day19「追憶」
暗く狭い、じめじめとした部屋で。幼い頃の私はせんべい布団の上で薄い掛け布団を被って、もう何度目かも分からない寝返りを打っていた。
眠れない。寂しい。怖い。……誰かと一緒に寝たい。でも、ママとパパが帰ってくるのは明日の朝。だから私は、一人で寝るしかない。
涙が溢れないようにぎゅっと目を瞑っていると、幼い女の子の声がした。すごく、綺麗な声だった。
「大丈夫?」
「え……?」
私はそっと目を開けた。不思議と、怖い気持ちはなかった。
すると、ぴっちりと締め切られた黄色いカーテンの前に、猫耳と猫の尻尾が生えている、白くて綺麗な髪の女の子が立っているのが分かった。ピンク色に白のフリフリが付いたワンピースを着ている。……かわいい。
年齢は私と同じ、5歳くらいに見える。
「……あなたは、誰?」
「うーん……?」
女の子は暗闇の中で一番星のように輝く赤い瞳をぱちくりさせながら、質問の答えを考えているみたいだった。それから少しすると、女の子はぱっと笑って元気良く言った。
「——柊ちゃんの、お友達!」
◇
今日は肌寒い夜だから、私は女の子を布団の中に入れてあげることにした。女の子は「おじゃまします……!」と布団に入ってきて、一緒に横になって向かい合った。
女の子の綺麗な顔が近い。それに、何だか甘くて良い匂いがすることにも気が付いて、私はついドキドキしてしまった。
私は女の子に質問をした。家には誰もいないけれど、それでも夜は静かにしないといけないので、ひそひそとお話した。
「あなたのお名前は……? それと、どうして私の名前を知っていたの?」
「わたしの名前は……分かんない。でもね、柊ちゃんのお名前は、柊ちゃんを見た瞬間に分かったよ!」
「そうなんだ……そういうことも、あるのかな?」
「あるのかも?」
私と女の子は目を合わせて、くすくすと笑った。そして、私はぼんやりと考える。
(不思議だな……この子は、すごく話しやすい。人に話しかけられると、いつもどうやってお話したらいいか分からなくなって……)
私は、幼稚園にいる時のことを思い浮かべた。
(四葉がせっかく話しかけてくれてるのに上手にお話できないし、英美里に意地悪されても言い返せないのに……この子には、私が私じゃないみたいに、すらすらお話できる)
私が考えるのが終わった時、少しの間静かだった女の子が言った。
「ちょっと、寒いね。……そうだ! 柊ちゃん、手、繋ご!」
女の子は布団の中でごそごそと私の手を探して、きゅっと握ってくれた。すっかり布団で温まった私の手を握る女の子の少し冷たい手が、気持ち良かった。
「あったかい……。……ありがとう」
「どういたしまして。わたしも、あったかい!」
女の子の温もりに安心して、私はいつの間にか眠っていた。
朝起きたら女の子はいなくなっていて、パパとママが帰ってきていた。
パパとママに女の子がどこに行ったのかを慌てて聞いてみたけど、二人とも「夢だったんじゃない?」としか言ってくれなかった。
女の子のことを信じてもらえなくて悲しくなった私は、一人で自分の部屋に戻った。
(絶対、夢じゃないのに……)
むっとしながら一人で布団の上で体育座りをしていると、どこからか声がした。
「また、会いに行くから……待っててね、柊ちゃん」
「……! うん……! 待ってる……!」
私は、その声がどこから聞こえたのかきょろきょろして探しながら——昨日一緒に眠ってくれた女の子に返事をした。
結局声がどこから聞こえたのかは分からなかったけれど、女の子のその言葉を信じて、私は待つことにしたのだった。
◇
それから。私が寂しいと思う度に、あの子は私の前に現れてくれた。
一週間に一回、数日に一回と、あの子に会える回数は増えていって……いつしか私達は、いつも一緒にいるようになった。
最初に、名前をつけた。この子に名前をつけるために、図書館で色々な本を読んでいたら『フェリス』という言葉を知った。外国語で『猫』や『幸せ』という意味があるらしい。それを知って、この子にぴったりだと思った。
「あなたの名前……フェリスは、どうかな」
「……! すごく素敵! わたし──フェリスになる! 名前をくれてありがとう、柊ちゃん!」
私達は一緒に大きくなった。途中でフェリスに背を越されて、フェリスはふふんと鼻を鳴らしていた。
