二話
「ごちそうさまでした。」
最後のひとかけらを食べ終えると、イザヤは、膝に広げていた格子柄の布をたたんだ。しかし、その手がどうもぎこちない。レアはイザヤの様子を横目で追う。イザヤの視線は、手元ではなく森の方にあった。上半身も同じ方を向いていて、まったく落ち着きがない。
「プレム、起きて来ねーな。」
レアは、独り言のようにつぶやいた。イザヤは、はっとしてレアを見る。それからうなずいた。
「うん、今日は遅いよね。」
いつもお昼前には起きてくるのに。と一言付け足す。
「…まあ、俺達がここにいることは、においで解る筈だしな。起きてるとすれば、どっかで寄り道でもしてんじゃないのか。」
レアは、上半身を起こすと、脇に寝かせておいた長剣を手に取った。
「どこ行くの?」
イザヤも慌てて自分の剣を掴む。
「ここ。」
レアは、柄頭でイザヤの頭を小突いた。
「一人稽古するんだよ。」
「オレもやるっ。」
「お前は駄目だ。」
言いながら、イザヤの頭を再度小突く。
「なんで、」
「食ったばかりだろ、少し休め。」
一方的に言い放つと、レアは立ち上がった。
「……。」
イザヤはいったん浮かせた腰を、素直に下ろす。
「――ったく、あいつ、今日になっていきなり稽古中止にしといて、とんでもない課題置いていきやがって…」
突然、思い出したように不機嫌になったレアに、イザヤは素朴な口調 で尋ねた。
「課題って、どんなの?」
「………言わせるな。」
レアは、目元を引きつらせながらやっと答えた。しかし、イザヤの無邪気な追求はそこに留まらない。
「そういえば、どうして稽古中止になっちゃったの?」
「――さあ。いつものふざけた言い訳はしてたけどな。」
「てことは、王宮機密だね。」
「…本気にしてんのか、お前。」
目を輝かせるイザヤに、レアは冷ややかな視線を送った。
「いいか、あいつの言う王宮機密ってのは、水の精霊王フェリアスを祀る王宮聖殿に関わることだ。お前、あそこに入ったことあるか?」
「ううん、ないよ。」
イザヤはふるふると首を振る。
「だって、王宮聖殿に入れるのは、王族と、王族の分家だけでしょ? …あ。」
「――そういうことだ。俺達平民には縁のない世界なんだよ。」
「レアは平民じゃないでしょ。」
「一応な。けど、ヤツらからすれば、王族出身者以外は、みんな同じ扱いだよ。」
レアは、乱雑にほおり投げるように言うと、その場から十歩ほど移動した。そして、右手で剣を握ると、上下左右、あらゆる角度の空を切る。本来ならば、この時間は講師の指導の下で剣の稽古が行われる筈だった。しかし、今日の朝になって、二人に稽古中止の旨が知らされたのだ。講師の使いと名のる男性が届けてくれた手紙の内容は、
本日、予定していた稽古は中止させていただくことになった。なお、理由の追求については「王宮機密」に関わるためご遠慮願いたい。お二方とも、下記の内容にて個別に稽古を行われたし。
レア殿 計一千八方を裂かれたし。 イザヤ殿 計ニ百八方を裂かれたし
―――だった。手紙は、その役割を全うした瞬間に元の形を失っていた。握りつぶした音が、レアの耳を虚しくかすめる。いっそのこと、この無茶な課題を放棄してやろうと考えなくもなかったが、出来なかったと思われるのはしゃくに触る。しかも、これまでに何十人と入れ替わった様々な分野も含む講師の中で、彼とは、比較的気が合う方だった。たまに「王宮機密」と銘打って稽古を取り止め、その度にとんでもない内容の手紙を置いて行くなど、多少の不満はあるものの、結局、課題を終わらせようという気になるのも、まあ、彼の人徳なのかもしれない。
剣を振るたびに起こる体への振動は、嫌いではなかった。それは時に、熱く火照った心を醒ます氷塊の役割をすることもあるからだ。事実、回を重ねるごとに、荒削りだった感覚が、まるで曇りのない剣の切っ先のように、次第に鋭敏になっていくのが解る。
「―――」
そうして研ぎ澄まされたレアの聴覚が、この場にそぐわない複数の足音を捕らえた。それは、他の、戸惑いながら彷徨うものとは違って、確実に道を選び進んで来る様子が窺える。
「?……レア…?」
不意に動きを止め、広葉樹の森に向かって冷然とたたずむレアの様子に、イザヤは不安を覚えずにはいられない。
「――一、ニ、…四人か。イザヤ、」
レアは、一方を凝視したまま、南東を差した。
「お前、プレムを捜しに行け。すぐそこまで来てる。見つけたら、その辺に隠れてろ。いいって言うまで出て来るなよ。」
「えっ、でも、レアは?」
「訪問客を迎える。」
「ウソっ、だれか来るの?」
イザヤは、レアの許に駆け寄った。
「ああ。」
「どうやって?だってこの森には、オレたちの他は入れないはずなんでしょ?」
うなずくレアの腕に、イザヤは、まるい頬を赤くしてしがみついた。心の中の動揺を包み隠さずぶつけてくるイザヤに、レアは、事もなく答える。
「空を飛んでるわけじゃなさそうだから、歩いてじゃねえか。」
「?…、…?」
イザヤはきょとんとして首をかしげた。それからはっと顔を上げる。
