カラスくんの日常 その二
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ハシボソガラスのぼくは今日も朝一で車道の真ん中をお尻をふりふり歩いていた。朝もやの中である。視界が広くない朝は少なくない。ちょっと林のほうに向かってくるみをくわえて戻ってきた。電線に止まり高い位置から殻を割ってやるべく当該くるみをそっと落とす。むぅ、割れない、手強いではないか。ままある、こういうことは。どうしたものかどうしたものか。そんなふうに考えているうちにいよいよ奥さん様の登場だ。玄関の前でふあああぁとあくびをしながら両手を突き上げるのだ。黄色のパジャマ姿。三角のナイトキャップまでかぶっている。頭の先から爪先までなんとラブリーなフォルムだろう。そりゃぼくだってすぐさま彼女の目の前に舞い降りたくなるというものだ――くるみはもういい。
奥さんはぼくのことを見つけると「おはよう、カラスくん! ひゃあぁ!!」なんて言いつつ両腕を広げ、こちらのことを抱き締めようとする。ぼくはぴょんぴょんとバックステップ。いつも清潔な奥さんに、不潔なぼくはふさわしくない、ふさわしくないのだ。
――庭木のあいだから、キタキツネのキツネくんが庭に飛び込んできたのである。おねぼうさんの彼にしてはえらく早朝からの行動だ。今日は家の主人と鉢合わせになってしまったわけであり、だからすぐに身を翻して、「ひゃあぁっ」と逃げようとした。
奥さんは「キツネくん!」と呼び止めたのだった。キツネくんは身をびくっと跳ねさせ足を止め、恐る恐るといった感じで奥さんのほうを振り返ったのである。
「もう知らない仲じゃないじゃない。むしろ顔見知りでしょ? なんでも話していきなよ。私にはきみの言葉は残念、わからないけれど、カラスくんならきっと理解してくれるよ?」
キツネくんはまもなくおずおずと身体をこちらに向けた。芝生の上でおすわりをし、申し訳なさそうに俯く。
「キツネくんは優しいね。優しいから、やっぱりいろいろわかっちゃうし、いろいろしようって困っちゃうし、悩んじゃうんだね」
図星だったのだろう、ついにはキツネくん、ぽろぽろと泣き出してしまった。
こんなふうに、奥さんはぼくたちの気持ちをわかってくれる。
「かわいいきみたちを私は餌付けしてやろうと思うのだ」
高らかに笑いながら、奥さんは家の中へと消えた。
ぼくは心の中で「ありがとう」を言い、実際にぺこりと頭を下げるだけだ。キツネくんはおすわりをしたまま、ぽろぽろぽろぽろ泣くだけだ。お互いに厳しく窮屈な生を送っているのはわかるのだけれど、涙を流すばかりでは良くない。
「キツネくんは情けないなぁ。すぐに泣くんだから」
「強すぎるカラスくんは卑怯だよ」
「きみはわけのわからないことを言うんだね。キツネくんだからかな」
「そんなはずないよっ」
「あるんだよ」
「ないんだよ!!」
こらっ!!
ぼくとキツネくんとが揉めていると奥さんに叱られた。カラスとキツネのペアだ。ご近所さんに目立つと厄介だ。うん。静かにしなければならない、ごめんなさい、奥さん。ぼくは反省します。キツネくんも反省しています、二人してしょんぼりします。
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朝っぱらから「くるみ割りチャレンジ」。
今日はキツネくんと一緒なのである。
ぼくとキツネくんはアスファルトの上に高い音を立てたのち、ぽてんと転がったくるみを見下ろしている。
「割れないなぁ、キツネくん」
「うん。割れないね、カラスくん。きみは高く飛べるんだから、もっと高くから落としてみたらどうかな?」
「うーん、そういう問題でもない気がするんだよなあ」
「そうなのかあ。賢いカラスくんがそう言うのなら、そうなのかもしれないなぁ」
一つ、作戦があるんだよ。
ぼくはそう言った。
「えっ、そうなの?」
「キツネくんは勘が悪いなあ。くるみを車に轢いてもらえばいいんだよ」
「あっ」キツネくんは目を丸くした「すごいすごいっ! カラスくんはやっぱり賢いよ!!」
確かにぼくは賢い。だけどこのくらいの案であれば、誰でも思いつきそうなものだ。よって、「キツネくんは賢くない」となる。だけど「かわいい奴」だというのもまぎれもない真実だ。
「よしっ」
ぼくはくるみをくわえてぴょこぴょこ跳ねて、車道の真ん中まで進んだ。すると心配性のキツネくんは車がすぐにでも通りすぎるものだと思って「カラスくん、早く早くっ」と戻ってくるようぼくを急かした。
ぼくとキツネくんは歩道に並んで車道のくるみを見つめる。
