晴天の約束
1*
火曜日が月曜によりも憂鬱なのはサークルとバイトが有るということで、サークルもバイトもそろそろ同回生は重役に就き出すのに僕は何もなくただただその日その日を消化するだけの味気ない日だからである。それ故に今季の火曜日の授業には一週目以来行った覚えがない。いつもこの場所で酒をのんでいた。
そんな火曜の昼だった。
「すみませんその帽子取ってもらえませんか」
小さな川を帽子が流れてきた。見覚えのある緑色のリボンが付いた麦わら帽子だ。それを僕は拾い上げてこちらに向かってくる声の主にわたす。
「ありがとうございます」
「あ、あの何処かで会いませんでしたか…」
「…いえ」
「すみません人違いでした…似た帽子を見たことがあるもんだから」
「いえ…変わった人ですね」ふっと鼻で笑う彼女、それもそうだ、女性に何処かで会いませんでしたなんてナンパ師くらいしか言わないだろう。
「こんな昼間からこんなところでお酒なんて、よっぽど暇なんですね」皮肉そうに微笑んで来る
「ま、まあ暇っちゃ暇ですよ」
「でも、平日の午前中ですよ、そんな時にお酒なんて、職場で嫌なことでもあったんですか」
「し、失礼な、僕はまだ、大学生ですよ、そちらこそ平日の朝からこんなところで何してんですか」
「そんなこと、いいじゃないですか」笑いながら僕の質問はいなされた。まるで彼女は秘密そのもののようだった。
2*
その日は僕がここに来る理由みたいなのを彼女に話した。正直こんな馬鹿げてて、身勝手な屁理屈だけれども彼女は笑顔で「じゃあ、また逢うかもしれませんね…」といいその場を去った。よくわからないけど僕も、また彼女と逢える気がしていた。
そして、また火曜日は晴れていて、いつもの場所へ向かっていた。ここは平日だろうが休日だろうが、時間がゆっくり流れていて、本当に落ち着く場所である。川は小さいながらにせせらぎながら流れていく。その流れに反するように泳ぐ鴨を見つめ、また僕は酒を片手に川に足をつけているとまた声がした。
「こんにちは、また会えましたね」
「そうですね、あなたもすこぶる暇なんですね」
「皮肉のつもりですか?そんなこと言っても、その手に持ってる物のせいで意味もないですよ」と、笑われながら皮肉で返される。
「先週も会いましたし、そろそろ何してるか教えてくれませんか?」
「暇つぶしって訳ではないですけど、まあ私もここに魅力を感じていると言うか、ここが落ち着くんですよね。それにこのあたりって美術館とかいろいろあって楽しいじゃないですか」
「確かにここのすぐ近くにある美術館はガラス張りでユニークな形してますもんね」
「案外気が合いますね…自己紹介しましょうか」と、彼女はニコっと微笑んだ
「大学生のタイシです」
「それだけ?」と、不服そうに頬を膨らす彼女
「それだけ。とは?」
「もっとこう、趣味とか好きなものとかないんですか?」
少し考えてみたが特にそんなものない。けどま、適当に答えておくか…
「音楽は好き…かな」音楽と聞いた瞬間に彼女の目が眩しいくらいに輝いた。
「へ〜音楽好きなんですね!」
「ま、まあそれなりには、楽器も持ってますし…」全くの嘘だ、家にギターはあるけれどそれもホコリを被って弦も錆びて弾くこともままならない。
「楽器やってたんですね〜。私も一応はやってたんですけどね…」何か言いたげな感じもしたが、僕にはそれを聞ける自身もなかったし聞き出すことも出来ない。晴れていた天気はいつの間にか雲がかかりかけていた。
「何をされてたんですか?」
「内緒です」と、また微笑んだ、この時僕は安心した。雲行が怪しくなっていたのが嘘のようにまた晴れていた。
「内緒が多いんですね」
「女の子はそれくらいがちょうどいいんです」悪戯な笑顔で話す彼女は続けて、
「あ、そうだ、今度烏丸の方のライブハウスで私の好きなバンドのライブがあってちょうどチケットが余っていたんですけど、どうですか?」
「別段することもないし、いいですよ」
「やった。じゃあ約束ですからね」と、あざとく約束を彼女は僕に押し付けた。
「分かりました」と僕は返し
「ではまた」と彼女は告げこの場を去った。
いつも思う、彼女の名前を僕はまだ知らない…
更に思うのは『約束』と言う言葉の重さである。僕はこの言葉を使われるのが非常に嫌いである。否応なく責任が勝手に押し付けられて約束の束の字の通り縛られてがんじがらめになる。
そんなことを思いながら今日も酒を飲み干し帰路についた…
3*
ゴールデンウィークを迎えた。僕はいつもこの連休集中体が憎い。特にすることもなく何もないままに一週間が終わりまた通常運転に戻る、これが五月病の全てだと思う。インスタントラーメンでさえ食べれるようになるまで時間が掛かるのだ。そんなことを思いながらいつものようにあの場所に来た。
「珍しいですね。あなたが先にいるなんて」僕だけの特等席に彼女がいる。
「そんな時だってありますよ。それより、なんでここにいるんだって思ったでしょ」
「え、いいやあ」
「ほら図星。そんな顔されてるから見え見えですよ」
「そんな顔ってどんな顔ですか」
「だからそんな顔だって」と笑いながら指をさす
「これ、真顔なんで、あしからず」
「そうなの!ごめんなさいね、あまりにも人相が悪かったから」
「あのね、冗談でも僕傷つきますよ」といい僕は彼女の隣に座った。
「ごめんなさい。でもそんなずっとそんな仏頂面してたら損しますよ」
「まあ、それもそうですね」無理に口角を上げニっとした
「なんですかそれ。笑顔のつもりですか」また彼女は僕を笑った。
「じゃあどうすればいいんすか」
