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day3「あたたかいばしょ」

 バイトを終え、帰宅して一息ついた直後の逢魔時。冬乃家のキッチンに、食欲のそそる匂いが充満していた。


 油が跳ねるフライパンの上でジュージューと音を立てて、



「わぁ……!」



 薄く切られた真っ赤な肉と数種類の野菜がこんがりと焼けていく。



「ふわぁ〜……!!」




 調理を始めてからしばらく経った今でもフライパンの前から離れないフェリスに、柊は菜箸で肉と野菜を炒めながら「……何、さっきから」と、じとりとした目で問う。



「えへへー、だって、おいしそうだから……」



 フェリスはぺろりと舌を出すと、柊とフライパンを交互に見る。



「……あげないからね」

「ふぇ!?」



 肉野菜炒めをもらえないことを知り、フェリスはがっくりと肩を落としたのだった。




 そんなフェリスを余所に、柊は相変わらず続いている眠気と倦怠感を覚まそうと深呼吸をして、肺に空気を取り込んだ。



(……あ、いい匂い)



 食材が焼ける匂いが柊の空腹感を刺激する。柊はつい気が緩みそうになったが、火を使っている時に手元が狂ってはいけない、と慌てて気を引き締めるのだった。





 それから数分後。フライパンを眺めていたフェリスが突然、猫耳をぴこっと立てた。そして、フェリスは柊に元気良く言った。



「柊ちゃん、わたしも何か手伝うよ!」

「え……?」

「何でも言ってね! さっきみたいに、頑張っちゃうから!」



 フェリスは両手をぐっと握りながら立ち上がり、柊を上目遣いで見つめる。フェリスのまっすぐな視線から柊は目を逸らし、棚に積まれている大皿を指差してぶっきらぼうに言葉を投げた。



「……じゃあ、あの皿を部屋に運んでおいて」

「はーい!」




 フェリスは皿に手を伸ばした……が。



「あれ、持てない……?」

「え? 持てないって、どういう……」

「ほ、ほら! なんかね、すり抜けちゃうの!」



 フェリスの言う通り、確かにフェリスの白く小さな手は皿をすり抜けて虚しく空を切っていた。柊はその様子を見て冷たく言った。



「……もういいから。どこか行って」

「そ、そんなぁ……!」



 フェリスは猫耳と尻尾をしゅんと垂らし、とぼとぼと皿から離れるのだった。

 




 香ばしい香りが立ち昇るキッチンにて。柊が大皿に肉野菜炒めを盛りつけていると、キッチンの隅に移動して体育座りをしていたフェリスから熱い眼差しを受けた。柊の視界の隅に、紅玉色の瞳がちらちらとこちらを見ているのが映る。



(……やりにくい)



 柊が盛りつけの手を止めて横目でフェリスを見やると、フェリスは慌てて視線を逸らし、目を泳がせた。

 盛りつけを再開すると、またフェリスから熱い眼差しを受けた。柊が手を止める。フェリスは目を泳がせる。


 この流れを数回繰り返していると、フェリスは「えっと、わたしお部屋戻ってるね……!」と、リビングに繋がるドアをすり抜けて素早くリビングへ去っていった。



「……逃げた」



 大皿に盛られて湯気を立てる一人前の肉野菜炒めを前に、柊はぽつりと呟いた。




 少し考えてから、柊は棚から小皿を取り出した。それから少量の肉野菜炒めを大皿から小皿に移し、最後に大皿の上に二膳の箸を転がす。そして、予め少し開けておいたリビングへ繋がるドアの隙間に足を差し込んで開けた。


 ドアを開けた瞬間、柊は両手に皿を抱えながら首を傾げた。



「……?」



 なぜならフェリスが、何かを深く考え込んでいるような——その幼い顔に似合わない、アンニュイな表情をしていたからだ。扉を開ける音を立てたにも関わらず、フェリスはこちらに気が付いていない様子だ。


 香ばしい匂いが静かに部屋を満たしていく中。大皿の上で箸が転がった微かな音に、フェリスの猫耳がぴくっと反応した。それと同時にフェリスはやっと顔を上げ、柊の方を見た。



「柊ちゃん! ……あ、何でもないよ。ちょっと考え事してただけ!」



 そう言うと、フェリスはにぱっと笑って嬉しそうに尻尾を揺らし、いつもの(といっても半日程度しか時間を共にしていないのだが)表情に戻った。




(何だったんだろう、今の)