フェリスの手を引いて、幼稚園や小学校を探検した。二人で絵本を読んだ。数え切れないほど話して、笑った。
そのうち、私とフェリスは気づいてしまった。フェリスが他の人には見えていないことに。その時、フェリスは一瞬悲しそうな顔をしてから──笑って言った。
「わたしは、柊ちゃんのために生きているから……大丈夫!」
見えない女の子に話しかけているせいで人に変な目で見られたって、どうでもよかった。私にはフェリスがいる。フェリスがいれば、それでいいから。
そして、私は小学二年生になった。──異変が起きたのは、その年の夏が終わった頃だった。
「フェリス……どこ?」
「ここにいるよ、柊ちゃん」
私とフェリスは、いつも通り校庭の隅で日向ぼっこをしていた。少し涼しくなってきたので、日向ぼっこをするにはちょうどいい。
「あれ……いないと思った」
「え〜? わたしはいつも、柊ちゃんのそばにいるよ!」
「ふふ……ありがとう、フェリス」
「どういたしまして!」
“フェリスが一瞬消えたように見える”──。そんなことが起きるようになった。
数分、数時間、一晩、一日、数日……。その長さも回数もどんどん増えていって。
それどころか、フェリスの姿や名前を思い出せなくなることもあるようになった。
私はとても怖くなった。このままフェリスが消えて、存在していたことすら忘れてしまったらどうしよう、と。
恐怖に耐えられなくなった私は、ついにフェリスのひんやりとした両手を握って言った。
「戴冠式、しよう……! 私とフェリスがお互いを、忘れないように……!」
「戴冠式……? 前に本で読んだ、あれ?」
「うん……! 儀式をしたら、お互いに忘れなくて済むんじゃないかなって思って……」
「……! いいと思う! やろう、柊ちゃん!」
こうして私達は、儀式──戴冠式の内容を考えた。本を参考にして二人で手順とセリフを決めて、それを完璧に覚えて……ついに、実行する時が来た。
「私は、貴方のことが好きです」
「わたしも、あなたのことが好きです」
「私は貴方に永遠の愛を誓います。なので、どうか貴方も──フェリスも、私のことを忘れないでください」
「はい。わたしも愛を誓い、そして。あなたのことを──柊ちゃんのことを忘れません」
シロツメクサの花冠を被り、放課後の校舎裏で夕日に照らされながら。私達はただ、お互いを忘れないことを祈った。
◇
結論から言えば、柊は今の今──フェリスが具現化して、戴冠式を行うまでフェリスのことを忘れていた。
そして、苦しんだ記憶も一緒に忘れていた。幸せだったこと。辛かったこと。過去の全てを、柊は思い出したのだった。
◇
フェリスのことをすっかり忘れたまま、私は中学生になった。新品の真っ黒なセーラー服に身を包んで教室に入ると、とある人物と再会した。
「あら……貴方、冬乃さん?」
「……?」
顔を上げると、私と同じセーラー服を着て、毛先までくるくるに巻かれた長い若葉色の髪を揺らし、穏やかに微笑むクラスメイトがいた。
「ふふっ……幼稚園の頃から変わりませんわね。わたくしは花園英美里。覚えていらして?」
(……うわ)
私は幼稚園の頃のことと、当時の英美里の言動を思い返した。
英美里は、私や四葉に陰湿な意地悪をしてくる子だった。
足を引っ掛けてくる。私物を隠して、それに気がついた少し後にいつの間にか戻してくる。小声で悪口を言ってくる。
とにかく細かく、様々な意地悪を毎日のようにされたものだった。
そんなことなどすっかり忘れたかのように、中学生になった英美里は穏やかに微笑んでいる。やった方は覚えていないとはこのことか、と私は内心で頭を抱えた。
「──“また”よろしくお願いしますわね、冬乃さん」
地獄が始まったのは、その日からだった。
その翌日、登校したら上履きがなかった。探したら、掃除ロッカーの奥に押し込まれて埃がついていた。
それから、教科書やノートが隠されたり捨てられるようになっていた。
クラスメイト達からの視線が、不自然になっていった。
そしていつしか、クラスメイトのほとんどに悪口を言われるようになった。
私は臭いらしい。気持ち悪いらしい。汚いらしい。生きている価値がないらしい。死んだ方が、いいらしい。
(……どうして?)
