、ひっそりこっそり楽しんでこそ正しい推し活だわ! と"干渉"しない方向でヴァルジリオンを愛でることにした。
**
ヴァルジリオンはブロッド王国第一王子として生まれた。
ヴァルジリオンの母エリスはリベラ辺境伯家の出身だった。
貿易が盛んで様々な国の文化が根付いて栄えており、先進的な考えを持ち勢いがあったリベラ辺境伯家と縁を結ぶ。王権を安定のために選ばれた、よくある政略結婚。
王都の人間からしたら、社交シーズンに必要な夜会にしか出席しないリベラ辺境伯家から王妃が選ばれたのが面白くなかったのかもしれない。
彼らはエリスを王妃と認めなかった。
誰のおかげで自分たちの暮らしが豊かになったのか考えもしないのだろうか? リベラ辺境伯家のおかげで安定的に手に入れられるようになった砂糖やワインを贅沢に使いながら、彼らはエリスを貶める。
『何もやましいことはないのだから、堂々としていればいいのよ』
尤も、エリスはやられっぱなしで済ませる人ではなかった。
『違う文化が根付には時間がかかるけれど、諦めなけれいつか花は咲くから。大丈夫、私にはヴァルがいるもの』
辺境地で多民族や他国の人間と渡り合ってきたリベラ出身の彼女は、辺境伯家の名に恥じない聡明で強かで、優しい人だった。
そんな母を見習って、ヴァルジリオンは第一王子としての責を果たすべく幼少期から研鑽に励んだ。
自分が国を継ぐに相応しい王太子になれば、母への風あたりも弱まるだろう。
そう、思っていた。
母が、目の前で毒殺されるまでは。
母の死を前に悲しみに沈みながら、それでも王子として気丈に振る舞うヴァルジリオンだったが、そんな彼に突きつけられたのは"果たして第一王子は本当に王の子なのか?"という謂れのない中傷だった。
確かに、ヴァルジリオンはこの国の王族に多い輝くようなプラチナブロンドの髪は持っていなかった。
顔立ちも髪色も父ではなく母に似ていたし、剣のセンスは母方祖父に似たのだろう。
それだけ、なのに。
実しやかに囁かれたその波紋は、まるで遅効性の毒のように広がってヴァルジリオンの立場を悪くしていった。
王妃の席をいつまでも空けておくわけにはいかない、と臣下の進言を受け入れた父が新たに王妃に据えたのは元々父の婚約者候補に上がっていた王都で幅を聞かせていたジルコニア公爵の娘バーバラ。
父と現王妃であるバーバラの間に新たに王子が生まれてからはヴァルジリオンは更に苦しい立場に追いやられた。
それでも王城を去らなかったのは、母であるエリスの死の真相が知りたかったからと、母が命を賭して守ろうとした辺境地のためだった。
王太子に指名されないなら、とヴァルジリオンが身を立てるために選んだのは騎士になる道で。
自分なりに手札を増やして来たつもりだったのに、結局嵌められて全てを失い一人でこんなところに閉じ込められている。
見捨てられた王子のことなんて、誰も助けてくれない。
だが、この身に王家の血が流れる以上、真綿で首を締められるような苦しみがこれから先も続くのだ。きっと、ずっと……。
はっ、としてヴァルジリオンは目が覚める。
また、昔の夢を見た。
繰り返される悪夢に苛立ちをぶつけるように壁を殴りつけたヴァルジリオンは大きく息を吐く。
暴れたところで何も変わらない。
嫌な汗をかいたので、とりあえず水でも飲もうとキッチンに向かうためにドアを開けた。
「……コレは?」
ドアの側に小さな台が設置され、その上には薄切りのレモンが入った水差しとコップそして銀製のスプーンが置かれていた。
それはまだ冷たくて、そこに置かれてからあまり時間が経っていないようだった。
「カリン、か」
『私ヴァル様のファンなので!』
騒がしいほど称賛を並べてきたカリンの事を思い出す。