「毎朝鏡を見るじゃないですか。その時に思っきり笑うんですそれでもうオールオッケーです」ウインクしながらこっちを見てくる。本当に彼女はいろんな顔を僕に見せてくれる。鮮やかな混じりっ気のない絵の具が散りばめられたパレットのように思えた。
「思うんですけど俺、毎朝そんなじっくり鏡なんて見ないですけどね」
「それは、そこに時間をかければ…」目を見開き言葉を止める彼女に肩透かし感を感じた。
「時間を掛ければ…何なんですか」
「いえ、そんな自然な笑顔もできるんだなと思いまして…」
「バカにしてるんですか?僕だって人間です。感情くらい表しますよ」意識せずに、自然に会話の中で笑えたのはいつぶりだろうか…ただ、モノクロのように見えていた世界がすこしずつ色づき始めたようなきがした。
4*
ゴールデンウィークが明ける前の最後の休みの日つまり日曜日なのだが、やはりいつもの日曜日の過ごし方をしては日常に戻れる気がしないのであの場所へ向かう。
日曜日のここはまるでいつもとは違う。会社が休みの親と子供が川に涼みに来るのだ。僕の知らないこんな風景もあったのか…と気付かされる。
僕もいつかは結婚とかして子供を持つのだろうか…そんなことを考えているけれど
「そんな相手なんていない…よな」
ふとあの自分の名前も教えないのに、人のことばかり聞いてくる彼女のことを思い返してみる。
「やっぱないな」と、口に出してみるけれど、どこか引っかかるものがあった。
思い返せば僕がいつもここにいる時は彼女がいた。他愛もない話を十分程度して別れるそんなやり取りが当たり前になっていたのだ。
今、何してるのかな…
5*
ゴールデンウィークが明けた火曜日も僕にある焦燥感や、サボりグセは治るわけもなくこの場所にいる。
平日のここは日曜日から平穏を取り戻したように静かで過ごしやすい。
「よいしょっと」聞き慣れた声にふと安心してしまっていた。名前も知らない君の声に。
「なんですか、また来はったんですか」
「なんで関西弁なんですか?歪すぎて笑えないっすよ」冷静なツッコミありがとう。
「別になんでもないですよ。ただあれだな、ゴールデンウィークって存在は憎くても憎めないよな」
「いや、ゴールデンウィークなんてありがたい連休じゃないですか」
「そう思いますよね。一般人は」
「一般人って」
「僕くらいになると分かってくるんですよ。ゴールデンウィークなんてものがあるから五月病になるんですよ。」
「そ、そうですかね…」
「そうですよ変拍子みたいに、これまで続いていた生活が変わったと思えばもとに戻っているんですから」
「やっぱり、あなた変わってますね」ケラケラと笑われた。
「何がですか?」
「ふいに訪れる連休にありがたみも感じない人にはわからないと思いまーす」
「また。バカにして…本当に、ゴールデンウィークがなくなれば、例えば、業務に新人が慣れるのも早くなりますし、そのほうが安定していて効率がいいじゃないですか」
「もういいです、連休の話。どうせろくなことしてないんでしょうから」と、僕の理論をぶった切った。
「そうだ、前に話していたライブのチケットが今日届いたんでわたしますね」
「あ、ありがとう」そういえばそんな約束をしていた…誰かの演奏を見るなんてもうテレビでしかないと思っていた。
「七月四日ですよ。すっぽかしたりしたら許しませんからね」そっと小指を差し出され僕らは指切りをした。
「わ、分かった。ほら、チケット代。これで俺はすっぽかすことはない」
「すごくいいアーティストなので絶対後悔しないですから!もうこんな時間、、、ではまた」去ろうとする後ろ姿…
「あ、ああ…ちょっとまって」なんで呼び止めたんだろう…
「な、なんですか」
「い、いやあ何でもない…のかな」
「…じゃ、じゃあほんとに時間が来てるのでもう行きますね」
あ…まただ、また僕は君に何も聞けずに終わってしまう…
「はあ…また逃げるみたいに帰ってしまった…本当はもっと知ってほしいのに…」
ボソっとこぼれた言葉…多分これがわたしの嘘偽りのない本音…なんでいつもこうなっちゃうのかな…
「また…会えるかな…」
6*
もはやここに来るのが日課でついつい来てしまった…今日は特に何も思うこともなかったわけで、学校に行こうと思えば行けたが、何故かこの場所にまた来ている…ここに来れば彼女に会える気がした。
そして今日は、今日こそは彼女の名前を聞き出そう。
今日は火曜日だし、晴れてるし、タイシさんはきっとあそこにいるはず。今日こそは自己紹介、自己紹介だワタシ! わたしは大急ぎで家を飛び出した。
もうすぐ着く…
まだ、こないな…
もうすぐだ…あそこを曲がって…
プーーー、キーーーー
近くでクラクションの音とスキール音。なんだろう。見に行くとすぐに分かった。彼女は車にはねられた。
僕はすぐに救急車を呼び、大声で助けを呼んだ。
すると彼女は目を覚ました。
「っいてて…だいじょうぶ、ですよわたしは…」
「そんなわけないって、今救急車呼んだから、すぐそれに乗って!」
「ほんとうに、だいじょうぶ、ですから」とぎれとぎれ彼女の声は細くなる。
やがて救急車が来て彼女は近くの病院に運ばれた、僕も一応同伴と言う形で乗り込んだ。応急処置と精密検査の末、落ち着いたと連絡が入ったので、僕は病室に入れてもらえる事になった。
「302号室…っとここか」
302 キモト コトネ と書かれていた。
「失礼します」
「どうぞ〜」と、部屋の中から元気そうな声がして少しホッとした。
「入りますよ」と、ドアを開けて入った
「いやあ、参りましょたよほんと、こんな形で会うとは思ってませんでしたから」
