第4話 何故に1565年に「義信事件」が起きたのか
後、前話で書き落としており、後話で補足する予定ですが、桶狭間の戦い以降、南の今川家の足下も揺らぎがちな状況とあっては、武田家を巡る情勢は厳しいとしか言いようが無く、そう簡単に信玄が義信に家督を譲り難い状況でした。
そして、何とも皮肉なことに、上杉謙信の関東出兵が始まる1560年以前に、1559年に北条家は無事に代替わりを済ませていたのです。
第三者的視点からすれば、さっさと信玄が義信に家督を譲って、信玄がいわゆる「大御所」になって、義信と二頭政治をすれば良いのに、と言われそうですが。
そういった二頭政治は平時でも、どちらの判断が尊重されるのか等で、対立が起きがちです。
これが戦時では、そういった対立が起きれば、それこそ御家の滅亡につながりかねません。
更に武田家の歴史を考えれば。
信玄が義信への家督譲渡に慎重になり、義信がそれに対する不満を徐々に高めるのも当然です。
そして、運命の1565年に至るのですが。
実はこの年は、全国的に米が不作で、飢きんが起きていたようなのです。
このことは武田家の領民に、生活に対する不満を高めていたようなのです。
更に言えば、武田信玄が、実父の信虎の追放事件を起こした1541年にも、同様の飢きんが起きていたようで、領民に生活に対する不満が高まっていたという「勝山記」等を論拠にした主張が存在します。
(「勝山記」によって当時の米や麦の物価変動が判明し、それから豊作、不作が推定されます)
更にこの頃の慣習では、当主の代替わりに「徳政(借金棒引き)」が行われるのが恒例でした。
生活苦から領民を少しでも救うための政策で、実際に信玄が父から家督を奪取した際に行われており、又、「義信事件」前後に「徳政」が行われた公算が高いことからも、逆説的に領民等の間から、武田家の代替わりを求める声が高まっており、義信やその周囲は、その声を背景に代替わりを信玄に求めて、そのことが信玄の逆鱗に触れた、ということはあり得ると私は考えます。
勿論、これは状況証拠に過ぎないことです。
更に言えば、「義信事件」で明らかなことは、義信が幽閉されたこと、義信の後見人だった飯富虎昌らが自害しただけ、といっても過言ではありません。
(だからこそ、「本能寺の変」のように、その動機、原因について定説が固まらないのですが)
ですが、私としては、これまでの通説の問題点からして、黒田氏の新説は、それなりに首肯できると考えざるを得ません。
これまでの通説の問題点ですが、義信が明確な親今川派で、その為に父との対立も辞さない程だったという史料が皆無なことです。
つまり、通説にしても、結果から逆算しているとしか言いようがありません。
又、武田家と今川家の対立が深刻化するのは、義信の死後になる1567年末以降になります。
この頃になってから、今川家は塩止め等の反武田の外交政策を採るようになったのです。
こうしたことも、「義信事件」の通説には問題点があると考えます。
ともかく「義信事件」で、義信は信玄の家督相続人の地位を失いました。
そして、このことは武田家の家督相続について、大問題を引き起こすことになります。
信玄の正室の三条氏が産んだ子は3人、義信、海野信親、信之といましたが。
海野信親は盲目であり、信之は1553年に夭折していたと伝わります。
その為に、信玄の側室が産んだ子から家督相続人を選ぶことになりましたが、これが難題だったのです。
(信之には、上総の庁南武田家に養子に迎えられて豊信と改名し、1590年に亡くなったという、上総に伝わる伝承があります。
実際に豊信の実父についての同時代の一次史料は皆無で、無下に否定できません)
一族経営の会社において、敵会社の攻勢等で会社経営が苦しい中で、経験不足の息子が、俺が会社を継ぎたい、親父は隠居しろ、と言ってきたら、会社のオーナーの親父が、素直に隠居できるでしょうか?
逆に、それこそ会社経営を何と考える、とオーナーの親父の逆鱗に触れるのでは?
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