杏(魔王)の涙
「姉ちゃん今日はどうしたの?」
大学から戻った私は自宅に居た姉さんに尋ねた。
姉さんは今日大学を休んだ。
いや今日だけじゃない、最近休む事が多い。
それに最近様子もおかしかった。
何か悩んでいる様で...
「有人は?」
「兄ちゃんなら愛花のマンションだよ」
「そう」
姉ちゃんはアッサリと頷く。
ひょっとしたら知っていたんじゃないか?
冷蔵庫から冷たいジュースを出しながら
姉ちゃんの言葉を待った。
「...杏」
「何?」
いつになく真剣だ、一体なんなんだ?
「有人...いえアルトの子どもを欲しくない?」
「ブァ?」
余りにも予想を越えた姉ちゃんの言葉に飲んでいたジュースが吹き出る。
なんて事言うんだ!
「急に何言うの!?冗談にも程があるよ!」
噎むせながら姉ちゃんを睨む。
そんな事聞いたらサキュバスの血が騒いでしまうじゃないか!
「ごめんなさい、でも本気なの」
「姉ちゃん?」
涙に潤む瞳で姉ちゃんは私を見る。
そんな目で見ないでよ...
「理由を聞いても?」
「うん、実はね...」
姉ちゃんは呟く様に語り始めた。
私のサキュバスとしての血が毎夜騒ぎ、強烈なフェロモンを撒き散らしている事。
その度に姉ちゃんは私を綺麗に洗い、眠らせている事。
そして私が苦しそうに呻いている事を...
「シルコゥには世話を掛けてしまったの」
「ううん」
言葉が魔王の時になる。
意識してる訳じゃない。
仕方ないのだ、これは本能による物なのだから。
「それでなぜ妾が有人...アルトの子を身籠るになるのかの?」
『身籠る』その言葉で顔に血が集まる。
何故じゃ?
サキュバスであった妾がそんなウブである筈が無いのだが。
「貴女が幸せになって欲しいからよ」
「幸せ?」
「ええ、愛する物を手にしたサキュバスは本能に支配されないの。
決して人を襲わない、フェロモンも自制出来る。
人から精を搾り尽くし、殺す事は無くなるの」
「そうなのか?」
シルコゥは頷くが、そんなサキュバスは見た事無い、
しかし妾より遥か長い時間を生きて来た女神じゃ、過去に居たのかもしれん。
「それが事実としても、そんな事したらアイカが辛く無いのか?
アイカだけでは無い、ミザリーやシルコゥ、お主もじゃ」
「そりゃ皆辛いわよ」
「ほれみい」
即答するって事はアイカやミザリーは知っておるのか。
今日も大学で一緒じゃったが、いつもと変わらんかったが。
「でも魔王としてじゃない。
鶴野杏、1人の女として幸せになって欲しいの」
「そんな事を」
努めて冷静を装うが頭の中はパニックじゃ。
『魔王である妾が母親に?』
考えるだけで心は満たされ、途轍もない多幸感が妾を包み込む。
想像だけでこれじゃ、実際にそうなったなら...
『いや待て、妾が?』
魔王として数多くの命を奪った妾が人並みの幸せだと?
「....それは出来ん」
「杏?」
「言ったであろう、妾は向こうで幾多の命を奪って来たのじゃ。
魔族だけでは無い、人間もじゃ。
幼い子供もおった。
赤子を庇う親も皆殺して来たんじゃぞ?
そんな妾が母親に?
その様な幸せを妾が得てはならんのじゃ」
やってしまった過ちは消せない。
そこにどんな理由が有ったとしてもだ。
「貴女が奪った魂の救済は済んでるよ」
「そんな事は結果論じゃ、幸せに暮らしていた者達の命を奪った事実は消せん!!」
「そうよね」
「すまん、やはり妾はこの世界に居てはならん存在じゃった...」
涙が頬を伝う。
鶴野杏でない、魔王ツゥ・ブアーンとしての涙。
悔恨と絶望の涙...
「みんな苦しんでるの」
「苦しんでる?」
どういう意味だろう?
口ごもるシルコゥは妾の目を見つめ頷く。
心を読めというのか?
『アイカは向こう異世界で婚約者がいたアルトを奪いたい程に愛してしまった。
ミザリーは自らの弱さからクズに操られ、身体を許し、アルトを殺してしまった。
そして私は勇者の選択を誤り、与えてはならないスキル傀儡を授けた事...女神でありながら有人を愛してしまった...』
「...成る程」
口に出来ない気持ちは分かる。
特に最後の事は女神であるのを考えると尚更だ。
ここまでいくとシルコゥの意図が読めた。
「妾の秘術か」
「ええ、サキュバスのね」
やはりか、サキュバスの技を用いれば精を出さすのは容易い。
それは性行為を用いずとも。
兄ちゃ...アルトを起こさず簡単に。
しかし問題は...
「どうやって受精させるのじゃ?」
「ちゃんと調べたわ」
シルコゥは鞄からタブレットを取り出す。
この世界は便利だ、知りたい事は直ぐに分かるのだ。
「人工受精?」
「そうよ」
画面に映っていた文字。
言葉の意味は分かったが、まさか?
「これをするつもりか?」
「ええ、4人分の手続きは私が上手くやるわ。
それくらいの魔法は使えるから」
「ふむ」
シルコゥは最近魔法を封印しておったが、この為か?
いやいや、これくらいの魔法なら容易い筈だ。
...ん?ちょっと待て。
「4人分じゃと?」
「そうよ」
ばつ悪そうにシルコゥは頷いた。
しかし、シルコゥが入ってるのが問題では無い!
「何故アイカまでしなくてはいかんのじゃ?」
「...それは」
「儂らに気を遣っての事か?」
シルコゥは何も言わぬ。
目を見るが、心を閉ざしたのか何も見えない。
「そんなのダメ!」
「杏...まさか?」
魔力が退き、思考が鶴野杏に戻って行く。
「私達が兄ちゃんと結ばれないのは構わない。
でも愛し合う兄ちゃんと愛花が...そんなのおかしいよ!」
「そうよね、私も言ったんだけど」
姉ちゃんは悲しそうに呟く。
説得したんだな、でも愛花は頑固って事か。
「愛花に伝えて、
気持ちは嬉しい。
けど愛花はちゃんと兄ちゃんと愛し合って子供を作って欲しいと。
そうでなきゃ私が全力で兄ちゃんを...
兄ちゃんを...」
言葉が続かないよ。
「...兄ちゃん」
「杏...」
姉ちゃんが優しく寄り添う。
私は涙が止まらない。
愛花への感謝と申し訳なさ、そして兄ちゃんへの気持ちで泣きじゃくるしか無かった。