「こっちもですよほんとに、ちゃんと安全確認したんですか…」
「すみません迷惑をおかけしました」深々とお辞儀をされてもな…
「いえいえ無事、と言うか一命をとりとめただけでも幸いです」
「全然平気なんだけれどね…まあ一応一週間入院しなきゃいけないみたいなんですよ」
「そりゃそうですよ、車にはねられたんですから」
「無傷ですけどね」
「なんでそんな自慢げなんですか…」と、僕らはひとしきり笑いあった
「はあ〜」と、彼女は深い溜め息をついた。
「どうしたんですか」
「いや、こんな形で名前を晒すとはね…」
「隠していたんですか?」
「いやホントは今日さ、あの場所であなたに自己紹介するつもりだったんですよ。だけどこんな形でね…」
「コトネさん、いい名前ですね」
「なんですか、人助けして貸しを作って、口説いてるんですか。見え見えな作戦なので、ごめんなさい」
「いや別に僕は…普通に響きがいいなと思って。感じでどう書くんですか?」
「琴に音と書いてコトネって読むんです」
「いいじゃないですか。楽器が名前に入ってるなんて素敵ですよ」
「…わたし、あんまり自分の名前好きじゃないんですよね」
「どうしてですか?」
「この名前は親に名付けてもらったんですけど、親はふたりとも演奏家で、わたしも演奏家になるためにとこの名前をつけられたんです」
とても残酷な話だ、名前とはその人が生きる道を決める『使命』と言う人もいる…
「そんな…」
「だから、わたしは京都に親から逃げるようにして来たんです」
「そ、そうなんですね…」
少しの沈黙…そんな過去があったなんて…
「それで今は、小さいときからマリンバをやってて、たまにあの辺りのホールでコンサートなんかしたりして、あとまあバイトとかしてなんとか狭い四畳半で暮らしています」
「そんなことがあったんですね…で、近々マリンバのコンサートの予定とかってあるんですか?」
「そ、それも今はちょっと休止中なんです…あっ」なんだか余計なことを聞いてしまったみたいだ…
「今日は、このへんで僕は帰ります。また…」
「わたしこんな姿を一週間も見続けられるのはなんだか尺なので。退院したら青の場所で会いましょう」
「そ、そうですね。また、会いましょう」
急ぎ足で病室を飛び出して帰路についた。
もう五月も終わってしまう…こんな事で立ち止まり続けている場合じゃない。
現実は非常にも足早に進んでいくのだから…
「僕は…」
「わたしは…」
『まだ大丈夫だよね…』
7*
次の週、晴れていたが彼女は姿を表さなかった。
そして気がつけば雨。もうカレンダーは新しくなり雨音が新しい季節を告げた。
雨は残酷にも僕らの約束を遠ざける。あの場所に行く口実も出ないまま、僕は家から一歩も出れない日々が続いた。そのたび思うのは、彼女が本当にあのあとすぐに退院したのかとか、彼女は本当に生きて行けているのかだとかそんなことばかりである。
雨…来る日も来る日も雨が続いた。
医者が言うには骨や内臓に以上はないらしいからすぐ退院出来た…だが、親に連絡が入ったみたいでそこから親は京都の病院まで来て、わたしに説教をした。こっぴどく叱られたものだった。いい大人になったと思っていたが違うらしい。叱られた内容は事故のことはそこまでだったが、わたしが演奏者を休止中ということに関してひたすら怒られた。
そして今は親が手を回したマリンバ教室にて寝泊まりしている…
マリンバ教室での自由は朝昼夕の食事の時と風呂そして睡眠しか許されなかった。だからか、朝起きて目が覚めて、雨が降っていることを確認すると何故かホッとした。
君は雨の日にはあの場所には来ない。
あの場所に行けない正当な理由があることに安堵しようとしていたのかもしれない…
ただただ梅雨が過ぎていく現実はいつも残酷に、理不尽にただただ進んでいく。気づけば約束の日が近づいていた。
一体彼女は、今頃どこにいて何をしているのか…
あの時連絡先聞いておけばな…
今日は雨が降っているけど、火曜日…傘でもさしてあの場所に行ってみよう。
案の定、君は来なかった。
君に逢うためにはどうしたらいいのか、と考えた結果、僕と君共通の場所はこの場所しかなく、来る日も来る日もそこに行く日々が続いた。
8*
「今日も雨か…」カーテンを開けた先はダークブルーの空。今日も君には会えない、だけれどもそんな事僕には関係ない。あの場所に行く。こうでもしないと生きていけない。そんな気がしていた。
雨の中傘を差し向かう。
そこに君は傘を持たずにいた。
「…やっと…会えましたね」息を切らしながら話しかけた。
「あ、あの…これ!」ポケットからくしゃくしゃの白い紙を取り出し僕に手渡した。
「じゃ、じゃあわたしこれで」彼女は顔を隠して走り去ろうとした
「待って」彼女の手を取っていた
「本当に急いで戻らないといけないので」雨に濡れているのか涙なのかわからない君は先を急ごうとした。
「あ、あのこれ僕は家この辺だから、走って帰ればなんてことないし。傘使ってください」
「ありがとうございます。では」
「待って、七月五日、約束忘れてないですよね?」
「約束?そんなのしましたっけ…では本当に行かなきゃ…さよなら」
ひどいじゃないか、そうやって勝手に『約束』を押し付けては忘れるんだもの。やはり人なんて、碌なもんじゃない。
渡された紙は雨に濡れて、その上くしゃくしゃだから、何が書いてあるやら分からなかった。そんなもやもやがあったあから、友人を自宅に招き、酒を飲んでいる。
こんな僕にだって酒を飲む友人くらいはいる。
「で、話って何だ」
「この紙なんだけれど、解読できるか」
「ん〜これはわからねーな…いつ渡されたんだ」
