七話
「――――――」
兄弟の背中が完全に視界から消えると、レアは、一息ついて髪をかきあげた。これで、精霊エピの結界が、兄弟を再び濃紺の迷宮へといざなうだろう。そうなれば、高等な大地の精霊と交流をもたない限り、この草原に辿り着くことは出来ない筈なのだ。先刻、彼らの足元に突然出来た落とし穴同様の作用でもって。だが、気をゆるめている場合ではない。レアの背後には、あの兄弟などと比べるまでもなく厄介な人物がまだいるのだ。レアは、警戒心を強めながら、三人の話し声に耳を傾けてみる。
「…物の正体が、毛皮をかぶったリスだったとはな。」
…これはイーストだな。
「う、…ん…、」
イザヤ、答え方がぎこちないって。
「いや、これは術の一種だよ。」
アルフォードか。
「まやかしの術を使って、違うものに見せてるんだ。」
―――、…はいはい、当たりだよ。
「えっ、ちょっと待てよ。…じゃあ、こいつほんとはリスじゃないのか?」
イーストが焦ってる。術の心得のない人間には、どうしたってリスに見えるからな。
「――そうだよね?」
「……、…。」
アルフォードがイザヤに確認したみたいだが、答えなかったようだ。絶対誰にも秘密だって言っといたからな。けどあいつ…、……嘘、つけねーからな……。
――かくしてレアの懸念は実際のものとなった。
「ああそうか、内緒なんだね。わかったから息は止めないで。」
アルフォードは、どうやら、無意識のうちに命がけで黙秘に徹しているイザヤの赤く染まった頬を、両手でいたわるように包みこむ。
「? …!―――っ。」
かけられた言葉の意味が解らずに、目を見開いてアルフォードを見ていたイザヤだったが、やがて、自分が呼吸を止めていることに気がつき、あわてて息を吸い込んだ。何度か深呼吸を繰り返してイザヤが落ち着いたところで、アルフォードは、安心して手を離す。
そんなやりとりを見ていたイーストが咳払いする時のように口に手をあて、笑いながらイザヤに尋ねた。
「おおかた、話したらしばらく口きかねえとか言われたんだろ?」
イザヤはふるると首を振る。
「違うよ、」
そして、
「もう見世物市に連れてかないぞって言われたんだ。」
少しもよどみのない声で答えた。
「だとさ、レア。」
イーストが、してやったりとレアの背中に投げかける。
「―――。」
レアは、イーストの声を呆れてものも言えない背中で受け止めると、晴天の空を一度仰いで振り返った。そこへアルフォードが声をかける。
「レア。頼みがあるんだけど、いいかな。」
「……、…何だ。」
レアがそっけなく返すと、アルフォードはイザヤの腕の中にいるリスを指して言った。
「この子にかけてある術を解いてもらえないか?」
それは、あらかじめ予測していた要求だった。レアはあっさりうなずく。
「いいぜ。あんたにはさっきの借りがあるしな。」
答えながらイザヤの傍へ歩み寄った。こげ茶色のリスは、すっかり安堵した様子でイザヤの胸に収まっている。レアは、人差し指と中指を伸ばし残りの三本の指は折りたたむと、リスの額に伸ばした指の腹を当てた。そして精霊文字を音にする。
〝―――――――――――〟
すると、レアの伸ばした指から、青みを帯びたまばゆい光が発し、リスの全身をつつみこむ。それがおさまった時、先刻の、白銀の毛を持つ珍獣が姿を現した。
「へえ…。」
一部始終を見守っていたイーストは、感心しながらイザヤの胸元をのぞき込んだ。
「かわいいね。」
アルフォードは、獣の毛にそっと触れてみる。珍獣は、瑠璃色の大きな瞳をしばたかせながらキイキイと鳴いた。
「喜んでるんだよ。あっ、角は触っちゃダメ。名前ね、プレムって言 うんだ。」
イザヤは、うれしそうに言った。
「プレム? お前がつけたのか?」
「うんっ」
「だと思った。」
