第7話 今川家中の不満が更に高まった理由等
いわゆる「遠州忩劇」については、一次史料が乏しく、後世に作られた二次史料も矛盾した描写があるとのことで、何処まで正確な状況が分かるのか、と言われると多大な疑問があり、私なりの理解で簡単にまとめますが。
1563年4月に、今川氏真は三河の松平元康を討つ為に必要だ、と訴えることで、遠江国内で臨時徴税を行います。
ところが、氏真はその徴税によって得た資金を使って、上杉謙信の関東侵攻に苦しんでいる北条家に援兵を出すようなことをしました。
何故にそんな判断を氏真が下したか、というと。
偶々に近いのですが、この当時の三河では西部を中心に、松平元康に対する大規模な一向一揆が起きていました。
そうしたことから、今すぐに三河に派兵するよりも、北条家を今は支援した方が、後から御礼として更なる北条家の援兵が期待出来て、三河制圧には効果的だろう、と考えた末に、氏真は北条家への援兵を行うことにしたようなのです。
氏真の考えでは、三河一向一揆は長引くだろう、自分への北条家からの援兵が駆けつける方が早いだろう、と考えたようなのですが。
物事はそうは上手く進まず、北条家の援兵が今川家に送られる前に、三河一向一揆は鎮圧され、「遠州忩劇」という事態が起きてしまったのです。
ともかく遠江の国人衆にしてみれば、納得のいかない流れです。
それこそ自らの隣国の三河への侵攻なら、それなりに新領土等の見返りが見込めるだろうとして、臨時徴税に応じたのですが、北条家への援兵では、そんな見返りが見込めないのですから。
後から何とかすると言われても納得できるものか、と遠江の国人衆が考えるのも当然です。
だから、今川家に対する叛乱と言える「遠州忩劇」が起きたと私は理解しています。
この「遠州忩劇」を氏真は鎮圧することに成功し、遠江を再度抑えますが、その結果、三河に対する侵攻作戦を今川家は行うどころでは無くなり、三河は完全に松平家の領土になったと言っても過言ではない状況になります。
桶狭間の戦い以前は、三河をほぼ抑えていた今川家にしてみれば、完全な領土の喪失でした。
さて、少なからず話が変わりますが、今川家、武田家、北条家の三国同盟ですが、実際の家格や勢力等からすれば、内外共に今川家を最上位とした同盟と同盟締結時には見ていました。
尚、武田家と北条家では、武田家の方が格上になります。
そうしたことから、黒田基樹氏等は駿甲相三国同盟と呼称しています。
(実際、三国同盟締結時、今川家は駿遠三の三国をほぼ抑え、尾張侵攻を策していたのに対し、武田家は甲斐及び信濃の一部、北条家は伊豆、相模に加え武蔵の過半といった勢力でしたし、歴史的経緯を考え合わせれば、そのような格付けも当然です)
そして、上位にある以上、本来的には今川家が北条家や武田家を支援するのが、暗黙の同盟です。
ですが、1560年代半ば、「遠州忩劇」が収まった頃になると、三河を喪失する等、今川家の勢力は低下する一方、武田家や北条家は勢力を大きく伸ばす有様でした。
更に言えば、そういった経緯に加え、今川家のみが氏真に代替わりしており、北条家や武田家からの要請を断りにくい一方、今川家は武田家や北条家に援兵等を求めにくい状況になっていました。
ぶっちゃけて言えば、それこそ妹婿の父(武田信玄)や妻の父(北条氏康)から頼まれては、氏真は断りづらい関係にあったということです。
これが、父の義元が健在ならば同世代ということもあり、それなりに断り易かったでしょうが。
現実社会でも親と言える相手から頼まれては、断りづらいものです。
ですが、負担を強いられる今川家中ではこういった状況に不満が高まる一方になったのです。
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