「昨日」
「あの話していた女の子からか」
「ああ、それでさよならって言われた」
「お前それはあれじゃないか、前見たく三行半突きつけられたんじゃないのか」
「だよな…」
「まあ、前あんなことされてからあれだったけど、まっとうに恋してんじゃんか」
「うっせーよ恋なんかじゃないってきっと」
「でも会えない時は気になるんだろ」
「まあ、そりゃ毎週会ってたからな」
「それは紛れもない恋だって」
僕は納得できない感情を酒で流し込んだ
9*
刻一刻と時は流れ、僕は現実に置いてけぼりを食らってしまう。テレビを付ければ前見た芸能人はもう出てなかったり、キャラクターが違ったりしている。
『社会は常に動き続けるものだ』という誰かの言葉を思い出した。
最近は情報がめまぐるしく行き来しているから便利になった反面、色んな物が直前までわからないそんな世の中になってしまった。それ故に、大切なことさえも、急に変化をしてしまうのだ。
気がつけば七月になっていて、“約束”の日はもうすぐだった。
君は忘れてしまったかもしれないけれど、僕は忘れやしない。
七月五日。烏丸のライブハウス。君は来るだろうか…
そんなことを思いながら、七月四日の火曜日もあの場所へ向かった。けれども君は来なかった。
急いでたからだろう、あんな酷いことを言ってしまった…渡した紙も雨でぐしゃぐしゃで、そして傘まで借りてしまった…決して忘れたわけじゃない、忘れるわけない。わたしから誘ったのだから…
あんなことを言われてまで君は来るだろうか。そんなことを考えている場合じゃない、傘を返すのはきっと明日しかない。でも、どうしようか…
「琴音さん、音に迷いがありますよ」
「あっすいません…」自分が出している音ですら上の空でどんな音を出しているのかわからない。
「何か考え事でもしていらしたの?」
「いえ…」
「一旦休憩にいたしましょうか」
「えっ、わたしはまだ…」
「まだ。なんですか?今のあなたはただ鍵盤の上をなぞることですら集中できていないように見えますよ」
なんだ、全部見透かされていたんだ…スティックを置いてわたしは
「明日、明日だけでいいんです。一日お休みをもらえませんか」
「そんな剣幕はマリンバ叩いているときには見ない顔ね…」
「ええ。大事な約束があるんです」
「大事な約束…ね。(それにこの必死さか…)『恋』かしらね、それは」
「恋?そ、それは…」
「恋じゃなければダメって言おうとしたけれど、あなたのその目は恋をしている目ですわ。恋はあなたをカラフルにするわ。行ってきなさい」
「あ、ありがとうございます」
そうか、この胸に突っかかる感情。これが恋…休憩を経てわたしは、明日の分の練習まで済ませた。
「明日…晴れるといいな」
そう願って眠りについた。
10*
七月五日。朝。窓開け放つ。悪戯にも天は味方してくれていないらしい。少しがっかりして伸びをして部屋の掃除などを済ませメモを書き置きして、身支度を終えて頭が回りだした頃、この雨は寧ろわたしにとっては好都合で、傘を返すのには万全だと感じ傘を持って教室をあとにした。
「えらく早い時間に出たものね…置き手紙なんてのも置いていって…木本さん、あなたの娘さんは真っ当に人間として生きていってますよ」
【背景、西村先生、今までお世話になりました。思えばわたしは小さい頃、親の演奏会を見た時に、先生と出会って演奏者を目指すようになっていました。二週間ほどと言う短い時間ながら、わたしはかけがえのない時間を過ごせたと思います。最近わたしは演奏=生きる術とばかり考えてしまって、音が聞こえなくなってしまっていました。会話とか、練習とかならできるんですが…そしてこの数週間で音が聞こえなくなった理由がわかった気がします。これからはわたしなりに音を楽しんで奏でて行こうと思います。
本当に今までありがとうございました。次会う時は演奏者として会いましょう。
P.S親には教室を出たことは自分で報告します。】
「琴音さん。次会う時は、お互い演奏家として会いましょう」
七月五日。最近の暑さと裏腹に今日も雨…どうやら梅雨明けはまだらしい。
約束に縛られながら僕は今日を迎えた。七月五日の呪縛が解けるか解けないか、それを試すため。たとえ彼女がこの約束を忘れていたとしても僕はライブハウスへ向かうとダークブルーの雨空に誓った。
そういえばライブまでは結構時間がある。更に傘は彼女に貸した物以外持っていない…
思わずため息が溢れた。
とりあえずコンビニに行って、傘を買って、それからあの場所で時間を潰して頃合いになったら向かうか。
近くのコンビニへ向かいとりあえず傘を一本購入した。傘は脆そうな作りでビニールといかにもちゃちいのに、コンビニで買うと四〇〇円は超える。これは本当に如何なものかと疑問に思う。とか不毛な不満を浮かべてあの場所へ向かった。
あの場所へ着いた頃、ちょうど鳥の鳴き声や、蝉の声が騒がしくなって、夏だなと思い傘を閉じていつもの場所に腰掛けた…
「はあ…お前は勇敢だなあ。どうやったって、川の流れに逆らうなんて出来っこないのに」必死に流れにあらがい泳ごうとする鴨を見て思う。その反骨精神やエネルギーはどこから来ているのだろうか…
「あら、お暇ですか」後ろから声がした。いつものように僕は振り向き、君に話すようにこう返した。
「失礼な、立派な日課です…ってすみません、人違いで…」
「いえいえいいんです。ステキな場所ですしね。わたしも若い頃、物事がうまくいかない時ここに来て日が暮れるまでぼーっとしていたものです」
「は、はあ…」
