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Bite The Dust

作者: 雨森 夜宵

 雑居ビルの四階、とだけ言われて来てみれば、真っ先に目に入ったのはホワイトニング専門の歯医者だった。右は行き止まり。左手すぐのドアには怪しすぎる結婚相談所の看板が出ている。踏み出した廊下は不思議なくらいヒールの足音を吸った。こんなところに喫茶店なんかねえだろ、と思いながら結婚相談所を通り過ぎ、テトリスのブロックみたいに折れた通路を抜けると、急に渋い飴色の扉が見えて面食らう。

 喫茶「佇」。なんて読むんだこれ。

 分かんないままドアを開ければカランカランと控えめなベルの音がした。ていうか入り口小さい。頭ぶつけそう。

「すいませーん」

 重い色味の木を基調にした空間と黒く艶やかなウッドカウンター。喫茶店っていうよりバーっぽかったけど、奥の棚に並んでいるのはどれもソーサー付きのカップだった。その左奥、初老の男性がこっちに気付いて読んでた新聞を畳む。マスターっぽい。おでこ側からちょっと禿げ上がった白髪交じりの髪に、白シャツ、黒のエプロン。いらっしゃいませ、と柔らかく笑う。

 ふうん。一見物静かだけど社交的、下手するとちょっとめんどくさいかも、って感じ。

「エリちゃーん」

 後ろから軽薄な声が聞こえた。反射的にため息が出そうになる。こんな軽い声出す男、あいつしかいない。

 誰もいないカウンターのど真ん中に陣取って、佐上はへらっと片手を上げた。相変わらず火をつけてない銜え煙草はメビウスのロング。無精ひげほったらかしてるし、無造作なひとつ結びの茶金髪にレモンイエローの半袖アロハがまあこの空間に似合ってない。てか、マジで誰もいない。奥の方のテーブル席がひとつだけ埋まってて、二人組のおばちゃんが談笑してるだけ。

 お好きな席へどうぞ、というマスターの言葉に頷いて、佐上の左隣に腰を下ろした。佐上はじっとこっちを見ていて、あたしが座るとやっとジッポを取り出した。刻印も何もない、シンプルな銀色のやつ。へえ。今時煙草吸えるのはポイント高い。

「すいません。灰皿貰えます?」

「あ、灰皿ね」

 ちらっとこっちを見たマスターが、カウンターの向こうからガラスの灰皿を出した。追いかけるように隣から立ち上るメビウスのきっつい匂い。

「ここのオレンジムース、オススメ。エリちゃん絶対好きよ」

 吐く息と共にそれを撒き散らしながら、何の脈絡もなくオススメを教えてくれる。どうぞ、と差し出されたメニューはたった一面で、スイーツとタイトルのつけられた欄にオレンジムースなんて文字列はなかった。何を初手からパチこいてやがんだと非難の視線を向ければ、佐上は小さく首を振って、くいっとマスターの方を顎でしゃくった。なんだ。裏メニューかよ。結構通ってたなこいつ。

「すいません」

「はい。お決まりですか?」

「オレンジムースってあります?」

 言った途端、マスターは僅かに目を見開いた。でも、一瞬の後には表情を元に戻して、ええ、と柔らかく微笑む。

「ございますよ。少しお時間いただきますが」

「大丈夫です、それください。あと、ホットコーヒーを」

「どれにします?」

 やば、よく見てなかった。ホットコーヒーの欄には十種類くらいの名前が並んでいて、取り敢えず名物っぽいやつ、と思ったら名前が「佇ブレンド」だった。読めねえ。

「これを」

 指差しで注文すれば、マスターはあたしの手元も見ずに笑みを深めた。

「タタズミブレンドですね」

 あ、タタズミって読むんだ。……てかみんな読めないんだな多分。

「お先にコーヒーお出ししますね」

「お願いします」

 かしこまりました、と軽く頭を下げて、マスターは豆を挽くところから始めた。くすんだ赤のコーヒーミルが轟音を上げて豆を砕くのを、フィルターを右手に乗せたマスターが直に受けていく。迷いのない、慣れた手つき。置かれているものの位置をミリ単位で把握してるみたいな、もう何十年もこの店でやってそうな感じ。