放課後。暗い自室で身体に消臭スプレーを吹きかけながら、私は自問自答した。
早起きしてシャワーを浴びてから登校するようにした。お小遣いを使って、色々な制汗剤を試した。
身嗜みにも以前より気を使った。人と話す時、なるべく笑うようにした。
人を、不快にさせないようにした。
なのに、何も変わらないどころか……嫌がらせは悪化していく一方だった。
(……どうしたら、いいんだろう)
親に心配をかけたくないし、学校に行かないなどと宣ったら怒られそうだから、私は学校に行き続けた。そんな日々を耐え忍んでいるうちに、私は何も感じなくなった。
中学一年生の秋。両親が「海外に出張に行く」と言い残し、旅立っていった。そして、それから一年後まで帰ってくることはなかった。
唐突に始まった一人暮らしは、生活の知識もなく、器用でもない私にとっては大変なものだった。
しかも両親からの仕送りも少ない上に、バイトもできない年齢のため、金銭的にも苦しかった。
とある凍てつくような寒い日の土曜日、私しかいない小さな一戸建てで。いつものようにクラスメイトに汚された体操服を洗濯する音だけが響く洗面所で、私は座り込んで天井を仰いでいた。
薄暗くかび臭い洗面所に、レースカーテン越しに陽の光が差していた。
(こんな時……隣に誰かがいてくれたら)
ごうんごうんと、洗濯機が不気味に唸る。
(惨めさも、寂しさも……少しはましになったのかな)
◇
それから年に一回、秋頃に両親が数日帰ってきたけれど、特に実のある話をする訳でもなかった。
両親は自宅に戻っても、二人で仕事の話をしているばかりだった。私は邪魔をしてはいけないと思い、その度に自室にこもった。
時が経ち、私は中学校を卒業した。涙と笑いが木霊する卒業式をさっさと抜け出し、桜舞い散る通学路を軽い足取りで抜けていった。
──私の進路は進学でも就職でもなかった。進学するにはお金がないし、就職するにも技能も体力も何もない。
しかしこの世界は、息をするだけでもお金がいる。なのでとりあえず、コンビニのバイトを始めた。
「いらっしゃいませ」
「……冬乃さん、もう少し声出せない?」
「す、すみません……」
数ヶ月コンビニバイトを続けて、少しは営業スマイルもできるようになった。しかし徐々に、同世代のバイトから邪険に扱われるようになってしまった。
恐らく、明るい彼らや彼女らと、私の暗い雰囲気が合わなかったのだろう。
中学校とあまり変わらない状況にすっかり嫌になった私は、逃げるように……いや、コンビニバイトから逃げたのだった。
それからは、単純作業系の単発バイトを繰り返した。途中で栄養不足で倒れたので、自炊を始めた。
働いてご飯を食べるだけの無味乾燥な日々を繰り返しているうちに、こんな人生を終わらせたくなった。
暇つぶしになるかと購入した中古のノートパソコンを弄って、死ぬ方法を調べてまとめることが唯一の趣味になった。
そんな生活が、二年目に差し掛かった時のこと。
『えへへ……やっと会えたね、柊ちゃん!』
今思えば──絶望しきっていた私の元に、もう一度。彼女は現れてくれたのだった。




