第1話 史料不足という難問
武田義信と言えば、武田家の歴史に詳しい人ならば、即座に、
「武田信玄(晴信)の長男で、いわゆる義信事件の結果、実父の信玄に自害させられた人ですね」
と大半の人が答える(と私は考える)それなりの著名人です。
実際、これまでの多くの書籍で、そのように述べられています。
ですが、最近の研究の深化によって義信の自害説は否定されて、病死説が通説化しつつあるようです。
更に義信事件の背景として、武田家の外交変化説(外交について、反今川、駿甲相三国同盟破棄を考える信玄と、それに反対する義信が対立した)が通説といって良い状況でしたが。
これについても、黒田基樹氏等によって新説が提起され、論争が起きつつあります。
この辺りについて、私自身も小説で二度に亘って、武田義信を描いたこともあり、改めて義信事件について、考えてみたいと考えます。
(「戦国に皇軍、来訪す」で、武田義信は武田家の面々の多くを引き連れて北米に赴いており、更に最初の主人公の上里松一の次女(?)の和子を娶り、その間の子の信光が北米共和国大統領になっています。
又、「信康転生」でも、義信事件を通説に則って、私は描いています)
そして、ここで問題になるのが、義信事件の原因について、当時の一次史料、更には時代が近い二次史料も、ほぼ具体的には述べていないことです。
例えば、そう言ったこの当時の少数の二次史料の一つと言える「甲陽軍鑑」によればですが。
第四次川中島合戦の論功行賞や、勝頼が高遠城主に任じられたのが、義信の不満を引き起こし、義信事件につながった、と述べられていますが。
幾ら何でも、と私ならずとも考える原因です。
義信事件が起きたのは1565年のことですが、1561年の第四次川中島の合戦の論功行賞が4年後に火を噴いたとか、又、勝頼は高遠諏訪家を継いだ以上、高遠城主になるのが筋なのに、それに義信が不満を抱いたとか。
幾ら何でも、と私は考えざるを得ないのです。
(昨今の歴史研究の深化により、この頃に勝頼が継いだのは、諏訪本家ではなく、高遠諏訪家というのが完全に通説化しているようです)
そういったことから、これまでに多くの歴史家が、義信事件の真の原因については、様々な推測、憶測をしてきました。
そうした中で、義信事件の真の原因として通説だったのが、対今川外交政策説です。
武田信玄は、これまでの様々な行きがかりから、今川家との同盟破棄を考えていた。
それに対し、今川義元の娘婿であり、又、今川氏真からすれば母方従兄にもなる武田義信は、今川家との同盟維持を主張していた。
(武田信玄の姉と今川義元は結婚しており、その間に生まれたのが今川氏真になります)
そういった背景から、信玄と義信の仲が悪化することになり、終には義信事件に至った、と通説は説いてきました。
確かに、私にも成程、と納得できる理由ですが。
問題は、当時の一次史料等に因る裏付けが皆無で、それこそ後世からの振り返りからの推測に過ぎないということです。
こういった推論が通るなら、極論を言えば、本能寺の変の結果から、豊臣秀吉が最大の利益を得たのは明白、だから、本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉で間違いない。
という暴論が通りかねないということです。
でも、それが正しいでしょうか?
本能寺の変に関しては様々な研究がありますが、私が知る限りは、豊臣秀吉が黒幕と言うのが通説化はしていない、と私は認識しています。
そうしたことから考える程に、義信事件の背景、原因について、信玄と義信の対今川政策対立説には、そういって良いのか、という疑問を私も呈さざるを得ません。
そういった事情から、黒田基樹氏等が新説を提示する事態が起きています。
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