補遺 武田勝頼の官位等について
全くの余談に近い話ですが。
私自身、何故に武田勝頼が無位で終わったのか、歴史的経緯からすれば、止むを得ないと考えつつも、疑問を覚えてならないので、此処に書くことにしました。
武田勝頼ですが、結果的に朝廷から官位や官職等を正式に受けることは無かったようで、父の信玄が、従四位下、大膳太夫に、曽祖父の信縄や祖父の信虎が従四位下、左京太夫になっているのと比較すると、不思議に思われます。
尚、余談ながら、左京太夫と大膳太夫では、左京太夫の方が格上の官職になります。
何故に左京太夫に、武田信玄が就かなかったのか、というと正確な理由は不明ですが、父の信虎を信玄が追放したことから、父の官職に就くのは縁起が悪い、と信玄が考えたという説があるそうです。
さて、勝頼の官位に話を戻すと。
何故に勝頼が官位を受けることが無かったですが、まず、最大の要因が、武田勝頼が正式に朝廷から官位を受けようとするならば、1570年前後ならば足利将軍家が仲介し、更にその後、足利義昭が京から追放された後は、織田信長が仲介する必要があったのですが。
言うまでもなく、1572年秋以降1582年の武田家滅亡まで、武田家と信長は宿敵関係に突入することになり、勝頼が朝廷に官位を受けたいと望んでも、信長がそれを仲介する筈が無い事態に陥ったからです。
それならば、1572年秋より前ならば、勝頼に官位が与えられる可能性はあったのでしょうか。
1570年春に信玄が、勝頼に官位が与えられるように朝廷や足利将軍家に対する工作を行っていたのは、残された書状等から明らかなようですが、何故かこの工作は上手く行かなかったようです。
本当に何故に失敗したのか、私としても不思議でなりません。
この頃は、勝頼の妻にして、織田信長の養女になっていた遠山氏、龍勝院も健在です。
そして、足利義昭と信長の関係もきしみが無かったとは言いませんが、それなりに良好でした。
もし、この時に官位が正式に勝頼に朝廷から授与されていれば、と私は惜しみます。
尚、その代わりという訳ではないですが、勝頼は、足利義昭によって信濃守護として認められていたようです。
勝頼が信濃守護を称した文書が遺っています。
又、父が帯びていた大膳太夫を自称していたようで、そういった文書が遺っています。
更に言えば、山科言継の日記によれば、左京太夫との記載があるとのことで、これ又、自称でしょうが、それによって、少しでも武田家を継ぐ者として、権威を高めようと勝頼は努力したようです。
本当にこの頃の官位や官職については、調べ出すとキリがないことになるのですが。
勝頼の官位、官職も興味深い話です。
これで、このエッセイを完結させます。
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