19-34 愛妻弁当を頂きました
お弁糖……いえ、何でもありません。
あ、糖度警報出しときますね。
二月二十四日の朝。いつもの通りに仁は、姫乃と英雄が待つ星波家へと向かうべく準備を整える。そんな普段通りの中に、これまでと違う要素があった。
「あれ……あ、そうか」
普段は母親が用意してくれた弁当を、このタイミングで鞄に入れるのだが……今日は、今日からは月・水・金はそれが無い。
最愛の婚約者である、姫乃からの誕生日プレゼント。それは週に三日、仁のお弁当を彼女が作るというものだ。今日は、正にその最初の日であった。
姫乃の愛妻弁当が楽しみだなどと思いながら、仁は登校すべく自宅を出発する。
恋と鳴子から贈られた歩行補助サポーターのお陰で、杖無しで普通に歩ける。流石に走ったり、跳んだりは出来ないが……仁からすれば、もう普通に歩けるとは思っていなかったのだ。こうして普通に歩く事が出来るだけでも、最高の気分である。
そうして星波家まで徒歩でやって来た仁は、表情には出さない様にしているが心を躍らせていた。
仁が呼び鈴を押せば、すぐに聖からの応答があった。聖は「おはよう仁君、少しだけ待っていてね」と伝えて応答を切る。
それから時を置かずに、一台の車が星波家の前で停車した。
「おはようございます、仁さん」
「おはよう、恋さん。二人も、すぐに来ると思うよ」
「そうでしたか。それはさておき、仁さん……お加減は如何ですか?」
恋の言う”お加減”とは、やはり足の事だろう。それを察した仁は、心からの笑みを浮かべてみせる。
「お陰様で、最高かな。恋さん、鳴子さん……本当に素敵なプレゼントを、ありがとうございます」
そんな仁の言葉を受けて、恋……そして、いつも通り彼女の側に控える鳴子は笑みを浮かべる。仁の表情から、その言葉が心の底からのものだと感じ取れたのだ。
そこで、星波家の玄関の扉が開かれた。
「お待たせしました、仁くん! あっ、恋ちゃん鳴子さん、おはようございます!」
「おはよう恋、仁。おはようございます、鳴子さん」
星波兄妹と、そんな二人に続いて姿を見せるのは聖だ。大将の姿が無いのは、彼が既に出勤済みだからだろう。
朝の挨拶を一通り終えると、姫乃は満面の笑みで仁に向き直る。
「それじゃあ、仁くん……はい、どうぞ!」
差し出されるのは、ランチバッグ。中身は姫乃が作った愛妻弁当である事は、誰がどう見ても明らかだろう。
改めてそれを用意してくれた事が、言葉に出来ない程に嬉しい。しかしながら、言葉にしなければ伝わらない事がある。それを重々理解している仁は、姫乃から愛妻弁当を受け取りながら感謝の言葉を伝える。
「ありがとう、姫。よく味わって、食べさせて貰うよ」
そんな仁の言葉に微笑んで、姫乃は頷いてみせる。その表情は本当に幸せそうで、冬場の早朝の寒気が気にならなくなりそうな程だ。
「……英雄さん? 私、三月三日が誕生日なのですが……誕生日プレゼント、欲しい物が」
「あー……弁当箱でしょうか?」
「流石です、でも九十五点ですね」
「……もしかして、弁当を作ってくれるんでしょうか」
「ふふっ、その通りです。これで百点ですね」
「そっか……愛妻弁当だね」
「……百二十点です」
「……愛様、千夜様、優様も便乗しそうですね、これは」
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そして昼時、[日野市高校]のある教室。生徒達は普段通りに、昼食の為に動いていた。弁当を食べるスペースを確保したり、学食へ向かったり、購買へ向かったりだ。
「英雄、仁! 待たせて悪い、飯食おうぜ!」
「お待たせ、二人共」
人志と明人が購買部で菓子パンを購入し、教室で待つ仁・英雄の居る一角に向かう。この様子は二学期以降は日常の光景の一部であり、四人が昼食を共にするのを誰も不思議に思わなくなっている。
しかしながら、この日はいつもと違うものがあった。ささやかな変化に真っ先に気付いたのは、人志である。
「あれ? 仁、その弁当箱初めて見るな」
「あー、うん。そうだね……さて」
そう言いながら、仁は弁当箱を開けて……そこに収められた料理の数々を見て、「おぉ……」と声を漏らす。