「教え子が独り立ちしたの。友人の子供で、数週間程度しか教えていなんだけど、小さい頃から知っていたから…」
「はあ」
「でもやっぱり人っていつかは一人で行きていかなきゃならないからね」
「僕も、そう思います…でも人ってそこまで強くないんですよね」
「そうなのだからちょっと心配、過保護かもしれないけれど、それほど安定していないから…」
「それは…でも、一番大事なのは信じてあげるってことだと僕は思います。どんなことがあろうと、その子の事信じてあげてください…なんかごめんなさい。説教臭くなってしまって」
「いいのよ。信じる…ね」
「はい、だから僕も信じて人をここでずっと待っているんです」
「あら、ロマンチストね」
「いえそんないいもんじゃないです」
「ステキじゃない。そこまで思われているなんてその人も幸せものね(確かあの子、練習の合間を抜けようとした時、待たせている人がいるみたいな話してたわね)」
「そ、そうなんですかね…」
「その子のこと、絶対に裏切らないで、幸せにしてあげてね。じゃあこれで老いぼれは去ります。ごきげんよう」
五〇代くらいの老女はそう行って去っていった。
自分の言ったことを思い返してだいぶ恥ずかしくなって、顔を赤らめて、天を仰いで、また一つため息をついた。
「こんな昼間から仰天してため息って何ですか。幸せが逃げていきますよ」と、コトネさんは僕の顔を覗き込んだ。
「びっくりした、大丈夫ですよ、僕には逃げていく分まで幸せは有り余っていませんから」
「あら、残念。そのため息で、少し分けてもらえるかと思ったのに」
「そんなことが出来たら、この世の中不幸せな人なんていないでしょうね」
「それもそうですね。まあ相変わらずで良かったです。それよりこれ、返します」傘を差し出された。
「いや、いいよ。それあげます。もう一本持ってますし。それよかどうします、あと三時間はありますよ」
「それなら…あのガラス張りの美術館に行きましょう」
「いいですね。あそこは常設展ならワンコインで入れますし」
というわけでライブまでの暇つぶしに美術館にきた。ここはわりかし新しく向かいにある美術館と比べて三〇年近く新しい。それだけあってか個性的な展示物が多く、『美術』と言うかたっ苦しいイメージをいい意味で崩してくれる。
ひとしきり回り終わっても少し時間が余った。
「まだもうちょっとありますけど…」
「何か甘いものでも食べたいような気がしませんんか?しますよね。あのですね…ここ、すごく気になっているんです」と、彼女スマホの畫面を見せてきた。
「抹茶館…ですか、最近人気ですよね。僕も一度できたての時行った覚えがありますけど。ここで並ぶよりも…ここなんかいいですよ。三条にあるんですけど、並ばなくても普通に美味しい和菓子が堪能出来ます」
「ほう…詳しいですね。ではそこにしましょう」
なんだか不思議な感じだ高校の時や中学の時に憧れた、女の子と京都をめぐるって言うことが叶ったのにすごく冷静だ…安心感がある。
「ここですわらび餅セットが美味いんですよ」
「へえ、じゃあこのかき氷セットで」
「え、じゃあ僕はわらび餅セットで」
「なんでかき氷なんですか?」
「暑いじゃないですか…それにあなたが頼むと思って。シェアしましょ」
なんだその言い方。照れるじゃないか…
「まあいいですよ、ほら来ましたよ」
「あ、ホントだ、美味しそう!」
「黒蜜をかけてっと、うん、美味い!本蕨を使ってるからこそのこの味っすばらしい」
「宇治金時も美味しい、結構歩いたあとだからなおさら体にしみていきますね」
「ほら、これあげます」
「ならこれどうぞ」
なんだか照れくさくてもくもくと食べていく…
「なんだかデートしているみたいですね」
「っはっけほけほ」彼女の突拍子もない言葉に少しむせてしまった。
「ははは〜咽てる咽てる〜」
「からかわないでくださいよ」
「別にからかったつもりはないんですけどね」
他の客の目が痛い…
「ほら、食べたんなら行きますよ。もう時間ないですし」
「ほんとだ。お会計…」
「いいですよ僕が払っときますから」支払いを済ませ店を出た。
「これ。受け取ってください」
「いやいいですって。今回は僕のおごりで」
「ならお言葉に甘えさして頂きます。けど次はわたしがおごりますからね」
とかなんとか言いながらライブハウスへ向かった。
「そういえば、あの紙の意味ってなんだったんですか?」
「あれは…わたしの連絡先を書いてたんですけど。雨にやられちゃってましたよね」
「ええ、完璧にやられてて、おまけに、さよならって言って渡すから、三行半を突きつけられたのかと思いましたよ」
「みくだりはん?ってなんですか。なんかすみません」
「三行半ってのは、昔、江戸時代辺りのとき離縁する時に渡すもので…」
「あ、あ~そんな事する人、今はいないでしょ」
「僕は前付き合ってた彼女にそれをされたんです。それ以来女性からもらう紙が全て三行半に見えてしまうんですよ」
「へえ、なんて書かれたんですか?」
「今も戒めに、財布にいれてありますよ、見ますか?」
「見たいです見たいです!」
普通に恋バナしている感覚で、破局した話をしているなんて信じれない。今となって、こうやって話せる相手がいてよかったと思う。
【この二年半何度もあなたと話して。
デートをして体を重ねても。
あなたへの思いはこの文章くらいしか残りませんでした】
「こんなもの財布に持ってるからいつも暗い顔しながらなんですよっ」
「ああ、ちょっとなにしてるんですか!」彼女は戒めの三行半を紙飛行機に折って遠く遠くへと飛ばしていった。
「数少ない思い出にすがるから、明日が見えなくなるんです」