「いい名前でしょ?」
イザヤは、イーストの苦笑いにも気づかずにはしゃいでいる。そんな情景を大雑把に見守っていたレアに、アルフォードが話しかけた。
「さっき熊を威嚇した時に小さな玉を投げたよね。あれはもしかして封珠じゃないかい?」
「―――。」
レアは答えず、アルフォードを正視した。
「封珠? 封珠だって?!」
二人の会話を聞きつけたイーストが驚きの声をあげる。
「あれってかなり高価な代物だろ? 確か、何百年か前まではここいらでも作ってたけど、その技術が失われちまって、今では闇の市でも入手するのは難しいって言われてる…、」
アルフォードはうなずいた。
「そうだよ。実は僕も、現物を見たのは初めてなんだ。でも間違いないと思う。」
「そうなのか? レア。」
「―――。」
二人の青年の視線が、レアに向けられる。レアはそれを真っ向から受け止めて言った。
「だとしたら?」
アルフォードがゆっくり口を開いた。
「どうやって手に入れたのか教えて欲しいんだ。それと、まだ持っているのならひとつ譲ってくれないかい?」
「……」
レアは、少しうつむいて考えた。
「――頼みは二つか。なら、」
思い立った風に顔を上げると、感情を消した目で青年達を見据える。
「こっちからも二つ条件を出すってのはどうだ?」
「条件?」
「ああ。」
レアは、両眼を細めると、微妙な雰囲気に不安を感じている様子のイザヤの傍に移動する。そして、イザヤに抱かれてくつろいでいる銀の獣をつまみあげ、特徴のない口調で言った。
「――こいつと、この森での事は他言無用に願いたい。」
「―――。」
「……。」
アルフォードとイーストは、無言のまま顔を見合わせた。目線で互いの意見を確認すると、双方がほぼ同時に口を開く。 気づいたイーストが、アルフォードを軽く制した。アルフォードがうなずいて譲ると、イーストが潔く答える。
「それは無理だ。」
「―――。」
「ただ、これだけは言える。」
義務的だったイーストの声が、いつもの響きに変わった。
「このことを報告したところで、例えばこの珍獣が森から消えるだの、森が立ち入り禁止区域になるだのということは一切ないぜ。」
言い切ると、イーストは口の端をあげて笑う。それは、レアが一番気に入っているイーストの表情だった。
「本当?!」
とたんにイザヤの顔色がぱっと明るくなる。
「ああ。お前らの悪いようにはしないさ。まかせとけって。」
「わあっ、ありがとうイーストっ。」
イザヤは飛び上がってイーストに抱きついた。イーストは軽々とそれを受け止め、あっという間にイザヤを肩車してしまう。するとイザヤの喜びがさらにふくれあがったようだ。
「うわーっ、すごーいっ、高いよレアっ。」
イザヤは頬を真っ赤にしてはしゃいでいる。
「よかったな。」
レアはそう答えると、珍獣プレムを草原に下ろし、右の腰に手を当てた。そして、いくつかの小さな丸い玉を取り出し、アルフォードに差し出す。
「今、持ってるのはこれで全部だ。」
「あ、ああ。」
ぎこちなく開かれたアルフォードの手の平に、レアは封珠を置いた。その数と大きさでは片手だけで足りず、結局両手で包み込む形になる。
「えっ、いいよひとつで。」
アルフォードが焦って言うと、レアは首を横に振る。
「どうせ貰いもんだ。」
「誰から貰ったんだい?」
わずかに手を動かすたびにかちりかちりと玉が擦れ合う音色を心地よく耳にしながら、アルフォードが尋ねた。レアは手短に答える。
「知り合い。」
「知り合いって、」
「そこまで答える必要はないな。」
レアは、続けざまに質問をするアルフォードを一瞥して、背を向けた。
「―――そうだね、ごめん。」
アルフォードは、はっと息を飲むと軽くうなずいた。尋ねたのはどうやって手に入れたのか。本来なら「貰いもの」でことは済んでいた筈なのだ。
