第3話 武田家を巡る当時の状況
更に言えば、武田家を巡る状況も、信玄から義信への家督相続を困難にさせていました。
皮肉にも1560年前後を境にして、武田家が安穏に家督相続をしにくい状況が起きたのです。
1560年に何があったのか、と言えば、戦国時代に詳しい人ならば、桶狭間の戦いがあった年で、今川義元が戦死した、と答えると想います。
ですが、それ以外にも大きな動きがありました。
この年に後の上杉謙信、当時の名前で言えば長尾景虎が、北条家の攻勢の結果として、越後に亡命してきた時の山内上杉家の当主、上杉憲政を庇護して、積極的に関東に出兵するようになったのです。
(尚、上杉憲政が越後に逃れた年については、複数の説がありますが、私としては、1558年説が妥当ではないか、と考えています。
上杉謙信のwikiでは1552年説を採っていますが、上杉憲政のwikiでは「上杉家御年譜」を典拠として示した上で1558年説を示しています)
このことは関東情勢に大きな影響を与えました。
越後という大国をほぼ抑えていた上杉謙信が、上杉憲政の養子となり、関東管領を名乗れるようになったのです。
実際に1561年には小田原城を上杉軍が攻囲する事態が起きて、更には鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を謙信は挙行しました。
更に言えば、このことは関東の国人衆の多くが驚愕する事態でもあったのです。
1510年に(養親子関係が差し挟まれるので実の祖父ではありませんが)上杉憲政の祖父になる上杉顕定を、上杉謙信の実父の長尾為景が討ち取って以来、関東管領の山内上杉家と越後の長尾家は宿敵関係になっていました。
とはいえ、北条家からの山内上杉家への攻勢は続いており、その為に、背に腹は代えられぬとして、山内上杉家は長尾家との関係修復を、1548年頃から図り出してはいましたが。
上杉憲政が上杉謙信を養子に迎えると言うことを、関東の国人衆の多くは予期してなかったのです。
そして、越後という大国の力に加え、関東管領という権威を得た上杉謙信の関東方面への攻勢を前に、北条家に与していた関東の国人衆の多くが動揺し、1561年には謙信に寝返って、小田原城攻囲に参加する関東の国人衆が多数出るという事態までも引き起こします。
こうした事態の悪化に対処する為、北条家は武田家や今川家に協力を求めることになり、実際に武田家や今川家は関東に派兵する事態が引き起こされます。
そうした武田家や今川家の支援もあって、関東情勢は徐々に上杉謙信にとって不利になっていきます。
更に北信方面における武田家の攻勢は急であり、複数回に亘って、行われた川中島合戦等の結果、謙信の本国である越後の春日山城に武田軍の攻撃が及ぶのではないか、という状況になっては。
三国峠等の険を越えて、謙信が親上杉の関東の国人衆の支援を積極的に行うのは困難であり、関東情勢は北条家有利な状況に、1565年頃にはなりましたが。
まだまだ、武田家、北条家(更に言えば、今川家も)共に謙信の関東方面への攻勢を仕掛けるのでは、と気が抜けない状況だったのです。
(尚、少し先走った話をすれば、1566年に謙信は関東方面に攻勢を行い、下野から常陸、更には下総にまで侵攻して、北条方の臼井城を攻囲しますが、結果的に大敗を喫することになります。
その結果、関東の国人衆の上杉家離れが更に進むことになり、又、足利義昭の和睦斡旋もあったことから、謙信は北条家との和睦を決断することになります)
ともかく、こういった状況では、信玄としても若年の義信に家督を譲れる状況とは、とても言い難い一方で、義信にしてみれば、父の信玄に家督を早く譲って欲しい、との想いが高まることになりました。
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