「数少ないって…そりゃ確かに、二年半一緒にいてもあまり記憶には残らなかったですけど…」
「記憶に残らなかった、そんなの嘘でしょ」
「嘘じゃない」
「本当に記憶に残らないなら、そんな物残したりしないでしょ」
彼女の言うとおりだ。思い返せば二年半。長かったし、それを拭い去るのにはやはりそれ相応の時間がいるらしい。簡単に人の記憶とは消え去るものじゃないらしい。
「そうかもしれない…あの人とはずっと、ずっと笑っていられる気がしたんです。だけれど、この世界、ものは潤うとやがてはふやけてしまうみたいに、幸福なものはやがて溢れてなんの意味もなくなってしまうんです」
よくこんな話目を見て聞けるよな…自分のことみたいな目で…そんな目で見ないでほしい…僕は…君じゃない、他の女の子の話をしてるのに。
「三行半を渡されてから。毎日。毎日。彼女を忘れるために必死だったんです。講義がかぶったり、サークルのミーティングがあったりする火曜日には、大学に行かずに、あの場所で酒を飲んで全て忘れられる気がしていたんです。気がしていただけで、やっぱりどこか引っかかって…」
「そんな時にわたしが来たと…はあ全く、わたしは面倒な時に来てしまったわけですね〜」
「面倒…確かに、そうかもしれないですけれど。僕はコトネさんとあの場所で話している時だけ、日々の辛いことを忘れることが出来ていた気がするんです。あの場所と、君が僕の救いでした…」
「わたしは、救っているつもりはなかったんですけどね…わたし実は、自分が演奏している音だけ聞こえなくなったんです」
「だからマリンバ休止してたんですね」
「そうなんです。演奏家として致命的だな〜って、だからあの日、コンサートを飛んであの場所に行き着いたってわけです。」
「へえ…って大丈夫なんですかそれ」
「まあ、なんとかね。わたしクラスの演奏家なんてそんなもので、わたしの代わりは誰でもいるんだ…って思ってたんです」
「そんな面倒な時に僕とあったんですか!」
「面倒だなんて!」
「いやいや君も言ってたんだけれど…」
「あっ、ま、まあ、だから、わたしもあの場所にいて、ゆっくり流れる時間の中で、あなたと話してて色々救われたな〜って思ってたんです」
「まあ、そんな中事故ってしまったわけですか…」
「あの時はホントにごめんなさい。あのあと、わたしの親が京都まで来て、説教しに来たの」
「事故したことにかんして?」
「いや、演奏家休止したことに関してね、そこから親の友人の人が京都にいたから、その人と二週間くらい、一日中ずっとマリンバを叩いていたんです。だから晴れてても、雨でも、あなたに会いに行けなかったんです」
「そんなことがあったんですね…」
「つきましたよ。ささ、もうお互い過ぎ去ったことだし。水に流して楽しみましょう!」
11*
思えば久々にこんなところに来る。高校生のときの卒業ライブ以来かな…
ライブハウスってのはこう、タバコが染み付いた臭がしたり、酒の臭がしたり、してて、音以外もカオスな場所だ。思えばよくこんなところで歌を歌ったり、聞いたりしようとするもんだなって思ったりする。
「さあ始まりますよ!」
ドラムのフィルの後、爆発するように、二本のギターと一本のベースの轟音を鳴らす。まるで押さえつけられていた何かが吹き飛ぶような感覚だった。
ギター・ボーカルはグレッチのギターを抱えながら、特徴的なガナリ声でロックンロールを歌ってゆく。その姿は自由で、力強くて、まぶしかった。似たようなバンドを一度見たことがあった、そのバンドのボーカルもグレッチのギターとガナリ声で日々のブルーをブルージーなロックンロールで叫んでいた。耳をすませてよく聞くと、いま目の前に立っているボーカルの彼の声には、どこか哀愁と言うか、なんとも言えない悲しさが混じって、柔らかに客を包み込んでいた。それはきっと彼が五〇近くの初老だからとかじゃない、と思う。彼が過ごしてきた日々が彼の声にをそうさせたのだと実感した。
アンコールまですべてを終えた。僕は彼らの虜になっていた。
「いやあ。いいバンドですね!」
「そうでしょ、そうでしょ!」
「ボーカルの声がね、ガナッててもどこか温かいと言うか、哀愁が漂っていて…もうCD三枚買っちゃいましたよ」
「ははは、それだけすごいってことですね」
「特にアンコールの最後の曲は鳥肌ものでしたね」
「あ〜あの曲ね、ファンの間じゃ、ボーカルの前のバンドのギターに向けて書いたとか、書いてないとかで噂になっている曲ですね」
「へー、その前のバンドはいまはどうなっているんですか?」
「十年くらい前に解散して、その五年後くらいにギターの人がなくなってしまったからもう二度と戻らない、伝説のバンドになっちゃったんです、当時はすごかったみたいですよ」
「へえ。だから、あんな声が出せるのか…悲しかった苦しかった過去を乗り越えたからこそ…」
「そうだと思います。だから、わたしは辛い時はこのバンドを聞くようにしてたんです」
「いやあ今日は、誘って頂いて本当に、ありがとうございました」
「いえいえこちらこそ。気に入って頂いたなら何よりです」
ライブハウスから出た。そとはもう真っ暗でもう終電の時間が近づいていた。
「今日は、もう遅いから、駅まで僕が送ります」
「ありがとうございます」
と、だけ、ライブの話はもう喋り尽くしたし、何から話したらいいやら…とかなんとか考えていたら駅についてしまった。
「ここで大丈夫です。今日は本当に有難うございました」
「いいえこちらこそ、楽しかったです」
『あの』二人の声がダブった。
「あ、じゃあコトネさんから…」
「実は、言わなきゃいけない事があったんですけど、中々言い出せなくて…」