お弁当の定番として、卵焼き。そして一口サイズのミニハンバーグが、真っ先に目に飛び込んでくる。そんな主菜の脇には、茹でたブロッコリーとミニトマトが添えられていた。
――姫の事だから、何か気合いの入ったモノを入れているんじゃないかと思ったけど……結構、定番のお弁当って感じにしてくれたんだ。
姫乃の事だから、張り切って豪華な物を作るのではないか? と思っていた仁は、思いのほか普通のお弁当……正確には普通に美味しそうで、安心できるお弁当のラインナップで驚いた。
しかし、姫乃があれだけ張り切っていたのだ。二段式の弁当箱の下部分……そう、米を入れる部分に何かがあるのでは? 例えば桜でんぶで、ハートマークとか作っていてもおかしくない。
そう思って、下段を開く。そこにはふりかけをかけられた、普通の白米が詰められている。安心感しかなかった。
――逆にこういう感じの方が、安心できるな。姫の負担にならないかって、ちょっと気になっていたし。
もしも姫乃が無理をして豪華な弁当を作ってくれたならば、嬉しくはあるものの申し訳なさが先に立つ。彼女もそれを考慮して、普通のお弁当にしてくれたのかもしれない。
そんな事を考えつつ、仁はありがたく姫乃の弁当を堪能させて貰おうと両手を合わせる。
「いただきます」
最初にふりかけで彩られた白米を口にすれば、実に安心感を覚える。時間が経っても程よい柔らかさの白米は、これぞお弁当のお米だと言いたくなる様な丁度良さだった。
次に、間違いなく姫乃が手ずから焼いたであろうおかず……二つ用意されている、卵焼きの一つに箸を伸ばす。
「……うまっ」
思わずそう言ってしまうくらいに、その卵焼きは仁の好みの味だった。塩や砂糖をあまり入れずに、程よく出汁の風味を感じさせる。それでも程よい塩分と旨味を感じるのは、恐らく醤油を少量入れているからだろうか。実に仁好みの味で、残りがもう一つしか無いのかと思わせるくらいだ。
「仁……なんか、今日は随分と美味そうに食うな」
「確かに。弁当箱もいつもと違うし……なんか、嬉しそうだね?」
事情を知らない人志と明人がそう問い掛けると、仁はハッと現実に引き戻される。姫乃の作った弁当に意識を集中していたので、完全集中モードになってしまっていたらしい。
「あー、ごめん。食べる事に、めっちゃ集中してた」
そう言って照れ笑いする仁の様子に、人志と明人は不思議そうにして……そして、気付いた。
「……? あ、仁……もしかして、それって……」
「……あぁ、成程。彼女さんの作ったお弁当なんだ」
その弁当を作ったのが、誰か? 仁と姫乃の事を知る二人は、即座にその可能性に思い至ったのだ。
すると、近くで弁当を食していた女子生徒達が視線を一斉に仁の方に向ける。
「それって、まさか学祭に来たあの美少女の!?」
「星波君の妹っていう、彼女さんの手作り!?」
「うわっ!? びっくりした……!!」
英雄ファンにして同担歓迎コンビ、道端さんと猪里さんである。そんな二人の視線は、仁の弁当箱に釘付けになっていた。
当然二人の声は教室中に響き渡り、他のクラスメイト達も仁の弁当に興味を示して近付いてきた。
「あの超絶美少女の、手作り弁当だと……!?」
「くっ……寺野ォ……!! 羨ましすぎっぞ!!」
「寺野! そのハンバーグと俺のミートボール交換しないか!!」
「嫌だよ」
そんな騒がしくなった教室だが、仁は特に動じずに姫乃の作った弁当に箸を伸ばす。次に口にするのは、やはり今日の弁当のメインだろうミニハンバーグだ。
「……おぉ」
ミニハンバーグを食べてみると、旨味が口の中に広がる。日頃食べ慣れた冷凍食品のものとは、段違いの美味しさである。
そして気付くのは、このミニハンバーグがただのハンバーグではないこと。味や食感から、豆腐ハンバーグなのだとすぐに解った。加えてバジルの風味がしており、ソースが無いにも関わらず実に美味しい。
という事は、このハンバーグは温めるだけの既製品ではないという事だ。
そんな仁の様子に気付いたのか、英雄が笑みを浮かべながら口を開く。
「昨日の夜がヒメの作るハンバーグだったんだけど、その時に弁当用にも準備していたみたいだ」