今朝手酷く対応した彼女とはあれから顔を合わせていない。勝手に差し入れられていた昼食にも手をつけなかったし、その他の変化も全部綺麗に無視をした。
あれだけ冷たくしたというのに、彼女はまだ自分に気を遣ってくれるらしい。
「わざわざ銀製のスプーンまで……どこから出して来たんだか」
水を飲むだけなら必要ないそれを置いたのは毒はないと示すためだろう。
元々ある程度の毒には耐性があるし、解毒するための知識もあるのでヴァルジリオンには不要のものであったけれど。
念の為、毒がないか確かめる呪文をつぶやき、安全である事を確かめてからヴァルジリオンはレモン水を口にする。
「……美味しい」
ただのレモン水とは思えないくらい美味しく感じたそれを飲みながら思う。
誰かに何かをしてもらったのはいつ以来だろう、と。
嫌な汗はいつの間にか引き、その晩ヴァルジリオンは久しぶりに良く眠れた。
**
「やばい、ヴァル様カッコいいが過ぎる」
部屋の大きな窓ガラス越しにオペラグラスで外を眺めていたカリンはほぅとため息をつく。
現在鍛錬中のヴァルジリオンはさすが元騎士団長と納得する逞しさで、彼の芸術的肉体美は壁画にして後世に伝えるべきではないかしら? とカリンは割と本気で思う。
そんなかっこいい推しが目の前にいるのだ。なるべくヴァルジリオンの邪魔をしないようにしようと心に決めた誓いは秒で忘れ、何も言われないのをいい事にカリンはひたすら推しの鑑賞をしまくっていた。
ヴァルジリオンがここに追いやられて5年。自分の事は自分でしてきたのだろう。薪割りも火おこしもお手のもので、自分のことはさらっと自分でこなす。
王子として生まれ、本来なら人から傅かれる事が当たり前の立場であったはずなのに、こうならざるを得なかった、という境遇が悲しくはあるけれど。
「はぁ、逆境にもめげずなんでもできちゃうヴァル様の適応力よ。すごい。かっこいい」
カリンからすればその境遇でさえ、ヴァルジリオンを輝かせる要素の一つに見えてしまう。
ヴァルジリオンが何をやっても"かっこいい"しか出てこないカリン。
王太子妃教育として国語は勿論他国の言語だって勉強したはずなのに、推しを前に彼女の語彙力は完全に消失していた。
「あーでもでも! せっかくなら私が目一杯甘やかして差し上げたいっ。こんなに素敵なお部屋も頂いてしまったし」
ここに来て数日。
どういう心境の変化なのか、急に朝食の席についてくれたヴァルジリオンからどこで寝ているのかを聞かれた。
邪魔にならないように、と元は使用人の休憩室だったのだろう小さな部屋のソファを占領していたことを申告したところ、有無を言わさず荷物を撤去され、代わりに与えられたのが日当たりのいい窓の大きな部屋だった。
「ここ、位置的に考えて一番いいお部屋よね。押しかけてきて成り行きで妻になっただけの相手にこんないい部屋与えてくださるなんてヴァル様優しすぎる」
埃っぽいのは我慢しろ、とバツが悪そうに目を逸らしたヴァルジリオンの顔を思い出し、
「はぁ、イケメンのツンデレ。破壊力やばい」
尊い、と萌え転がったカリンは、
「よし、こっそりヴァル様の生活を支えて陰ながら応援しましょう!」
ドアマット令嬢らしくお役に立ってみせるわと様々な道具を片手に飛び出した。
ここ数日で、屋敷内が色々おかしいとその変化にヴァルジリオンは首を傾げる。
掃除して綺麗になった、というレベルを遥かに超えていたるところ修繕されている。
元々水回り自体は使える状態だったが、旧式だったそれらは全て最新式の魔道具に入れ替えられているし。
蝋燭くらいしかなかった灯は、王城のモノと同種の照明に代わり、自家発電機が設置されているし。
身体が鈍らないようにとヴァルジリオンが鍛錬に使っていた一画が訓練場並みに整備されている。