「……ね? 見えないでしょ」


 佐上の囁きに頷く。確かに見えない。あたしの反応を見ると、あーあ、と頭の後ろで腕を組んだ。

「やっぱ見えないよなあ。見えないし見えてねえの」

「みたいね。……ていうか頭燃えるわよ」

「今更燃えたりしないって」

 ふふん、と笑ったその手は確かに頭から少し離されていて、まあ燃えたりはしなさそうだ。見かけるたびにやってることでもやっぱり気になる。その代わり床に灰が落ちないかが心配だけど、なんて思った次の瞬間にはひょいと灰を折るもんだから、その辺の抜け目のなさは相変わらずなんだと妙に感心しながら思った。ポットとドリッパーが音もなく出てきてカウンターの向こうに据えられる。一度、二度、三度と注がれたお湯がポットに落ちて、真っ白なカップに注ぎ込まれて、あたしの目の前に現れる。控えめな湯気と一緒に膨らんだ香りは隣のメビウスを一気に掻き消した。

「お砂糖とミルクは?」

「いえ、大丈夫です」

「かしこまりました。……オレンジムース、少々お待ちくださいね」

「はい」

 頷いたマスターはカウンターの左端まで行って、奥の藍色の暖簾の向こうに消えた。あたしの好きな深煎りの苦み。酸味少なめ。味がしっかりしてて、オレンジムースには合いそうな感じがする。流れるジャズの音量は絶妙で、テーブル席の二人組の会話はほとんど聞こえないのに、ちっとも耳障りじゃない。

「いい店でしょ」

 得意げなのは無視した。でも珈琲は間違いなくおいしいし、言ってることは正しい。

「よく知ってたわね、こんなとこ」

 まあね、と佐上は鼻の頭をこすった。

「昔使ってたセーフハウスがこの辺だったから。……ほらあ、俺ってそういうとこだけ鼻利くじゃん? オムライスとかさ」

「ああ」

 そういえばと思い出せば、濃厚なデミグラスの味が口によぎる。ある日突然紹介されたその店は飲み屋横丁のど真ん中――の裏にあって、まさかこれが店とは、てっきり個人宅かと、みたいな構えだった。そういうのを探し出す勘が佐上にはある。てか、あそこも最近行けてないな。おばちゃん元気かしら。

「そんでふらっと入って見っけたの。ちなみにあそこの二人は結婚相談所の十年選手」

「……十年選手?」

「そう。なんか、箱入り娘やってるうちに箱入りおばちゃんになっちゃったらしい。家事とかマジでなんにもできねえの」

「なにそれ。てかド偏見よ」

「いやいやいや、自称よ自称。俺あの人たちと喋ったことないもん」

「あら。お耳がいいこと」

「諜報屋なんでね」

 職業病ってやつ、と佐上はちびた吸い殻を灰皿に押し付けた。視線が微妙に焦点を結んでないのは、もしかしたら今も向こうの会話が聞こえてるのかもしれない。それはすげえな。あたしにはなんにも。