「も――っ、そんなのわかってるよっ。」
ようやくからかわれたことに気づいたイザヤは、頬をぷっくりとふくらませて、レアの腕を、体に引き寄せ、肩にかける。そのまま投げ飛ばそうとしたが、レアの体は少しも動かず、逆に、背後から羽交い絞めにされてしまった。互いの身長に二寸強の開きがある上に、レアは、同年代の少年と比べても細作りの割には筋力の強い方だが、イザヤは、痩せっぽちな見かけより少しましな程度だ。かなう筈がない。
「もぉ―っ!はなしてよっ、レアのバカ――っ!」
…いじわる、いじめっこ、等。動く部分をばたつかせながら、数々の悪口らしきものを並べてみたものの、まったく効き目はないようだ。その間レアは、揺れ動くイザヤの髪の毛を見ていた。金のくせ毛がふわふわ揺れる、ぴょこぴょこ跳ねる、まるで、…そう、どこまでも母親の後ろについていくひよこのようだ。
「―――――――」
レアがささやかな笑みを浮かべると、イザヤの動きがぴたりと止まった。
「…どうした、」
首を回して大きな瞳を向けてきたイザヤに、レアは戸惑いを覚えた。それに気づいているのかいないのか、イザヤは、満面の笑みをうかべている。
「あったかいね。」
「……、まあ、天気いいしな。」
レアは、イザヤの体を開放すると、ドアをこつりとたたくように、イザヤの額に軽く触れ、同じ手で、再度、南東を示した。
「早く行け。」
言われてイザヤは、うん、とうなずく。
「わかった、行ってくるね。」
イザヤは、風に乗るように身をひるがえすと、指定された方向に走り出した。
それを見送ってから、レアは、長剣を鞘に収め、先刻寝転んでいた場所に戻った。吹きゆく風の向きが、いつの間にか変わっている。レアは、大きく息を吸い込んだ。無造作に下ろしていた両腕に少しだけ力を入れ、脇を締めたまま、指先が肘より心なしか上になるように持ち上げる。それから、軽く握っていた掌をゆっくり広げ、そこに意識を集中した。両掌の間の空気が、水のような透明さをたたえながら、次第に青みがかった緑色に変化していく。レアは、手の中の気が鮮やかな青緑に変わる瞬間を狙いすまして口を開き、古代より伝わるとされる精霊文字を音にした。
〝―――――――――――――――――――――――〟
森の木々が妖しく揺らぐ。互いの体を縫い合って伸びた枝は大きくざわめき、生い茂った木の葉が、かすれた音色を奏でる。レアは、双眸を薄く開いた状態で、掌を下に向けた。すると、青緑の空気が、掌を起点に円柱体の形を取り、そのまままっすぐ下に伸びていく。そして周囲に生える草をあっさり通り抜けると、地面に達した。
〝―――――――――――――――――――――――――――――――――――〟
精霊文字――それは、人の住むこの世界とは別次元にあるという精霊界より、精霊を呼び出す際に使われる。大地の属性を持つ精霊エピ、それが今、レアの求めている相手だ。 レアは、再び精霊文字を音にし終えると瞼を閉じる。すると、柱の形をしていた青緑の気が地面を這うように揺らめき、斜面を流れる水よりもすんなりと森の土に浸透していった。やがてそれが全域に達すると、レアは、森の脈打つ鼓動ひとつひとつに意識を集中する。
森は、思いのほか平穏な時を過ぎていた。 小さな洞窟を宿としている鹿は子育てに余念がないし、巨木の根の隙間に住まう狸の親子は、昼寝の真っ最中だ。森に生きる動物の主たる赤毛の熊は、森の間を抜ける川に入って魚を捕っている。雄しべは、その身にまとう小さな粉を心おきなく託せる風か虫の訪れを待ちわび、場所を選ばずに生息できる雑草の類いは、今日もたくましく根を殖やしている。木々達は、太陽の恩恵を惜しみなく受けて、しなやかな肢体を風に遊ばせていた。弱肉強食という、自然の理はあるにしても、少なくとも噂の魔物を捕らえて賞金を手にしようなどという、不粋な輩の姿は見られなかった。
ということは、ニヶ月前、レアが、精霊エピに力を借りて森に張った結界が壊れたという訳ではなさそうだ。だとすれば、訪問者の中に、恐らくレアより実力のある精霊術の使い手がいるのだろう。――正確には、エピよりも高い位にいる大地の精霊と交流のある術士が訪れたということだが。
〝――――――――――――――――――――〟
三度目の音によって、有色の気はかりそめの装いを脱ぎ去り、宙に溶け込んでいった。
「―――――。」
面倒なことになったというのが本音だった。レアは、両腕を脇におろすと顔を上げる。
この地、ファルデリック王国において、精霊術を使える者は、ある時期を境に減少していった。しかも、建国当時に比べて、術士の水準がかなり落ちてきているらしい。にも関わらず、大地の精霊の中でも決して低い位置にいないエピを、ひざまずかせる精霊と共にあることのできる者…。
「――こうなりゃ、出たとこ勝負しかねえか…。」
まるで自分に言い聞かせるようにつぶやくと、髪をかきあげた。長い指の間をさらさらとこぼれおちていくそれは、金色をした細い絹糸を思わせる。レアは、若草の海原にもう一度全身を預けると、ゆっくり瞼を下ろした。