どんどん屋敷が快適になっていくこの現象の心あたりは一つだけ。
が、その本人に問いただしたくてもびっくりするくらい捕まらない。
人ひとり捕まえるくらい、騎士団長であったヴァルジリオンにとって本来なら容易いことであるはずなのに、何故こうも見つからない。
だからといって"関わるな""勝手にしろ"と言った手前、部屋を訪ねて問いただすのもなぁと思案していたところ、目的の人物があっさり見つかった。
「…………コレは一体?」
「旦那さまっ!」
とても小さな呟きだったのに、声をかけられたと認識したカリンは作業をしていた手を止めぱぁぁぁーと満面の笑みを浮かべる。
ヴァルジリオン目がけ一目散にたったったった、と駆け寄って来たカリンは、
「見てくださいっ! どうですか!?」
褒めてと言わんばかりに見て見てと主張する。
何故だろう。昔拾った犬を思い出す。まぁ、王城で飼うことは許されず、泣く泣く引き取り手を見つけて手放したが。
そんな事を思い出し、"じゃなくて"とヴァルジリオンは意識的に眉間に皺を寄せる。
「何なんだコレは」
「何、って菜園ですけど?」
ごく普通の、ときょとんと首を傾げるカリン。
荒れ放題だった屋敷の庭の一画が、とても立派な菜園になっていた。
ごく普通の菜園と呼ぶにはやや規模が広い気がするが、問題はそこではなくて。
「確かに好きにしていい、とは言ったが何故野菜がこんなに」
何もなかったはずのそこにはたった数日で立派な野菜が大量に生産されていた。
一体どうやって? と訝しむヴァルジリオンに、
「大したことはしておりませんわ。ちょっと強力な栄養剤を使っただけです」
こちらを使いましたとカリンは小さな小瓶を見せる。
「昔、気まぐれに花を育てはじめたフレディ様が"そもそも植物が育つのに時間がかかり過ぎるのが悪い"などと暴論を宣いやがったことがありまして」
カリンはその時の事を思い出す。
あれは王太子妃教育の名の下、フレディの面倒を押し付けられていた時の事だった。王妃の誕生日に花を贈りたい、と言い出したフレディ。
それ自体は別にいい。王城には優秀な庭師がいるし、侍女達がきれいに花束にしてくれるだろう。
そう思い、綺麗な薔薇を見繕ってもらいにいきましょうと提案したカリンに、
『自分でやらないと意味ないだろう』
と、言った彼は超貴重種であるレインボーローズの種を雑に植えた。
いやいやいや、薔薇は花が咲くまで3年はかかるけど!?
ってか、王妃様のお誕生日来月なんだけど?
え、どうする気なの? これ。と思って傍観していたカリンに、
『咲かないな?』
キョトンと首を傾げるフレディ。
いや、じょうろで一回水やったくらいじゃ花どころか芽だって出ないよ? と内心ツッコミが止まらなかったが、何を言ってもフレディは癇癪を起こすし、指摘すれば不敬罪だと騒ぎそうなので言葉は全部呑み込んだ。
『カリン、なんとかして』
途中で飽きるだろうな、とは思っていたけれどフレディがいつも通り丸投げしてきたのはそれから5日後のことだった。
フレディのこの"なんとかして"に応えるのがドアマットの役目である。
咲かないなら、なんとかして咲かせるまで。
そうしてありとあらゆる文献を読み漁りカリンが生み出したのがこの超強力栄養剤(植物用)だった。
「まぁ強力過ぎて表には出せずお蔵入りさせてましたけど、使えそうなので持って来ました」
開発大変だったのですよーとしみじみ語ったカリンを信じられないモノでも見るかのようにマジマジと見返すヴァルジリオン。
そんな彼の視線に気づかず、
「やっぱりお野菜は新鮮なモノが食べたいですし。何より旦那さまの健康管理のためにも……」
そう言いかけたカリンは、はっとして、
「や、約束をお破りしてはいないのです!! コレはそう! お屋敷を、お屋敷のお庭を構っていた結果なのです」