「……まあ、エリちゃんも気を付けな?」

 二本目を取り出しながら、にやあ、と下品な笑い方をする。

「暗器しか使えない女はお嫁にいけないよ」

 は。何を言い出すかと思えば。

「行くわけないじゃない。元別荘暮らしのムショ入り娘よこちとら」

「ふはっ!」

 思いっきり噴き出してから二、三咳き込む。ほら見ろ。軽いのにしろっつったのに。あたしの忠告を聞かないからそんなことになるんだ。

「――旦那なんか一生持ってやらない」

 なかなか途切れない咳に隠すように呟いたのが、佐上に聞こえたかどうかは分からない。

「……てか、逆もだからね?」

「逆?」

「暗器しか使えないテツノリさんがああいう十年選手引いて苦労するかもしれないじゃない」

「……その名前呼ぶなっての」

 いらいらして長髪を掻き上げればピアスが揺れた。徹紀なんて名前、久しぶりに聞いたけどやっぱごつくて男くさい。嫌すぎ。

「はいはい。エリさん。……でも俺、テツノリさんあってのエリちゃんだから好きなのよ?」

 にやにや笑うのが癪に障る。ほんと、何回会ってもムカつく男。ピンヒールなんか履いてお洒落してきたの馬鹿みたいじゃない。

「お、来た来た」

 自分のでもないのに嬉しそうに呟いた佐上の視線の先。さっき出ていったマスターが持ってきたのは一見レアチーズケーキみたいなピースで、一番上の薄いゼリーの中に鮮やかなオレンジのスライスが閉じ込められていた。お皿はチョコレートとオレンジらしいソースで彩られている。

「お待たせしました、オレンジムースです」

「……綺麗」

 思わず口から零れた言葉を、マスターは少し笑った。

「ソース少し重いですから。味変の感じでつけるといいと思いますよ」

「ありがとうございます」

「いえいえ。……じゃあ、僕もおこぼれに預かろうかな」

 そう言ったマスターは小さなスツールに腰かけると、私物らしいマグカップにコーヒーを注いだ。二杯分入れてんなとは思ったけど自分の分かい。ちゃっかりしてるよな、と佐上が小さくぼやいたのは聞こえなかったらしい。

「いつもそうやって『おこぼれに預かる』んですか?」

 淡く揶揄うように言えば、マスターは目元をくしゃっとさせて悪戯っぽく笑った。

「ええ、そうですよ。だからいつもお腹がちゃぽちゃぽなの」

「あら。カフェインの摂りすぎにならないかしら」

「珈琲屋にそれを言うのは無茶ではないかなあ」

 言いながら嘆くような顔をしてみせるもんだから、知らず知らず気持ちが緩んだ。表情を作るのが上手い。コーヒー大好きおじさん、って感じ。如何にもそう。

「確かに」

「ああ、どちらかというとニコチンの方が問題かもしれませんね。最近は吸う人しか来ない」

「あちらは?」

「あちらは特別」

 ちらっと目で示したテーブル席の女性二人組を見もせずにマスターは言った。

「結婚したいから煙草は吸わないんですって」

「ふうん」

「あ、失礼。吸われる方の前で言うのもなんですな」

「いいのよそんなの。まともに生きていこうなんて思ってないから」

「はは。勇ましいなあ」

 マグカップの中のコーヒーを、マスターは随分と念入りに冷ましてから啜った。勇ましい? まあ、確かに。勇ましいかもあたし。殺し屋だし。大きめに切り取ったオレンジムースを口に入れる。爽やかな柑橘の匂いとふわふわのムース、しっとりほろっと崩れるクッキーが絶妙によく合う。やば。何これ。

「旨っ」

「でっしょー? エリちゃん絶対好きだと思った」

「ありがとうございます」

 会釈したマスターの目の前、ひょいと伸びてきた手が灰を落とす。コーヒーでリセットした口にまたムースを広げたところで、隣から「ゲェッホ!」って死ぬほど盛大に噎せたのが聞こえて思わず笑った。だから。軽いのにしろって言ったのに。せめてあたしと同じ、ラキストの6ミリにしといてくれれば。

「……何かいいことでも思い出しました?」

 静かに訊くマスターに、ああそうかこっちも見えないのか、って改めて思った。

「ええ。あたしにこのオレンジムースのことを教えてくれた男がいたの」

「おや。お友達ですか」

「いいえ。恋人」

「それはそれは」

 愉快そうに小さく体を揺らして、またひと口マグカップを傾ける。マグを持っていない左手がそれとなく滑り降りて死角へ消えるのが見えた。まだ機は熟していない。少なくとも、あたしがこのケーキとコーヒーを平らげるまではおそらく。あたしのこういう勘は外れない。どっかの能天気ご飯バカとは違って。

