第2話 黒田基樹氏等の新説について
本来ならば、永禄何年等の表記を併記すべきなのでしょうが、煩雑ですし、却って、時間の経過が分かりにくくなりそうなので、西暦のみの表記を行います。
又、人物にしても、何度か改名している人物(例えば、上杉謙信)がいますが、基本的に最も知られている名前で描きます。
そうした状況も相まって、黒田基樹氏等は義信事件の原因について、新説を提示しています。
この辺りは完全に順序が逆で、義信事件が起きたことから、武田信玄と今川、北条家の関係が微妙になり、最終的に駿甲相三国同盟の崩壊に至った、と説くのです。
(と私は理解しています)
それでは、黒田氏等は何故に義信事件が起きた、と主張するのでしょうか?
最初に結論から述べるならば、武田家以外の今川家、北条家では代替わり、既に家督相続が行われていたのに、武田家は行っていなかったことに、義信やその周囲が不満を持ったのが原因だと言うのです。
この辺り、エッという方がおられるか、と思われるので補足すると。
今川家では1557年に義元から1538年生の氏真は、19歳にして家督を譲られています。
北条家でも1559年に氏康から1539年生の氏政は、20歳にして家督を譲られているのです。
ところが、武田義信は1538年生なのに、1565年になっても家督を譲られていないのです。
尚、それぞれの親の年齢を書けば、義元は1519年生、氏康は1515年生、信玄は1521年生になります。
(細かく言えば、この6人の出生年について異説がありますが、私なりに最も信憑性が高いと考える説を採用しています)
では、何故に今川家や北条家では家督相続が既に行われていたのに、武田家では、信玄は義信に家督を譲らなかったのでしょうか?
義信が特に無能であったようには、残された史料からは特にうかがえないことからして不思議です。
この辺り、戦国時代、戦国大名の家督相続を巡る各家それぞれの微妙な問題が背景の一つにある、と私としては理解せざるを得ません。
極論を言えば、ということになりますが。
この時代の家督相続と言うのは、意外と悩ましいというか、かなり揉める事情があったのです。
それこそ昨今で言えば、家族経営の中小企業のワンマンオーナーが、それなりの年齢になったので、単純に隠居して、自らの長男等に企業経営を完全に委ねられるのか、ということです。
後継者育成等の観点からすれば、そうするのが当然、と言われそうですが。
そう単純に全ての大名が移行できた訳ではありません。
特に、武田家は、そういった点で曰く付きの大名、家だったのです。
それこそ武田信玄自身が、実父の信虎を追放して、家督相続したという史実があります。
又、信玄からすれば曽祖父になる信昌は、一旦は長男になる信縄(信玄の祖父)に家督を譲りますが、その後で次男の油川信恵に武田家の家督を譲ることを考え出したようで、そのことが信縄と信恵の兄弟間の対立を産み、甲斐を二分する戦乱を引き起こすことになります。
断続的な戦乱と和睦が1492年から1508年に至るまで続いた末、1508年に信玄の父の信虎が、勝山合戦で信恵を戦死させて、更にその際に信恵の与党の多くが戦死することで、ようやくこの戦乱は終結を迎えることになります。
ともかく、そうした武田家の内部事情を考えると、信玄が義信に家督を譲っては、かつてのように武田家中が割れるのでは、という危険を感じるのも、私としては理解できます。
それに対して、北条家はそういった家督争いを経験していませんし、今川家にしても家督争いが起きたことはありますが、それこそ時の当主の戦死や急死といった思わぬことからです。
だからこそ、そうしたことが無いように、義元は速やかに氏真に家督を譲ったのでしょうし、北条家も順当に家督相続が行われたのでしょう。
ですが、その一方で、義信にしてみれば、何故に自分だけが武田家の家督を譲られないのか、と不満を溜めるのも、私としては理解できることで、本当に悩ましいです。
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