「うまくいくかなぁ」なんて言うキツネくんはうきうきしているようで、「わあ、楽しみだなぁ」とまあるい声まで出した。
いっぽうでぼくは冷静で楽観的だ。この手の手段はすでにシミュレーション済みなのである。キツネくんというギャラリーがいるのだと思うとドキドキする部分もなくはない。そもそも「通り」の少ないエリアだ。いつ車が通るかなんかわからないし、だから踏み潰してもらえる確率も未知数だ。キツネくんの興味津々といった顔を見ていると、とっとと成功してくれと思う。キツネくんは単純だからうまくいったら喜ぶし、うまくいかなかったら絶対すごく残念がるのだ。
おぉっ。車がやってきた、大柄なRV車だ。キツネくんは目を輝かせている。「なんとか踏んでくれっ」、ぼくもそう願っていると、おぉっ、デカいRV車はきちんとくるみを踏んでってくれたではないか。
「わーい!」
嬉しそうな声を上げ、現場へと駆けるキツネくん。くるみは派手に轢かれてしまったわけで、だからその実はあちこちにちらばってしまったのだけれど、キツネくんは車道の真ん中でぴょんぴょん跳ねて喜んだのである。
「やった、やったね、カラスくんっ。くるみ、きちんと割れたよ! さすがカラスくんのアイデアだね!!」
そこまで言われると少々照れてしまうというものだけれど。
「キツネくんはくるみが好きなんだね?」
「えっ」
「好きなんだねと訊いたんだ」
「大好きだけど……」
「だったらそれはもうきみの物だ。ぼくはねずみでも取って帰るよ」
「えっ、カラスくんはねずみを食べるの?」
食べるのだとぼくは言い切った。
おいしいとは言わなかった。
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夜、近所の小さな林の中でキツネくんと会っていた。
「ほら、ここにはくるみがたくさん落ちているだろう? がんばればたくさん食べられるんだから食べるといいよ。くるみはおいしいからね」
「……カラスくん、でもね?」
「なんだい? 暗い顔をして」
「僕はもう、いよいよ、表に出るのが嫌になってきたんだ……」
カラスでしかないぼくでも「はっはっは」と笑ったりするのだ。
「なんだかんだ言っても、このへんでうろうろしているぶんにはだいじょうぶだよ。誰にも駆除されたりしない。むしろ喜ばれているくらいさ。キツネはかわいいってね」
「カラスくん……」
「なんだい?」
「僕は一生、怯えて生きなきゃいけないの?」
つらい質問だ。
でも、そうあるしかないのだから、そうあるしかない。
だけど――。
「キツネくん、ぼくはいつまで生きられるのかわからないけれど、ぼくが生きているかぎりはキツネくんの味方だ。一緒にがんばろう。悪いことばかりではないのが人生だ」
キツネくんはきょとんとした顔の後、優しく笑んだ。
「ただのカラスが人生を語るの?」
「語るくらいはするさ。あるいはぼくはヒトより高貴で高尚な存在なんだから」
「うん、わかった。僕はただのキタキツネだけれど、がんばって生きるよ」
「自分を卑下するのはやめなよ。良くない、それは」
「それはわかっているんだけど……。カラスくんはほんとうに賢いなぁ。僕がダメかなぁと考えたら容赦なく突っ込んでくるなぁ」
ぼくはめんどくさくなって、だから「そんなことないよ」と述べるにだけに留めた。めんどくさくなった――もちろん、ジョークである。
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奥さんは縁側でえーんえーんと泣き出した。泣き真似だろうとわかりながらもびっくりしたし、キツネくんにいたってはさらにびっくりしたようだった。一羽と一匹はびっくりしたのだ。
奥さんが口を開く。
「カラスくん、それにキツネくん、おばさんはきみたちとは同志だから、きみたちを守ってあげようと思うんだ。だから、なにがあってもおばさんについてきてほしいんだ」
ぼくは心の底から感動した。だからぼくは久しぶりに泣いてしまった。隣ではキツネくんも泣いている、ぽろぽろぽろぽろ泣いている。
奥さんは旦那さまを亡くしてしまったので、立派なこの一軒家でひとりぼっちだ。だからというわけでもないのだけれど、ぼくは奥さんと仲良くする時間をとても大切に思っているし、いつもおっかなびっくりびくびくしているキツネくんだって奥さんのことが大好きなのだ、そんなのあたりまえなのだ。
カラスは不潔だ、そんなこと、わかってる。
キタキツネだってご多分に漏れずだ、そんなこともわかってる。
「あのね、カラスくんにキツネくん、一人旅で定山渓に行こうと思ったけれど、やめたんだぁ」
えっ?