と意味不明な弁明をし出す。
「庭を構う?」
「そう! お庭が荒れていてはお庭が可哀想なので、お庭を構って手入れした結果予想外にお野菜が大量にできてしまったのです!!」
ふんす、と意気込んでこの状況を説明するカリン。
いや、無理があるだろう。その言い訳は。とヴァルジリオンは思ったけれど。
「なので、旦那さまに関わりたくてこうしたわけではないのですけど、お野菜余るとダメになってしまうので……消費するの手伝って頂けませんか?」
言葉尻に近づくにつれどんどん声が小さくなっていくカリン。
多分、本人も苦しい言い訳だと気づいている。それでもカリンが押し通そうとする理由はきっと。
『俺に干渉するな』
と、自分が言ったからだとヴァルジリオンは察する。
「その……タンパク質も大事ですけど。お肉ばかり、なのは……あまり身体にいいとは……。すみません、すみません、差し出がましい事をっ。でも、騎士様は、身体が資本、ですし。ヴァルジリオン様のファンガチ勢としては見過ごせないというかですね」
悪いことなど一つもしていないのに、自信なさ気に伏せられたキャメルの瞳を持つ彼女は小さく小さく身を丸め、しどろもどろになりながら、それでも言葉を懸命に紡ぐ。
ヴァルジリオンのファンだと名乗り、とても楽し気に饒舌に語っていたその姿とはまるで違う。
カリンは今、とても勇気を出して自分の意見を言っている。それも、関わるなと言った冷たい夫のために。
ヴァルジリオンはそんなカリンを見て思う。
やはり、彼女は一級犯罪者には見えない、と。
カリンの顔はまるで処刑される数秒前の人間のように、真っ青で。
きっと、とても怯えさせてしまったのだと思う。勿論、そのつもりで冷たく突き放したけれど。
そんな相手に対してでも気遣い、尊重し、その上で意見を言ってくれる誰かはとても貴重で、その声を聞き漏らしてはいけないとヴァルジリオンは知っている。
「あのっ、旦那さまがご自身でお料理できることは理解しているのですけれど、お食事だけでも任せて頂けませんか? 毒見は目の前でしますので」
「……もう、騎士ではないけどな」
ぽつりと落ちて来たヴァルジリオンのつぶやきに、
「いいえ、あなたは騎士様です。それに、この国の第一王子ですわ」
カリンはすっと顔をあげ、
「驕らず、高潔で、腐らず、自身を律し、立ち向かうことをやめないあなたが騎士でないはずがありません。そこは譲れませんわ。誰がなんと言っても。だって、私ヴァル様のファンなので!」
真っ直ぐヴァルジリオンに意見する。
好きなモノを語るキャメルの瞳はキラキラ輝いていて、ふんすとちょっと得意げな顔は可愛くて。
「……ふっふふ、ははっ、そうか。俺はまだ騎士でいていいのか」
ヴァルジリオンはそんなカリンに釣られるように、ふわりと笑う。
「カリン、ありがとう」
「笑っ……///」
「どうした、カリン。顔が赤いがどこか具合でも」
「みゃーーーーっ//////」
推しの神々しい笑顔に、尚且つ名前を呼ばれ額に手が触れるという怒涛のイベントを前に、カリンは推しの供給量過多によって奇声を発すると、
「YES推し! NOタッチ!! 推しは、推しは鑑賞して愛でる存在なんですーーーー!!」
猛ダッシュで屋敷の方に消えて行くその背中をヴァルジリオンは呆気に取られたまま見送った。
「なるほど、アレは捕まえるのが大変そうだ」
犬じゃなくて猫だったかと静かにつぶやき、
「この野菜、2人で消費するには多すぎるだろ」
と苦笑する。
「悪くないかもな、誰かがいる生活も」
ヴァルジリオンがそんな事を思っていた事も。
追いかけていた推しにいつの間にか追われるようになることも。
この時逃走したカリンが知るのは、まだまだ先の未来のお話。