第9話 駿甲相三国同盟の崩壊
1567年10月の武田義信の病死は、駿甲相三国同盟締結の際に結ばれていた武田家と今川家の最後の絆を崩壊させることにつながりました。
現代まで武田義信については自害説が罷り通っているように、この当時でも、義信は父の信玄によって自害させられたと今川氏真らは考えて行動したのです。
この時代の同盟の基盤が婚姻関係にある以上、その一方の当事者を自害等させるというのは、公然と同盟を破棄する行動と言われても仕方がありませんでした。
(少なからずズレた話になりますが、だからこそ、いわゆる「信康事件」の際に、織田信長に対して徳川家康は、長男の松平信康の処分について了解を得る必要があった、と現在の私は考えています。
それこそ信長の了解無くして、家康が信康を自害させては、いわゆる織徳同盟を、家康は破棄しようとしている、と信長に考えられて当然の事態が引き起こされてしまうのです)
そして、今川氏真は自らの妹にして義信の妻の嶺松院を、今川家に呼び戻そうとすることになります。
1568年2月の時点で、当時は北条家の領土である伊豆の三島に嶺松院がいることが、一次史料といえる当時の書状から明らかになっているとのことで、それから推測すれば、嶺松院は武田家から北条家を介して、今川家に戻ることになったようです。
尚、時機が微妙に前後しますが、今川、武田間の同盟崩壊の象徴とされる今川家からの塩留めですが、現存している一次史料からは、1567年8月が初見とのことです。
つまり、「義信事件」勃発から2年近くが経った後なのです。
これをどのように考えるか、本当に悩ましいことですが。
私としては、義信の幽閉が1年以上も続いている現状から、氏真としては、義信の解放への具体的圧力の一環として、塩留めを行ったのでは、と考えます。
しかし、結果的に義信は解放されないまま、1567年10月に病死しました。
更に嶺松院を、今川家に呼び戻すようなことをしては、最早、武田家と今川家の同盟は崩壊寸前になった、といっても過言ではありません。
とはいえ、10年以上というより、20年近くも存続した同盟です。
武田家も今川家も、完全な同盟破棄をお互いに躊躇いました。
そこに最後の一押しをしたのが、上杉謙信です。
謙信は、武田家、今川家、北条家の三国同盟関係に間隙が生じているのに気付いていました。
(というか、ここまでの事態に至れば、それを察しないようでは、謙信は他の諸勢力の外交関係の把握については、完全に無能呼ばわりされても仕方ない状況です)
謙信は氏真に対して、対武田同盟を締結しようと唆します。
これまでの経緯から、武田家に対する不信感等が積もり積もっていた氏真は、謙信との同盟締結に動き出します。
そして、それを信玄が察知したことが、武田家と今川家の同盟の完全崩壊につながりました。
この当時の同盟の基本が、味方の敵は自らの敵、というもので、だからこそ勝手に同盟国、勢力の敵と同盟を結ぶことは、同盟破棄の具体的な行動と難詰されて当然でした。
そういったことから、信玄は、謙信の誘いに乗って対武田同盟を締結しようとする今川家は、駿甲相三国同盟を破棄しようとしていると考えることになり、終には「駿河侵攻」という最終決断を信玄が下す要因となります。
ですが、信玄も北条家を格下と見なしていたようで、機密保持と言う観点もあったのでしょうが、「駿河侵攻」を北条家に無断で行うことになります。
そして、このことは、武田家は我々を見下すのか等の激怒を北条家に引き起こすことになり、「駿河侵攻」に際して、北条家が積極的に今川家を救援する事態になります。
本当に想わぬ事態が引き起こされました。
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