そう言って、英雄もハンバーグを口にする。姫乃が仁の弁当を作るのならば、英雄の弁当も彼女が作ったものなのは不思議ではないだろう。
「じゃあ英雄の弁当も、妹さん作?」
「確かに仁の弁当と、ラインナップが同じだな」
ちなみに当然、父・大将の分の弁当も姫乃が作った。今頃、娘のお手製弁当を食べて感激しているのだろう。
「正解。仁のが愛妻弁当なら、俺のは愛妹弁当になる」
そう言って笑う英雄だが、その発言によってクラス中の空気が静止する。
「愛妻……だと……!?」
「寺野、お前……既に結婚していたのか!?」
「年齢を考えろ、年齢を」
ゲームではそうですね、現実ではまだですよ。
「というか、星波君認定済みの関係なのよね」
「もしかして、親公認だったりして」
「寺野君なら有り得そう~!」
「確かに! ちゃんとご両親に挨拶とかしてそうじゃない?」
正解、両家公認の婚約者です。
「俺なんて、学食のおにぎり二個なのに……!! こ、これが勝ち組と負け組の差なのか……!!」
「くそぉ……どんな徳を積んだら、あんな超絶美少女とラブラブになれるんだよぉ……!!」
「まず、下心を捨てる所からじゃない?」
「やめろぉ!! 正論は求めてないんだよぉ!!」
文化祭の阿鼻叫喚よりは大分マシだが、それでもクラスメイト達の反応は悲喜交々。特に一部を除く男子生徒達は、恋愛格差を実感させられて精神的ダメージを受けているらしい。
そんな教室の喧騒を意に介す事無く、仁は姫乃の弁当をよく味わう。味も量も申し分なく、仁の事を考えて作ってくれたのが良く解る。改めて姫乃の料理の腕を称賛すると共に、姫乃への誕生日プレゼントは気合いを入れなくてはと決意する。
四月一日が、姫乃の誕生日。自分も彼女も春休みなので、デートに出掛けるのが良いだろう。
ちなみに、一番反応をしていそうな根津さん。彼女は勿論仁の様子を伺っているが、同時にある作業で忙しくしていた。
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複数のネットで、VRドライバーをゲットすべく懸賞申し込みをしているのだった。
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その頃、[初音女子大学付属中等部]。仁達と同じ様に昼食をとる【七色の橋】JC五人組なのだが、その内の一人がうーん? と首を傾げていた。
「時間が経つと、風味が逃げちゃうような……? もう少し、バジルを入れた方が良いのかなぁ」
真剣に自分が焼いた豆腐ハンバーグを食べながら、その味について思考を巡らせる姫乃。愛妻弁当を作ると決めたからには、納得のいくものをあげたいと思っているのだろう。
そんな姫乃の様子に苦笑しながら、千夜が声を掛ける。
「めっちゃ美味しそうだけどねぇ……姫のん、一口分で良いから私の唐揚げとトレードしない?」
「うん、良いよ」
姫乃が弁当箱を差し出すので、千夜は豆腐ハンバーグを箸で割って味見程度の分量を貰い受ける。姫乃も同じ様に、少しの量の唐揚げを貰ってトレード完了だ。
いただきますと口にして、千夜はミニハンバーグを口の中に放り込む。最初はもぐもぐと咀嚼していたが、すぐにその動きが止まった。しかしすぐにもぐもぐタイムが再開され、良く噛んでから呑み込み真顔で感想を口にする。
「めっちゃ美味いんだが?」
「そうかな?」
「へぇ……そんなに美味しいの?」
「マジで美味しい、今まで食べたハンバーグの中でトップかも。姫のん、今度普通サイズ作って! 私も姫のんの為に、何か作るから!」
千夜が絶賛するので、恋達も味が気になり始めていた。それに気付いた姫乃は、三人が味見できるようにハンバーグを割って「試食してみて」と差し出す。
「じゃあヒメちゃんも、好きな物をどうぞ。いただきまーす……ん? んんん?」
「わぁ、これ美味しいね! ヒメちゃん、今度レシピを教えて欲しいな。お父さんやたっくんに作ってあげたい」
「お義母様直伝かしら? 確かに、凄く美味しい思うけど」
「ん-……昨日の晩御飯に作った物よりも、風味が落ちてる気がするの」
「「「「……これで?」」」」