 不思議に思いつつ、柊は食事の用意を再開した。柊は部屋にあるローテーブルに皿を置いてすぐにキッチンに戻り、白米と水を二つ用意した。途中ふと我に返る瞬間もあったが、フェリスのあの眼差しを思い出してとにかく二人分用意した。



(幻覚にしてもこの世の者じゃないにしても、あんなに見られたら食べにくいし……)



 心の中でそう何度も唱えながら部屋とキッチンを往復して、柊はついに食事の準備を済ませたのだった。





 柊はローテーブルの前に置かれている、長年愛用している青い座椅子に座った。その正面では、フェリスがフローリングに直接女の子座りをしている。フェリスはピンク色の茶碗に盛られた白米と、小皿に盛られた肉野菜炒めを不思議そうに見つめていた。



「柊ちゃん、これは……?」

「……食べれるんなら、食べれば?」



 柊が大皿からピンク色の箸を取ってずいっとフェリスに差し出すと、フェリスは花が咲いたような笑みを浮かべた。



「食べていいの!? ありがとう、柊ちゃん!」



 フェリスは心底嬉しそうに、柊の手から慎重に箸を受け取る。そして僅かに手を震わせながらも、なんとか箸を持つことに成功した。

 フェリスの様子を見るに、手どころか全身にかなり力を込めて、さらに気を張っていないと箸を持っていられないようだ。




 青色の箸を手に取った柊が肉野菜炒めに箸を伸ばすと、フェリスが慌てて柊を制止した。



「柊ちゃんちょっと待って! 食べる前にいただきますしないと!」

「いただきます」



 柊は意にも介さずそう言い、大皿から肉を取って口に放り込む。



「も、もう柊ちゃんったら! わたしも、いただきます!」



 柊とは対照的にフェリスは一旦箸を置き、礼儀正しく手を合わせてから箸を持ち直した。



 それから小皿に盛られた肉をそっと口に入れて咀嚼し、飲み込んだ瞬間——フェリスの猫耳と尻尾が勢い良く立った。

 そして柊に柊の料理が如何においしいかを興奮気味に伝えながら、料理を満面の笑みで頬張る。フェリスの尻尾のご機嫌そうな揺れはしばらく止まらなさそうだ。




(いただきます、なんてしばらく言ってなかったな)



 幸せそうなフェリスをぼんやりと眺めて淡々と食事を進めながら、柊はそんなことを考えた。


 一人暮らしをする上で色々と試行錯誤する。そんな生活も気付けば4年目に突入していた。中学生の頃は勉強や学校生活との両立に苦労していたなと、柊は苦い記憶を思い起こす。



(……あの時は、大変だったな)




 刹那、柊の中で嫌な記憶が溢れそうになった——が。柊を呼ぶ明るい声が、過去に迷い込みかけていた柊を現在に呼び戻す。



「柊ちゃん柊ちゃん! お話しよ!」

「お話?」

「うん! 柊ちゃんのこと、もっと知りたいの!」



 小皿の肉野菜炒めと茶碗の中のご飯をあっという間に平らげたフェリスが、ぺろりと舌なめずりをしながら柊を見つめていた。



「あ……大皿のも食べていいよ」

「ほんとに!? やったー! ありがと、柊ちゃん!」



 フェリスは元気良くお礼を言い、いそいそと箸を進め始めた。



(……私のことをもっと知りたい、か……)



 柊はフェリスのその言葉の真意を掴めず、肉野菜炒めとご飯を咀嚼しながら首を傾げるのだった。




「ふぇー、ひひはふぃひゃ……」

「飲み込んでからね」

「ごくん……えへへ、何から聞こうかなぁ」



 人差し指を顎にあてて尻尾をゆらゆらさせながら、フェリスは考えを巡らせているようだ。



「……ちなみに、拒否するという選択肢は?」

「ないよ! ……もぐもぐ」

「なんで」

「あ! ごく、ないんだけどね、むぐ……本当に嫌なことは言わなくていいっていうか、むしゃむしゃ……そういうのはあるよ!」

(……なんでそういう気遣いはできるんだろう)