「ちょっと。顔が『バカ』って言ってんの聞こえるんですけど」

「でもメニューには載せてないのね」

「無視かい」

「載せませんよ。売り物じゃありませんから」

「あらそうだったの?」

「そう。だから裏から取ってきたでしょう?」

 ああ。言われてみれば。

 テーブル席の二人組が荷物をまとめ始めた。すっと立ち上がったマスターはカウンターを出ていって、お代の清算がてら雑談を始める。

「……で? どうすんの」

 佐上が小声で言った。

「どうって?」

「一式持ってんでしょ?」

「ああ」

 仕事道具か。探るようにこちらを見る佐上の言いたいことは分かる、けど。

「持ってないわよ」

 ソースをつけてひと口。優しいムースに、ちょっとビビッドなカカオとオレンジが映える。

「あれ? 殺る気ゼロ?」

「仕事じゃないもの。あんたのオススメのケーキを食べに来ただけだし」

「なあんだ」

 とは言いながらも暫くこっちを見てた佐上は、やがてちっちゃい溜め息をついて目を逸らした。こいつはあたしの隠し事だけはお見通しがち。今回もバレただろうなと思ってたところに、そういうことか、と呟くのが聞こえた。

「エリちゃんも大概だよな」

「何がよ」

「ううん。一途だなって話。見かけによらず」

「あ?」

「ほらほら。テツノリ出ちゃってるよ」

「言うなってその名前」

「俺の愛しのエリちゃんは?」

「うるさいわね、テツノリもエリも一緒よ。てめえのケツに訊いてみろっての」

「うわっ、ちょっともー。お口がきたねえでございますわよ」

「黙ってろあそばせ」

 くすくす笑う佐上の向こう、マスターが戻ってきた。二人組はあたしたちの背後を通過してそのまま店を出ていく。ありがとうございました、と言ったマスターはその足でテーブルを片付けはじめ、あたしは黙々とムースを平らげていった。カップの中の水位が下がっていく。マスターは何も言わずに食器を洗い終えたかと思えば、また豆を挽き始めた。今度は器に受けたそれを、何かの中へ入れていく。

「あーあれか。あれも俺オススメ、激うま」

 もう分かったらしい。なんでだ。

「あたしなんにも頼んでないけど」

「こっちはサービスですよ。僕が飲みたくなっただけ」

「あら。あたしのおこぼれタイム?」

「お客さんにこんなこと言っちゃだめだと思うけど、まあそういうことです」

「預かるわ」

 ふふ、と溜め息つくみたいに笑って、マスターは作業を進めていった。真正面で行われるそれは死角になってよく見えない。

「あのマキネッタ欲しかったんだよなあ」

 佐上が呟く。

「マキネッタ?」

「うん」

「そうです、マキネッタ。ここを開けた時から愛用してる相棒でね」

「あの近未来のヤカンみたいなやつ。下に水と豆入れてさ、沸騰させると上にエスプレッソが溜まんの」

「へえ」

「濃いカフェオレがお好きなら、ひとつあるといいですよ。手入れは面倒ですが」

 ほら、とマスターがわざわざカウンターに乗せて見せてくれる。佐上の言った通り、下の土台みたいなところに水を入れ、そこに漏斗みたいな形のパーツと均したコーヒー豆を入れて、上に小さなポットもどきを重ねてふたみたいに閉める。なるほど。近未来のヤカン。

「これを火にかけるだけ」

「簡単ね」

「ええ。四分ほど放っておけばエスプレッソができます。なのでその間に……」

 ガラスのタンブラーを二つ。多分牛乳と砂糖と、他にも何か入れたみたいだったけどここからは手元が見えなかった。それをスプーンで念入りに混ぜて、大きめの氷を浮かべる。あたしはムースとコーヒーを平らげた。佐上は冷静を装ってるつもりみたいだけど、灰を落とすテンポが明らかに早い。どう見ても緊張してる。デートも潮時かと、あたしも煙草を取り出した。ゲン担ぎのラッキーストライク。刻印も何もない、シンプルな銀色のジッポ。吐いた煙は空調に流されて拡散していく。