「はあ…」
「実は、わたし神奈川の実家に帰ることにしたんです」
「え…ああ、まあそうか神奈川にすんでたんですね〜すごいじゃないですか」同様のせいか言葉が出てこない…
「今日、前言ってた教室やめちゃったんで、親元でしっかり修行しようかなって」
「そ、そうですよね〜いつまでもってわけには行きませんもんね…じゃ、じゃあもう僕帰ります…」
「あ、あの!まだ…もう一つ伝えようと思っていた事があって…あの日、演奏会から逃げ出した日から、わたしはあなたとこの場所に救われていました。他愛のない会話の時がこんなにも、わたしを強く変えるとは思ってもいませんでした。こんな小さな時間がかけがえのないものだと思う様になったんです。そして、事故した後、マリンバの教室にいるときもあなたが今何をしているのか、火曜日ならきっとあの場所で待っているに違わないだろうとか、こんな雨の日は流石にいないだろうとか…全部、全部あなたのことで、全てが上の空だったんです。この気持をどうにかこうにか、伝えたいんですけれど、今のわたしには照れくさくて言えないし、この言葉を表現する語彙力もないです…だけれど、せめて小さい頃からやっていたマリンバなら表現できるかもしれない。って思ったんです。だけれど、ブランクはあるし、きっとここに住んでいれば、あなたといた時間が邪魔をして空白を埋めることが出来ないと思って、だから生まれた土地で修行して、あなたにこの思いを上手く伝えることができるようになったら、また会に来ます。
わたしの伝えたいことはこのくらいです…何か言いたいことがあったんですよね」
「僕は…僕も、あの場所で君に出会わなかったら、今より酷い道を歩んでいるかもしれなかったです。高校生の時は人は一人で生きていけるとばかり思っていましたが、彼女に見切られた時はっきりとわかったんです。人って崩れやすいって。僕も、君も同じだと思う。きっといつしか破綻してしまう。そうならないように、僕が君のそばに居てあげたい…けど、今はどうしようもないくらいダメな生活を送っていました。大学にも行かず、昼間から酒を呑んで呆けて、それからバイトをして…だから僕はこの京都でまた一から頑張って見ます。そんで一人前になって、君の前に現れてまた同じ台詞を君に言います。
本当に今まで、ありがとうございました。また」
「はい、約束ですよ!」
僕は後手で手を振りながら、彼女を見ないように自宅へ向かった。
*
三年後
僕はなんとか四年で大学を卒業することが出来て、今は会社で営業職をしている。とは言っても毎日毎日、ネチネチ上司の説教を聞きながらの日々にイライラしていた。
今日は会社が早く終わったので京都を散歩しながら帰っていた。
「知ってる?木本琴音って?」
「ああ、今話題のマンドリン奏者ね」
キモトコトネ、マンドリン奏者?
「その子が今度京都で公演するんだって」
その時ケータイの通知音がなった。
その日帰宅して折り返しの電話をかけた。
「すごいじゃんか!今や誰もが知る有名人になっちゃって。絶対見に行くよ!」
「でしょ〜、約束わたしは果たしたから…」
「あ、ああ、でもこれドレスコードって、そんな高価なスーツ僕持ってないですよ〜」
「それは知りません!なんでしたっけ君のそばに居てあげたいでしたっけ。かっこいい台詞待ってますからね〜」
ブツ
はあ、仕方ない先月と今月分の給料使ってスーツ作ってもらうか…
そして当日。
「お、山本くん今日は早いね。なんかあるの?」
「いや、ままあ、約束って言うか待ってる人がいるんで」
「部長こいつ、木本琴音のマリンバ見に行くみたいっす」
「お、おま」
「あのマリンバの子じゃないか!まあ、大事なようなら仕方ないか。行ってきなさい」
「え、いいんですか?」
「ああ、いいとも」
「ありがとうございます!」
僕は急いで帰り支度をすませた
「気づいていたかい、太田くん」
「何がですか?」
「山本くんのスーツ。ありゃ新品だし、いいやつだよ。そんなかっこいい男の約束を邪魔できるわけないじゃないか」
「は、はあ」
僕は急いでタクシーを捕まえた。
「ここから旧京都会館までお願いします」
「ハイよ〜、今日、旧京都会館向かう人多いんですわ〜」
「へ、へえ〜」やっぱり九年住んでいるが、未だに関西弁には少々手こずる。
「あそこでなんかあるんですか?お兄さん、えらいおめかし、したはるし」
「ま、まあ」
「ほな、急ぎで向かわしてもらいますわ」
タクシーは京都の街疾走した。いつの間にか旧京都会館についた。
「ありがとうございます」といい支払いをすませ、コンサートホールへと入った。
もうすでに会場は満員だった。彼女は本当に約束を果たす以上のことをしている…僕は、本当にこれから、この人のそばに居ていいのだろうか。そんなことをおもって座席についた。
やがて幕が上がり演奏会が始まった。マリンバの曲なんて名前すら知らないけれども、やはり武者修行を三年間積んだ彼女の演奏はあっけにとられた。楽器をやったことがある人ならわかる、細々としたところまで完璧で、まるでこの女のマリンバが雄弁に彼女のことを説明してくれている、そんな気がした。
そんな一時間はあっという間に過ぎ終わりを告げた。会場から出て、ケータイを開くとまた通知が、彼女からだ。どうやら本番直前に来たようだ。
【今日は見に来てくれてありがとうございます。演奏終わったらホールのすぐ近くにあるカフェで待っててください】
見に来てくれてって。まだ始まっても居ない時間から…僕が見に来る前提だったんかい。
【わかりました。今日の演奏とても良かったですよ】