 柊が少し目を離した隙に綺麗に食べ尽くされた大皿を見下ろしながら、柊は小さくお腹を鳴らした。



「ごちそうさまでした!」

「私、炒めもの3割も食べられてなくない……?」

「ふぇ? 柊ちゃん何か言ったー?」

「何も」




 柊が仕方なく真っ白なご飯をかきこんでいると、その様子を見ていたフェリスの瞳がキラリと輝く。



「柊ちゃんに会うのすっごい久しぶりだから、聞きたいこといっぱいあるんだー!」

「……久しぶり?」



 柊は思わず食べる手を止めて、フェリスを見やる。フェリスはきょとんとした顔になり、続けて言った。



「うん。10年くらい会ってないよね?」



 フェリスの予想外の発言に目を見開いた柊は、最後の一口のご飯を喉を鳴らして飲み込んだ。そして俯きつつ、思考を巡らせる。




 ——10年くらい前となると、柊は幼稚園児、もしくは小学生になった頃だろう。柊はその頃の記憶を懸命に辿ったが、フェリスに会った記憶はない。それどころか、フェリスに似ている人物ですら全く思い当たらなかった。



(というか、昔の記憶なんてほとんどないし……)



 世の中には幼少期の記憶をよく覚えている人間も存在するが、生憎柊はほとんど、というより全くと言っていいほど覚えていない人間であった。

 それ以前に10年前にはフェリスは生まれていないか、生まれていたとしても会話ができるほど成長していないのでは? という新たな疑問が柊の中に生まれた。




 どんどんこんがらがっていく頭をそっと上げて、柊はフェリスの様子を伺う。すると口は笑っているものの、瞳の輝きが少しずつ消えていっているのが分かった。


 その様子を見て柊は決心した。できるだけ感情を込めることを意識しながら、慎重に言葉を紡いでいく。



「フェリスのことを教えてよ」

「……わたしのこと?」

「う、うん。フェリスのことが気になるなって、思っ……て……」



 ——あまり世間話に慣れていないため、最後の方が不自然だったかもしれない——などと考えながら、柊は恐る恐るフェリスの顔を見た。



「そうなの!? じゃあわたしのこと、教えるね!」

「あ、うん、ありがとう……」



 どうやら柊の心配は杞憂だったらしく、フェリスの瞳はすっかり輝きを取り戻していた。柊はほっと胸を撫で下ろす。




「えっとね、わたしの名前はフェリス! 年齢は8歳くらい!」

(さっき聞いた)

「それでね、柊ちゃんとずっと前からお友達!」



 柊は天井を仰いだ。そして、心の中で呟く。——さっきからフェリスと話が噛み合わないな、と。そこで柊はとある仮説を思い付き、それをフェリスにおずおずと共有した。



「ねぇ、その友達って……人違いだったりしない?」

「ふぇ?」

「私に似た人と仲が良かった……とか。10年も経ったら、結構見た目も変わってると思うし」

「んー、それはないよ!」



 あっけらかんとそう言い放ったフェリスが、そのままの調子で続ける。



「だってわたし、柊ちゃんのことずっと見てたもん!」




 その一言で、柊が考えていたいくつかの仮説は全て霧散した。柊は黙って頭を抱える。



「あ、あとね。なんか、わたしが……あれ、なんて言うのかな。今日の朝、この世界にぽんって出られた? 時ね」



 フェリスがうんうんと唸りながら何かを話そうとしている。どうやらフェリスは、自身が言いたいことに上手く当てはまる言葉が思いつかないようだ。柊は少し考えてから、「……具現化?」とそれらしい言葉を投げた。