「たかが札幌の南区とは言え奥座敷なわけだ。行ったら行ったできみたちとあいだを開けてしまうわけだ。それはいかんことなのだ」
えぇぇっ1?
「私は誰よりなによりきみたちがかわいい」
えぇぇぇぇっ!
エサなんて自分で探す。キツネくんがへた打つようならフォローしてやる。そんなの奥さん、わかっているはずだ。温泉くらい、ゆっくりゆったり浸かってくればいい。
なのに。
「私はきみたちに嫌われちゃうのが怖いんだ」
えっ?
「だって、そんなの、嫌じゃない」
ぼくは黙って聞いていて、キツネくんは大いに泣いている。
ぼくは嫌ったりしません。
言葉では伝えられないから、せめてと思って相槌を打った。
キツネくんがそうであることは知っていたけれど、ぼくだってそれなりに律儀な性分らしい。奥さんにありがとうと言いたい。
「きみたちは、すぐに泣くね」
そうなんだ、奥さん。
ぼくもキツネくんも涙もろいらしいんだ。
わかってくれて、ありがとう。
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ぼくは今日も「くるみ割りチャレンジ」に勤しんでいる。羽ばたき、ちょっと高いところから落とすようになった。アスファルトの道路ではキツネくんが待ち受けている。
キツネくんは「ここだよー、ここだよー、カラスくん、ここだよーっ!」とばんざいばんざいをして落下地点を示す。ぼくはめいっぱい飛んで、そしてくるみを落としたのである。
――割れた。
そうか、高度も馬鹿にできないな。
「ひゃあっ、すごいすごい! きちんと割れたね!!」
キツネくんはぴょんぴょん跳ねて喜ぶのである。
そのときだった。
度を越したスピードの軽自動車が走ってきて――。
危ないっ、とぼくは叫んだ。キツネくんが車に撥ねられそうだから叫んだのだ。でも、キツネくんは器用にかわしてみせた。ぼくはほっとした。地面に下り立ったときにキツネくんに「びっくりした?」と悪戯っぽく言われて、だから怒りが込み上げてきた。ダメだぞ、キツネくん、ヒトを心配させちゃあダメなんだぞ。
――まあいい。
「キツネくん、さっそく、くるみを食べよう」
「うんっ。食べたい!」
「それから今日も奥さんに会いに行こう」
「えっ、奥さんに?」
「ほら、ぼくたちは奥さんが好きだから」
キツネくんはきょとんとなってから、くすりと笑った。
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奥さんは庭木に水をやっていた。カラスとキツネが並んでとことこやってくる様子は変わった光景でしかないだろうけれど、奥さんからすれば慣れっこだし、喜んでもくれた。青いホースの水を細かなしぶきに変え吹きかけてくる。ぼくもキツネくんも「ひゃあぁっ」と逃げる。大笑いする奥さん。良かったなと思う。奥さんに笑顔をもたらすことが、ぼくとキツネくんの「使命」なのだから。
奥さんは放水での攻撃をやめると縁側に腰掛け、晴れ渡る空を見上げた。秋空。本日はまこと涼しげな日和である。
ぼくもキツネくんも身を振って水気を切ると奥さんの前にきちんと座った。
「きみたちはとことんお行儀がいいなぁ」
礼儀正しくいようとは思う。だけど褒められるいわれはない。だからぼくとキツネくんは揃って首を横に振った。「まるでニンゲンみたい」と言い、奥さんは笑ってみせた。
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――夜、より高い位置からくるみを落としたのだけれど、割れなかった。地上に舞い降りる。ちょこんとおすわりしていたキツネくんが「今夜は割れないなぁ」と残念そうに言った。
「カラスくん、くるみが割れると一食浮くから、僕はとても嬉しいんだ」
「キツネくんは器が小さいなあ。くるみというのはどうしたっておやつなんだよ」
「えーっ、やっぱりねずみを食べろとか言うの?」
「ねずみはたくさんいるから、食いっぱぐれないで済むんだ」
「えぇぇっと、でもなあ、僕は、えっと、困ったなぁ……」
キツネくんは優しいというか、ほんとうに臆病な奴なんだろう。
「もう一度、落としてみよう」
「うん、お願いします、カラスくん」
くるみをくわえて、上へ上へと飛び立つ。キツネくんがほんとうにくるみが好きなのはわかっている。だからなんとしても割ってやりたいと考える。
ぼくとキツネくんはいいコンビだ――否、奥さんを含めていいトリオだ。
ぼくはくわえていたくるみを落とした。
今度こそ、割れたらいいな。