と、返しておいた。そして僕は一人でカフェの席を取って三〇分位待った。いつもそうだ、君をこうやって僕が待っている。なのに、なんか違和感…まるで君だけ立派になって…
「ごめんなさい。ちょっと色々楽屋で話してて」
「待ちましたよほんとに。いやあでも本当にお疲れ様です。素晴らしい演奏でした」
「あ、ありがとうございます…」
「照れてるんですか?顔が赤いですよ」
「忘れましたか。三年前のあの日のこと…」
「あ、ああ、僕があの日の台詞を変わらず君に言うんでしたよね…」そういやそんな約束してしまってたな…
「それもそうですけど。わたしの言いたいこと伝わりましたか?」
「確かそんな事言ってたましたね…本当にマリンバがあの後の三年を雄弁に語りかけているようでしたよ」
「なら…少しは伝えられたので良かったです」
「で、あの日の台詞ですよね…確か、君のそばに居てあげるだっけか。そんな台詞、今の僕から君に送るのはなんか違う気がすると思ったんです」
「何言ってるんですか、あの言葉だったから安心して三年間神奈川で修行できたってのに」
「あの日から、僕は君を救えるくらいのいち人前になったら言おうと心に決めていたんです。今の僕は三年前の自分と何一つ変わりない。こんな僕にふさわしくはないよ」
「いつまで過去の古い約束に縛られてるつもりなんですか?あなたの悪いところは、過去のことをいつまでも引きずるところですよ。そんなんじゃ一歩も進めないですよ。それに、わたし気づいてますよ、今日のためにそのスーツ新しく作ったでしょ、しかもオーダーで。そこまでできるんですから、あの日からちゃんと進歩してますよ」
「そ、そうなのかな…だけど、今の君に贈る言葉はこれくらいがちょうどいいよ。
君のそばで肩を並べて歩かせてください。
頑張って少しでも前を向いて歩けるように一緒に居てほしいです」
君はあっけに取られた顔をしていた
「ど、どうかした?」
「いや…ただ、あの日の台詞のままだとしっかり返せたんですけどね…そんなオリジナリティあふれる言葉渡されたらこうなりますよ」
「あ、あと、ごめんなさい、花束とかそんなのは買う時間がなくて、この言葉しか今は手持ちにないんで」
「え~花束忘れないでって言ったじゃないですか〜」無き笑いながら僕らはカフェでひとしきり話した。三年間の空白を埋めるために一時間近くは過ぎていた。
「もうこんな時間じゃないですか。良かったら飯でも行きませんか。琴音さんのおごりで」
「え、そこはレディーにおごるのが決まりじゃなくって」
「三年前の和菓子屋のこと覚えてますよ〜それに、自分で言うのも何ですが、今は僕のほうが所得しんどいんで」
「あ、そうだった、そんなことありましたね…じゃあ。あのパスタ屋にしましょうか」
「いいですよおごってもらえるなら」
「じゃあ決まりです。行きましょう」
店についた、パスタやとはいえチェーン店のところだった。
「チェーン店…気づかれませんか?」
「大丈夫、わたしが売れてるの名前だけだから」
「それもそうですね」ドカ、膝蹴りを食らってしまった。
「すみません余計な一言でした…」
「二名で」
お互いパスタを頼み堪能した
「いやあ美味しいですね、ここ」
「ええ、京都に居た頃から個々にあったので、その時から少し気になってたんです」
「店とりあえず出ましょうか」
といい店を後にした。もちろん彼女のおごりだった。
そのまま駅に向かう…どうやらマリンバ教室の方に挨拶に行くらしい。そしてまた神奈川へ帰るようだ。
「あの日みたいですよね…」沈黙に耐えかねた僕は、ぼそっと本音が出てしまった。
「へ?」
「いやあ三年前のあの日もこうやって無口なまま駅に向かってたな〜って」
「そういや、そんな事ありましたね〜、いやあほんと数時間前のようです…」
「って言ってる間にもう駅だ」
「ですね〜じゃあまた、京都に来た時は必ず連絡入れるんで会いましょう」
「あ…あの、待ってもらえますか!」僕の口から思わず出た言葉は、しがみつく負け犬のように情けない声だった。
「あ、手、握ってくれた…」
「そりゃ、僕だって本気になればね…なれば」
「で、なんですか呼び止めて、手まで握って」
「どうしても、君が神奈川に行く前に伝えたいことがあって。三年前モヤモヤしていた気持ちに蹴りをつけようと思って、呼び止めました…木本琴音さん…僕と付き合って京都で暮らしましょう」
沈黙
「返事はすぐには出来ない…と思います。神奈川の両親をまず口説き落としてからスタートなので、まずはあなたが神奈川まで来てくださいよ。明日の九時三八分発の新幹線で向かうので」
「わ、分かりました…」
というやり取りで、僕らは別れた…
*
【もし本気で神奈川に行くなら、横浜駅のコンコースの中のコンビニで待ち合わせましょう】
【分かりました。僕は本気ですから】
迎えた二〇二〇年、七月二七日。九時ちょっと過ぎ、京都駅のKIYOSUKUで弁当を探し求めていた…
しかたねー、一杯引っ掛けるか…
『あ』
と手がぶつかった。同じスミノフを手に取ろうとしたみたいだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
「いえ、ところで、どちらに向かわれるんですか?」
「横浜ですけど…」と彼女は答える。
「だと、思った」
『晴天の約束』完
舞台は京都の白川通りや岡崎のあたりをイメージして書きました。
あの場所はいつでも落ち着きます。
この時期なんかは特に、川に足つけるのにもってこいです。
憂鬱を晴らすのにはいい場所です。白川や岡崎は比較的人が少なくゆっくり時間が過ぎるので観光におすすめですよ〜。