第5話 武田信玄が頭を抱えた後継者問題の背景
母親の生まれ、家格で、同じ父の子どもを差別するのか、と叩かれそうですが。
私の理解する限り、それがこの日本の戦国時代では当然と考えられていました。
そんなことは無い、お前は歴史を知らない、と論拠を示して言われるのなら、私は平謝りに謝るしか無いですが。
私が調べて来た限り、日本の戦国時代において、異母兄弟間で母親の家格に因る兄弟の差は、あったと考えざるを得ません。
武田信玄からすれば、長男の武田義信が幽閉された結果、四男の勝頼が信玄の後継者に最終的にはなるのですが、すぐにはそうなりませんでした。
更に言えば、信憑性が低いとはされますが、「甲陽軍鑑」に従えば、勝頼は信玄の後継者ではなく、信玄の後継者は勝頼の子になる信勝で、勝頼は陣代に過ぎなかったとされる程です。
普通に考えれば、前話で描いた事情から、信玄の長男が幽閉され、次男は盲目、三男は夭折(異説があります)している以上は、信玄の最年長の男子になる四男の勝頼が後継者になるのが当然では、と考えられそうですが、そう簡単にはいかない事情があったのです。
少なからずズレた話に聞こえるかもしれませんが、この際に信玄の妻妾について描きたいと考えます。
余り知られていませんが、信玄の正妻は2人います。
最初の正妻は、扇谷上杉朝興の娘ですが、最初のお産の際に母子共に亡くなっています。
次の正妻が、有名な三条公頼の娘になる三条の方で、信玄との間に三男三女に恵まれました。
そして、信玄の愛妾として知られているのは3人で、諏訪御寮人、禰津御寮人、油川夫人です。
諏訪御寮人は、四男の勝頼を産んでいます。
禰津御寮人は、七男の信清を産んでいます。
油川夫人は、五男の盛信と六男の信貞を含む二男二女を産んでいます。
(猶、禰津御寮人には(実は叔母と姪の2人という)複数説があり、又、他に信玄に愛妾がいたという説がある等、何処まで愛妾の数が正確なのかは、私自身にも疑問がありますが。
通説に従えば、正妻の三条の方に加え、この愛妾3人が信玄の子を産んでいます)
ここで問題になるのが、油川夫人の存在です。
黒田基樹氏等は、それぞれの子の出生年等から、三条の方がそれなりの歳になったことから、三条の方が油川夫人を信玄の妾に勧めたのではないか、と推測しています。
実際、三条の方からすれば末っ子の三女の真理姫が産まれたのは1550年で、油川夫人の初子の五男の盛信が産まれたのは1557年で、子どもの出生年からすればおかしくありません。
更に言えば、三条の方は1521年生まれとされており、自身が30代半ばになったので、出産リスク等から油川夫人を夫の妾に、と考えてもおかしくはなく、その点でも不自然ではありません。
又、油川という姓からピンと来た方もおられると想いますが、信玄からすれば大叔父になる油川信恵の孫と(異説がありますが)油川夫人はされています。
つまり、実母が武田一門衆ということからしても、油川夫人の子になる五男の盛信は、信玄の有力な後継者候補だったのです。
これに対して、諏訪御寮人や禰津御寮人の実家は、共に名門と言えば名門ですが、所詮は信濃の国人衆の娘です。
愛妾の序列から言えば、油川夫人の方が、武田家中では明らかに格上と言われても当然でした。
こうしたことから、「義信事件」の後、五男の盛信こそが、信玄の後継者に相応しい、という声が武田一門衆の間では高まっていたようで、それを補足するために盛信の正妻として、信玄の同父母弟になる信繁の娘が迎えられ、その女性が亡くなった後は、同様に信玄の同父母弟になる信廉の娘が、盛信の正妻に迎えられるという事態が起きたようです。
(これに対して、勝頼の正妻は、美濃の国人衆の遠山家の娘です。
どう考えても、武田家当主の正妻にするには家格が低く、そうした点からも、勝頼よりも盛信の方が武田家当主に相応しい、という声が高くて当然でした)
ですが、勝頼は1546年生に対し、盛信は1557年生とあっては。
1565年に「義信事件」が起きた際、武田家を巡る周辺状況からして、勝頼しか信玄の後継者はいないといえる状況だったのです。
細かく言えば、油川夫人とそれ以外の諏訪御寮人と禰津御寮人の立場は違うのですが、学術論文ではなく、私の想いを描くエッセイですので、単に愛妾と描いています。
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