「そうそれ! わたしが具現化した時に、なんでかは分かんないけど、ほとんど忘れちゃったんだ……」

「忘れた……?」

「うん……柊ちゃんを見てた時の記憶。ごめんね、柊ちゃん」

「別に」



 申し訳なさそうに眉を下げているフェリスに、柊は適当に返答した。柊は眉間にしわを寄せながら、フェリスから聞いた情報と自分の情報を頭の中でまとめていた。



 10年前に柊とフェリスは友達だった。

 しかし、柊にフェリスと接した記憶はない。

 けれど、柊はフェリスに懐かしさや親近感を覚える。

 フェリスは柊をずっと見ていた。

 フェリスは具現化した際に、柊を見ていた時の記憶を忘れてしまった。




「あー……頭痛い」



 色々と考えていると一瞬脈打つような頭痛に襲われて、柊は思わず頭に手を当てて呟いた。そんな柊の隣に、フェリスがぱたぱたと駆け寄る。



「柊ちゃん大丈夫!?」

「ん……大丈夫。片付けてシャワー浴びたらすぐ寝るから」



 食器の片付けの手伝いを申し出たフェリスを「お皿割ったら大変だから」と制止し、柊はさっとテーブルを拭いて皿洗いを済ませた。柊はキッチンから部屋に踵を返す。



「じゃ、シャワー浴びてくるから」

「わたしも一緒に行くー!」



 一応フェリスに声を掛けると、予想外の返事が返ってきた。



「え……嫌。私の後に勝手に入る分にはいいけど」

「えー……」

「……とにかく、洗面所には入ってこないでよ」



 むくれ顔のフェリスとそんなやり取りをしてから、柊は浴室へ向かった。





 安物のリンスインシャンプーで頭を洗い終えた後、安物のボディーソープで身体を洗いながら柊は大きなため息をついた。



「はぁ……」



 狭い浴室にため息が響いた。柊はシャワーを浴び始めてからずっと、フェリスのことを考えていた。



(なんかもう、フェリスと普通に会話しちゃってる……これはまずいな)



 シャワーを浴びたおかげか少しクリアになった頭で、柊はフェリスに対する考えを固めていった。




 これからフェリスが不適切な言動——例えば、犯罪教唆や自殺教唆をしてくるようになったりだとか。そうなった時には然るべき医療機関を受診するか、もしくはお祓いに行くとしよう。シャワーを出して身体に付いた泡を洗い流しながら、引き続き柊は考える。


 けれどもし、先ほど挙げたようなことが起きないのなら……フェリスの力になるのも悪くないのかもしれない。現状、具体的に何をしたら彼女の力になれるのか柊にはさっぱり分からないが、そんなことを少しだけ思った。



(話を聞いてた感じ、悪い子じゃなさそうだったし)



 白い湯気に満ちる浴室で、柊は小さな決意をした。そして身体を流し終わってシャワーを止め、鏡に映る濡れた自分を見つめながら呟く。



「例え悪い子だったとしても、私には……失うものなんてないから」



 その呟きは静まり返った浴室の中を木霊して、誰にも届くことはなかった。





 シャワーを済ませた柊が眠い目を擦りながら部屋に戻ると、フェリスがどこにも見当たらなかった。



「フェリス……?」



 柊は小さくフェリスの名前を呼びながら、注意深く部屋を見渡す。するとベッドの壁側の不自然な膨らみと、掛け布団からちらちらと覗き、時折微かに動く猫耳に気が付いた。

 柊は静かにベッドに近付き、掛け布団の中を覗き込む。そこには案の定、ベッドの壁側で掛け布団をしっかり被って穏やかな寝息を立てるフェリスがいた。



(……人の気も知らずに)



 柊はそっと壁のスイッチを押し、部屋の電気を豆電球に切り替えた。そしてフェリスを起こさないよう、慎重にベッドに潜り込む。

 それから柊は枕にタオルを敷いた。濡れて冷え切った髪がフェリスに当たらないよう、フェリスがいない右側へ、肩下まで伸びるふわふわとした猫っ毛の黒髪を流す。


 ちなみに柊が髪を乾かさないのはいつものことである。柊は『人を不快にさせない程度の清潔感さえあればいい』というモットーで生きているのだ。




 しっかりと布団を被った柊が何気なくフェリスに視線を移すと、フェリスは御伽話に出てくるお姫様が付けていそうなデザインの白いナイトキャップを被っていた。さらに掛け布団に隠れた上に、部屋が暗いため全貌は伺えないが、可愛らしいピンクを基調としたパジャマも着ているようだ。


 柊は思わず目を凝らして薄暗い部屋を見渡したが、フェリスが元々着ていたワンピースはどこにも見当たらなかった。



(いや、どういう仕組み……?)



 そうぼんやりと考えつつ、柊は肉体的な疲労と精神的な疲労に誘われてゆっくりと眠りに落ちていく。



(あ、そういえば……シャワー浴びてた途中辺りから体調良くなってきてた、かも——)



 ——完全に眠りに落ちる間際。柊はふと、そんなことを思い出した。

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