杏は悩む。
「最近は収まっておったのに...」
深夜、突然沸き上がって来た魔力。
これはサキュバスの物、忌まわしき感覚だ。
「困ったのう」
ベッドから身体を起こし、深く溜め息。
こうなると寝るどころでは無い、おそらく妾の身体から淫靡な臭いが出ているだろう。
自分で分かる位の猛烈な臭い、これを嗅いだ雄は理性を失って発情してしまうのだ。
「杏、大丈夫?」
扉の向こうから小さな声、起こしてしもうたの。
「シルコゥか?」
「開けるわよ」
「うむ」
いつもの様にシルコゥの事を姉ちゃんと呼べぬ。
呼び覚まされた魔力は思考まで支配しようとしていた。
「...浄化」
部屋に入って来たシルコゥは籠った臭いに一瞬顔をしかめた。
素早く部屋の空気を浄化させる、霧が晴れる様に空気が清んで行くのが分かった。
「すまぬ」
「いいのよ、もう一度シャワーを浴びてきなさい」
「分かった」
着替えを出して浴室に、パジャマから下着まで臭いが染み付いているだろうから当然じゃな。
「ふう」
髪も綺麗に洗い部屋に戻ろうとするとリビングから明かりが漏れていた。
「姉ちゃん」
「大変ね、有人は起きて来ないから安心して」
「ごめんなさい」
良かった、兄ちゃんに発情して欲しくない。
きっと寝てる兄ちゃんに催眠を重ねて掛けてくれたんだろう。
魔力が引っ込み思考が戻った様だ、抵抗無く言葉が鶴野杏になっていた。
「発散させる?」
「大丈夫」
姉ちゃんの提案を断る。
発散とは溜まった魔力を放出させる、つまり雄の性を絞り出させる事を意味していた。
外に出て女性に悪さを企む男を捕まえ無理矢理絞り尽くす。
もちろん性行為はしない、使うのは魔力のみ。
「そう?無理しないでね」
「ありがとう、でも嫌なんだ」
「嫌?」
「うん、兄ちゃん以外の男に触るのが」
「...杏」
意外な言葉なんだろう、サキュバスが雄を嫌う事なんて。
しかし本音なのだ、異世界に居た時から自分がサキュバスである事が嫌で仕方無かった。
周りのサキュバスは抵抗無く雄を誘い性を絞る事に抵抗は無かったが私はそれが嫌だった。
それが逆に雄の被虐心を煽る結果となってしまった。
魔族達は泣き叫ぶ私をなぶり、愉しんだ。
人間の中に放り込まれた時も同じ、雄になぶられる絶望から魔王になった様な物だ。
しかし今は違う。
初めて過ごす平穏な日々、もちろんこの世界にも発情する奴は居る、だが絶望はしなかった。
愛花が、霞が、雫が...何より兄ちゃんが居たからだ。
「姉ちゃん」
「なに?」
「私が死んだら暗黒世界に戻る話だけど」
暗黒世界、その言葉に姉ちゃんの目が鋭く光る。
私の心を読むのだろう、抵抗する事無く心を開いた。
「...本気?」
「うん」
姉ちゃんが絶句している。
そりゃ驚くだろうな、私だけ暗黒世界に戻して欲しいなんて願ったら。
「私は沢山の人を殺した、その報いは受けないと」
「でもそれは...」
その先の言葉を姉ちゃんは言いかけて止めた。
例え魔王の破壊衝動だとしても、それを肯定しては世界の秩序が乱れてしまう。
なにしろ姉ちゃんは異世界の女神シルコゥなんだから。
兄ちゃ...アルトは悪い事を何一つしていない。
私を倒し世界を救ったアルトが転生出来ずに永遠に暗黒世界を彷徨うのは駄目だ、そんな事あってはならない。
「杏の気持ちは分かった」
「それじゃ」
「今はまだよ」
「姉ちゃん...」
「以前言ったわよね、『死んだらそれっきりかもしれない』って」
確かに、でも暗黒世界に送る事は多分出来るとも言ったよね?
「ええ、でも杏は言ったよ、『このまま鶴野杏として一生を過ごしたい』と」
姉ちゃんは私の心を読みながら続ける。
「女神は約束を違えない、今の願いはこの世界で一生を終える事。
その先はその時にね」
「...分かった」
真剣な姉ちゃんに頷くしかない、だって涙を溜めて言うんだもん。
「さあ寝なさい、今日は有人と一緒に寝て良いから」
「本当?」
まさかの許可、だって兄ちゃんのベッドに潜り込む時は姉ちゃんと一緒がきまりだったのに。
「特別よ」
「ありがとう」
姉ちゃんの気が変わらない内に急いで兄ちゃんの部屋に。
ベッドで眠る兄ちゃんの隣に身体を丸め潜り込んだ。
「兄ちゃん...」
気持ちが安らぐ、暗黒世界に居た時の様に。
『愛花ごめんね』
心で愛花に謝る。
『大丈夫、これ以上しないから』
兄ちゃんのほっぺにキスをした。