「話は終わったな。」
レアはそっけなく言うと、少し歩いて、枝にかけてあった銀色の布を取る。 そして籠の傍まで行って小さくたたむと、散乱していた荷物を片付けはじめた。
「帰るの?」
イザヤが慌てて尋ねる。イーストは気を回してイザヤを地面に下ろした。
「レアっ。」
イザヤは、わき目もふらずレアの元へ駆け寄り、片付けを手伝う。持ち物を詰め終えた籠をレアが持つ。そうしてこの森で一番の樹齢を誇る大樹の枝が多い部分を南の方角とすると、西へと歩いて行った。
「イザヤ、」
レアが小さく耳打ちすると、イザヤはこくりとうなずき、二人の青年に届くように声を張り上げる。
「イーストっ、あのね、こっちから帰ると一番早いよっ。」
言ってイザヤは、今自分達が進もうとしている方向を示した。
「また来るからね、プレムっ。イースト、また肩車してねっ。あと、えっと、…アルフォードさん、今日はどうもありがとうっ。」
そういえば穏和そうな彼とはあいさつも交わしていないことにいまさら気がつき、うろたえたイザヤだったが、今のレアの雰囲気からして、そんな理由では決して引き返さないだろうと察する。しかたがないので、レアに名前を聞き、とりあえずお礼だけでも言っておくことにした。笑顔で手を振ってくるイザヤに、イーストとアルフォードも笑顔で答える。プレムは、ぴょんぴょん飛び跳ねながらどこへともなく去って行った。
レアとイザヤも、森の中へと姿を消す。レアは結局一度も振り返らず、イザヤは、レアと青年達の両方を気にしつつ帰路についた。
「――――――。」
アルフォードは、みるみる遠ざかってゆく二人の背中をじっと見送っていた。
「………。」
イーストは、複雑な表情で佇むアルフォードをしばらく見ていたが、やがて、
「さあて、俺達も任務を続けよう。このままじゃ、明日になっても帰れないぜ。」
森の奥深くに親指を向けて笑った。
「そうだね。」
アルフォードは気を取り直すようにうなずくと、ゆっくりと周囲を見回す。
「こっちに進もう。」
先刻と同じ要領で道を決め、イーストを促した。
「――ああ。」
イーストは屈託のない笑みを浮べると、アルフォードの先に立って歩き出す。アルフォードは、一度だけレア達の去って行った方を顧みたがすぐに向き直り、シトレの森のさらなる奥地に向かって足を進めて行った。
円形の草原を出てから一刻も経たないうちに、レアとイザヤはすでに森の入口へ辿り着いていた。イザヤとしてはいろいろあったなりに楽しい一日だったのだが、どうもレアにとってはそうでもなかったらしい。その証拠に、家までの道のりを馬で駆っている間も、終始無言だった。試しに、
「ねえ、アルフォードさんってすごい人だよね。あの熊をおとなしくさせちゃうんだもん。」
などと話しかけてみても、
「―――――――、舌、噛むぞ。」
と返ってくるのみな始末。
……レア、アルフォードさんがきらいなのかな?
イザヤは首をかしげる。
たずなをしっかりと握り、主導権を失わないように気をつけながら、イザヤは、時折り、横を走っているレアを垣間見る。互いに馬上で揺られているため、細かいところまでは解らないのだが、もしかしたら、レアはどこか痛くしているのかもしれない。今日はレアの屋敷に泊まる日だ。帰ってひと息ついたら聞いてみよう。
いつもより若干早い速度で馬を走らせるレアに必死でついていきながら、イザヤはそんなことを考えていた。
いつのまにか太陽が西に傾き、今日一日を締めくくろうとしている。雲ひとつない空の一面を、橙色の夕焼けが鮮やかに染め上げて、明日もまた好天であることは、誰の目からみても明らかだった。
*こちらの作品は、長編小説の冒頭ですが、プロット練り直し中のため、続きは存在しません。