姫乃達のやり取りを見ていたクラスメイト達が、思わず「そんなに美味しいの……!?」と生唾を呑み込んでしまうのだが、姫乃達は全くそれに気付いていなかった。
「これはきっと、仁さんも大喜びしてそうね。そうだ、今度皆で合作お弁当を作らない? 皆でシェアしながら食べるのも、面白そうじゃないかな」
愛がそう言うと、他の四人も「それは面白そう」と笑みを浮かべる。
姫乃と恋は、星波家の母であり元・料理人である聖の指導を受けている。愛は亡き祖父の言い付けで家の事を手伝っていた為、料理も人並み以上に出来る。優は父子家庭である事もあり、父の為に家事全般が出来る様になっており料理も得意だ。
そして、千夜は……。
「お菓子作りはそれなりに出来るけど、料理かぁ。キムチ入れて良い?」
「「「「あー、辛いのはちょっと……」」」」
千夜は焼きそばや炒飯等の料理は得意だが、繊細さを求められる料理はそれ程得意では無いとの事。しかし分量などをしっかり確認する必要のある、お菓子作りは何故かちゃんと出来るらしい。そして辛党らしく、キムチが特に好きなのだとか。
「あ、そうそう……皆にちょっと、お願いがあるの」
恋が少し声を落として、四人に申し訳なさそうな表情でそう切り出す。その様子から、何か真剣な話だろうと姫乃達は話を聞く姿勢になる。
「三月三日に、うちで誕生日パーティーが開かれる予定なんだけど……良かったら、皆にも来て欲しいのよ」
「うん、勿論良いよ!」
「三日は……火曜日よね。平日だけど、何時くらいからになるの?」
「十九時からの予定ね。皆の送り迎えは、うちの車でするつもり」
親友である恋の誕生日パーティーとなれば、喜んで参加しよう。四人はそう考えて、肯定的な態度である。
しかしながら恋は、申し訳なさそうな表情のままだ。彼女がそんな顔をする理由……それは、ある要素が原因だった。
「ただ事前に言っておきたいんだけど……うちのパーティーだから、色々な人が来るのよ」
恋の言う、色々な人……それを聞いて、姫乃達はようやく理解した。
「恋ちゃん家みたいに、お金持ちの人とか……?」
「……もしかして、偉い人とか来るのかな」
「あー、ファースト・インテリジェンスの重役とかかな」
「政治家とかも、もしかして来たりする?」
「うーん……可能性は、否定できないわ。お父様やお爺様の人脈は、結構広いから」
それでも恋が、彼女達に来て欲しい理由。それは、英雄にある。
「確実に英雄さんは、私の婚約者として出席する事になるの。でも周りに仁さんや皆が居てくれるなら、英雄さんも安心すると思うのよ」
ちなみに仁には、英雄から話をする事になっているらしい。また四人に声を掛けているのならば仁だけでなく、隼や音也・拓真や数満達もパーティーにお呼ばれするだろう。
その理由を聞かされた四人は、両親に相談すると答えるのだった。ただ友人の家にお呼ばれするのではなく、盛大になるであろう初音家のパーティーに出席である。それを考えたら、無断で行くのはまずいと考えたのだ。
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そして、放課後。いつも通りに[初音女子大学付属中等部]に姫乃を迎えに来た仁は、お弁当に対する感謝の言葉を告げる。
「お弁当、御馳走様でした。本当に美味しかった、ありがとう姫」
お世辞抜きに美味しかったのは、その表情から察する事が出来た。
「喜んで貰えたなら良かったです♪」
仁の反応が嬉しいらしく、姫乃もふにゃりとした笑顔で感謝の言葉を受け止める。英雄と恋達は、そんな二人の様子を微笑ましそうな表情で見守っている。
ちなみに同じ学校の生徒達の間では、仁と英雄の事が噂になっている。仁が姫乃の、英雄が恋の恋人である事。そして毎日の様に送り迎えをしており、超ラブラブカップルである事などだ。
そして仁に関しては、それに加えて杖を使う必要がある……足に障害がある少年だという事も、広く知られている。
しかし今日は、仁は杖を使っていない。恋と鳴子から贈られた歩行補助サポーターのお陰なのだが、それは見た目で解らないのだ。
「あれ……? 星波さんの彼氏さんって、杖を使っていたよね?」
「だよね? もしかして、足の怪我が治ったのかしら?」