 一瞬あたしの手元を見た佐上が、苦笑いしながら目を逸らした。

「……使ってんのかい」

「もういいかな」

 呟いたマスターは例の近未来ヤカンを持ち上げた。注がれるエスプレッソの香ばしい匂いが広がる。

「んー、いい匂い。やっぱここのコーヒーはいいよなあ、来る度鼻の穴倍になりそう」

「お待たせしました。アイス・ハイチ・ラテです」

 カウンターに乗せられたそれにストローが添えられる。茶と白の二層に分かれたアイスカフェオレ、って感じだった。特にハイチ感はない。

「ハイチ・ラテ?」

「まあお飲みになれば分かると思いますよ。基本はただのカフェオレです」

 言いながら自分でもストローを開けて、せっかくの二層をあっという間に混ぜ合わせてしまう。ちらりと佐上の方を見遣れば、微笑んで首を横に振られた。

「大丈夫。そういうやり口の人じゃない」

「あ、飲む時には混ぜてくださいね。そのままだとただのミルクだから」

 まあ、佐上が言うなら間違いない。ストローで混ぜたそれを吸い上げた途端、広がったのはエスプレッソの香りだけじゃなかった。おいしい。コーヒーとして嗅いだことはないけど、でも絶対知ってる匂いがする。

「……分かります?」

 うーん、と唸りながら煙草を銜える。

「知ってる気はするけど。なんだろう」

「エリちゃん、ヒントあげよっか?」

「口にしたことはあると思いますね」

「はい! 勝手に諜報屋さんヒーント! 入ってるものはねえ、俺の――ぶえっ」

 うるさいから思いっきり煙吹っ掛けてやった。要らんわ。自力で当てるっつーの。

「ひど、げえっほ!」

「お酒よね?」

「お、当たりです。じゃあ何のお酒でしょう」

 クイズ、とでも言うようにマスターは小さく首を傾げた。佐上が散々咳き込むのを視界の外に聞きながら、不本意ながらヒントが既に与えられてることに気付く。俺の、ね。ムカつくけど察しついちゃった。

 俺の好きなもの、か。

「――ラム?」

「ご名答。ラムを軽く振ってあります」

 甘い匂いになるでしょ、とマスターが言ってストローを銜えた。

「おいしいけどよくないわよ。お酒ダメな人かもしれないじゃない」

「あなたに限ってそんなことはないな。遠藤徹紀さん」


 ああいや、エリさんか。


 平然と言われたその台詞に、意外性はなかった。気付いてなかったとしたらそっちの方が驚く。

「ええ。よくご存じね」

「お互い様じゃない」

 言いながらマスターが苦笑いする。

「よく迷わずに口をつけましたね」

「毒なんか盛るのはあなたのやり口じゃないでしょ。鮫島総一郎さん」

「ああ。よくご存じで」

 表情も何も変わらないまま、空気だけがすっと冷えた。こわぁ、と小さく漏らした佐上がいそいそと煙草を揉み消す。

「ムースとコーヒーを普通に出しておいて、食後の一服中に背後から首をひと捻り。なんて殺り方する人が毒なんか使い出したら終わりよ」

「誉め言葉かな?」

「まあそうね。……そんな死に方する方もどうかとは思うけど」

 ええー、と佐上が嫌そうに言った。

「どうも何も、ただの感じのいいおじさんにしか見えなかったから」

「一般人なんてそんなものでしょう」

「そう!」

 よくぞ言ってくれました、とばかりに佐上がマスターを指差す。マスターはあたしから目を逸らさないまま、タンブラーの中の氷を鳴らした。

「我々はむしろそういうものが見えすぎている」

「それ! マジでそれ、普通は喫茶店で『うわーこのマスター俺の首へし折ってきそう』とか考えないのよホントに」

「……そうかも?」

 見慣れちゃっただけかもしれない。見えなきゃ死ぬから。コーヒーやカップを扱う手つき、歩く時の重心、笑顔の作り方。じっと観察していれば何となく相手の実力は分かる。向こうが齢いってる分あたしの方が上、でも地の利は向こうにある。あたしにとっておきのまぐれ当たり(ラッキーストライク)があったとしても、多分勝負は五分五分。

 やば。運まで含めて五分五分だなんて。

 ――超興奮するんですけど。

「まあ、煙草の最後のひと口をケチった挙句あなたと二人きりになった馬鹿さ加減はともかく――」

「ごめんって」

「――()()()()()()()()()()()()は受けてほしいわね」

 まっすぐに見据えたマスターの目は、困惑を浮かべて僅かに険しくなった。

「……うん?」

 隣で佐上も首を傾げた。

「逆じゃない?」

「逆ではありませんか?」

「逆じゃないわよ」

 ほぼ空っぽの灰皿に吸い殻を押し付ける。佐上がバカスカ吸って積み上げたはずのメビウスロングはどこにもない。

「あたしはあいつなしで生きられるけど、あいつはあたしなしじゃ死ぬこともできないみたいだから」

「あー」

 そこなんだ、と佐上が苦笑いする。ラムの香るカフェオレで口を湿す。おいしい。ちょっと惜しいくらいに。

「――だから。あんたの死に顔拝ませて、とっととあっちへ渡ってもらうわ」

「そうですか。面白い……因果応報とはよく言ったものだ」

 ふっとマスターが笑う。目で問えば、微笑を浮かべたままストローをつまんでゆっくりと掻き回した。

「僕もね。あの男の死に顔で息子を送りました」

「……鮫島太一」

「ええそう。あの男が情報を売り、あなたが殺した私の息子」

 伏せた目の冷たさ。思わず背筋が震えたのは、半分は気圧され。半分は高揚。

 こいつ、殺る気だ。

「――ああ、気の毒ねえ。殺り甲斐があるわ」

「ははは、分かるな。お互いさまかな?」

 じわじわと張り詰めていく緊張感に、佐上がそうっと立ち上がった。軽い足音が、じわじわと後退してテーブル席の方へ遠ざかる。あれでも死んだ人間だ。うっかり何かが起こっても「もう一度死ぬ」なんてことはないはず。でも、二度死なれても寝覚めが悪い。

「下がってな佐上」

「うん! 下がってる!」

 壁に張り付いた佐上がぱっと両手を上げて答えた。聞こえなかっただろう鮫島はそれでもきっと顔を上げて、刺すような視線をテーブル席の奥――佐上の1メートルほど右に向けた。怒りか憎しみか、壮絶に歪んだ笑みに佐上が竦む。

「っ!」

「おやおや、デートでしたか? ……ナメられたものだ、殺し足りなかったか」

「死神を連れてきただけよ。――てめえが死に次第冥土まで送らせる」

「小癪な――」

 向こうの手が背後に回されるのと、あたしの手がレッグホルスターに伸びたのが同時だった。長年あいつが握ってたグリップは手に馴染まない、なのに指先が勝手にトリガーを引く。

 銃声、顎の骨を掠めた銃弾。衝撃。陶器の割れる音。

 転がりながら蹴っ飛ばして脱いだピンヒールが壁にぶつかって派手な音を立てる。どっかの布が破れた感触。カウンターの向こうに聞こえる物音。低く構えたあたしの、口の端に滲む笑み。まだ終わってない。こんな一撃で終わったら面白くない。鋭く吸い込んだ空気にハイチ・オレの香り。いつものラキスト。体に染みついたメビウス。

 一瞬の静寂の中、エリちゃん、と叫ぶ佐上の声が聞こえた。


 ――俺、エリちゃんとしかあっち行く気ないから!!


「うるせえええっ!!!」


 んなこたぁ百も承知だクソッたれ!!!

 カウンターの向こうから躍り出た影。あたしと同じ笑みを浮かべた殺人狂。あー怖え。でも、これで心置きなくぶっ放せる。あいつの遺したこの弾丸、撃ち込むならこいつと決めていた。




 死にさらせ。(あたし)の恋人を殺した男。




 fin.

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