「でも、土曜日の帰りも杖を使っていたけど……歩くの大変そうに見えたけど、そんなすぐに治るのかしら?」
そんな困惑を払うのは、仁達でも女子生徒達でもなく……実に意外な人物だった。
「こんにちは。今日は杖を突いていないんだね、足は良くなったのかい?」
そう問い掛けたのは、守衛のおじさん。毎日送り迎えをする仁と英雄の事を、ある意味ずっと見守って来た名も無きおじさんである。
「こんにちは……足の方は、補助のサポーターでこうして歩けているだけなんです」
そう言って苦笑する仁に、おじさんは申し訳なさそうな表情を浮かべる。足が良くなったのかと喜びを覚えて声を掛けたのだが、そうではなかったのだから無理もないだろう。
「そうかい……済まないね、込み入った事を聞いてしまった」
「いえ、気にしないで下さい。こうして普通に歩ける様になったのは、実際に良い事ですしね」
申し訳なさそうなおじさんに、仁はそう言って笑みを向ける。おじさんの善意は伝わっているので、本当に気にしないで貰いたいところなのだ。
……
そうしていつも通りに挨拶を交わして、それぞれの帰路につく仁達。二月下旬の気温はまだ冷え込むが仁と姫乃、そして英雄と恋は手を繋いで寄り添いながら歩いている。そのお陰で、実感的にも心情的にも暖かい。
そんな二組のカップルが、道中で話題に出したのは恋の誕生日パーティーについてである。
「うん、英雄からも聞いているよ。一応親に相談はするけど、僕が参加して良いのなら是非」
最後に「多分オーケーだと思うけどね」と付け加える仁は、尻込みをした様子も無い。姫乃と恋は不思議そうな表情をするが、英雄はそんな二人に苦笑するだけだ。
「仁はまぁ、大きな大会とかにも出場していたもんな」
「流石に、大富豪や政財界の大物なんていなかったけどね」
実は、そういう事である。仁は陸上競技選手時代に注目を集め、大勢の人が集まるパーティーなどにも出席をした事がある。そういった経験もあり、出席しても「まぁ、大丈夫かな」という感覚なのだ。
「成程……仁さんは陸上に打ち込んでいたとの事でしたから、あまりそういう経験は無いのかと思っていました」
「あはは、正直言えば僕も走る方が重要だったけどね。進学や就職の事を考えると、人脈とかはあった方が良いって中学時代の顧問に言われてさ」
仁の活躍に期待し、長く走り続けられる様に。そう考えて、中学時代の顧問は仁にアドバイスをしたのだろう。
「ただ、制服で行くわけにもいかないよね?」
「安心して下さい。私の我侭で出席して貰うのですから、こちらで用意しておきますよ」
恋の言葉から解る通り、スーツやドレスは初音家持ちらしい。これは勿論、秀頼達も承知済みなのだそうだ。
「まぁ先の事は、一旦置いておこうか。今日を含めて、イベント期間は残り二日だし……まずは、目前の事からで」
「お兄ちゃん、今は考えないようにしたいんですね……」
姫乃の小さな呟きに、英雄はあからさまに視線を逸らした。どうやら、図星らしい。
努力して何とか出来る事ならば、英雄は臆せずに立ち向かうだろう。しかし考えても努力をしてもどうしようもない事柄は、出たところ勝負になるのが殆どだ。その時が来るまで、出来るだけ考えないようにしたい……英雄は割と、そういうタイプであった。
「恋の誕生日を祝いたいって気持ちは、勿論ちゃんとあるよ?」
「解っていますよ、英雄さん。不特定多数の、初対面の人に囲まれるのが不安なんですよね。大丈夫です、私はずっと英雄さんと一緒に居ますから」
そう言って恋は手を繋いでいない方の手で、英雄の腕を自分の方へ引き寄せる。英雄が珍しく弱みを見せているからか、恋は甘やかしモードに移行していた。どうやら、庇護欲が刺激されているらしい。
そんな二人の様子を見守る仁の視線に気付いて、英雄は「どうかした?」と問い掛けた。そんな英雄に、仁は笑みを深めて言う。
「いつも僕達が言われる側だけど、自分達もかなり甘い関係だと思わない?」
「……悔しいけど、今の状態で反論の余地は無いなぁ」
次回投稿予定日:2025/3/23(幕間)
仁への愛妻弁当のお話と、恋の誕生日のお話でした。
これは婚約披露発表までいくな……(満面の笑み)