エピローグ的ななにか
数年が経った。
今、私は自身四作目となる小説を執筆している。
懇意の出版社の担当編集さんの勧めで、今回は投稿サイトを経由せずに出版する初めての試みとなる。
私は、今までの自分の作品たちについて、投稿サイトでの試し読みを経て購入に至ってくださる読者様に恵まれたおかげでなんとかやってこれたのだろう、と分析している。だから、この提案をされた時には少しばかり渋ったのだが、担当さんに押し切られてしまった。なんでも、「先生にはそれだけの力がありますから」とのことらしい。自分より一回りもお年を召した女性にそんなことを言われ、私は舞い上がって安請け合いをした。
期待は少々。
書店で私の本を手に取って、そして面白かったと思ってくれる人が一人でもいるのなら、私が書く小説にも意味はある、と。
不安が大半。
ネットを経由しないとなると、知名度が低い私の小説など、誰の手にも取ってもらえない可能性すら孕んでいる、と。
私は木に登るサルのように、おだてられて乗せられてしまっただけなのかもしれない。大人って怖い。あとから冷静に考えると担当さんの言葉が全て口八丁の出鱈目ではないかとすら思えてくる。
けれど、信頼には応えたい。いまや私もいっぱしの社会人なわけで、怖い大人の仲間入りを果たしているのだ。いつまでも甘えた考えではいられない。仕事として引き受けたからには責任を持ってやり遂げるだけである。
黙々と自宅のPCの前で作業に打ち込んでいると、玄関の方から「ただいま」という声がした。
旦那のお帰りだ。
PCに顔を向けたまま、おかえりなさい、と応じると、足音が近づいてきた。不機嫌そうに鳴らされた足音は、私の背後で止まった。
「ただいま」
耳元で囁くような声。
聞こえてます。返事もしました。だから邪魔しないで。今、筆が乗ってていいとこだから。
私が小声でまくし立てるように言うと、旦那はすごすごと引き下がり、キッチンの方へと消えていった。蛇口から水が流れる音が耳に入る。どうやら、夕食を用意してくれるらしい。しばらくPCに向かっていたが、旦那も仕事で疲れているだろうに、悪いことをしたかな、と思うと、気が散って文字を打つどころではなくなってしまった。
私は今夜の執筆に見切りをつけ、旦那を手伝うことにした。仕事なら、会社勤めの旦那と同じく日中にも出来る。というか、旦那が家にいない日中こそ、私はのびのびと執筆に集中出来るのだ。それに、彼が家に居る時は、出来るだけ一緒にいたい。
さっきはごめんね、おかえりなさい、私も手伝うよ、と私が言うと、旦那は「気にしなくていい」と唇を尖らせた。でも、口端が緩んで、少しだけ嬉しそうな顔だった。
素直じゃないなぁ、もう。
さて何から手を付けようか、と服の袖を捲ると、旦那が私に玉ねぎを寄越した。みじん切りをご所望である。涙を流せということらしい。謝罪とともに歩み寄ったことで機嫌を取れたと思ったら、どうやら気のせいだったようだ。
*****
「新作、また恋愛ものなのか?」
二人で作った料理を平らげたところで、旦那はそんなことを問いかけてきた。そうだよ、と私が答えると、彼は何とも形容しがたい微妙な顔をした。
彼がそんな顔をするのも、まぁ、分からなくもない。私は前科一犯だからな。勝手に彼を題材にして溢れ出る妄想を形にしたのだから。私はミステリーを書いたことは一度もないので、彼は私の作品唯一の被害者だ。
少しでもその不安を拭えたらと思い、大丈夫、次の話にモデルはいないから、全部私の想像なの、と告げると、彼は「そうか」と安堵したような、寂しげな、どっちつかずの表情をした。モデルにしてほしいのか、してほしくないのか、どちらなんだ。
私と大学で同学年だった彼女との親交は社会人になった今も続いている。彼女には、三作目の主人公のモデルとなってもらった。というか、彼女のほうから「私を主人公にしてよ!」と言ってきたのでそうした。旦那も彼女くらいさっぱりと受け入れてくれればいいのに。
食後ののんびりとした時間を二人で過ごしていると、旦那が「ああ、そうだ」と徐ろに仕事用の黒鞄の中をごそごそと漁った。注視していると、出てきたのは茶色のブックカバーに包まれた長方形。
「きみに読んでほしい本を見つけたから、買ってきたよ」
手渡されたのは、タイトルも聞いたことのない本だった。偶々という体を装っているが、私は知っている。毎年、今日、私の誕生日。彼は絶対に一冊、彼が自信を持って推す物語を私にプレゼントしてくれる。
きっと、今夜も枕元で長々とした講釈を聞かされるのだ。そして、それを聞いてから読むと、やっぱり面白いのが少し悔しかったりする。私の書いた小説に対して、彼がそうしてくれたことは一度もないから。まぁ、書いた本人に対してそんなこと、されても困るけれど。
でも、彼は最近、私の小説に一定の理解を示してくれるようになった。『面白かった』という感想は、いまだに聞いたことがないが。それでも、ここのところあの辛口の批判は鳴りを潜めている。
私は手渡された小説をまじまじと眺めながら、彼の自筆の小説をプレゼントされるのは何歳の誕生日になるのだろう、と考えて、思わず苦笑が漏れた。彼の仕事がお休みで、私が締切に追われてPCの前から離れない日には、彼は時たま、私と二人で机に並んで唸っていることがある。いつ見ても、筆はあまり進んでいないようだけれど。遠くない未来に書き上げてほしいものだと切に願う。
期待は少々。
いつか読んだら、今度は私が散々にこき下ろしてやるんだ。
不安が大半。
現役の私より面白いものを書かれたら、私の立つ瀬がどこにもない。
小説を受け取った私の反応を見た彼が、「もっと喜ぶと思ったんだが」と不満げに漏らした。
私は、嬉しいよ、ありがとう、と取り繕う。でも、しょうがないじゃないか。本当に読みたい小説が、いつになっても書き上がらないのだから。
あなたの小説をプレゼントされるのはいつになるのかしら、と、悪戯っぽく問いかける。するとあなたは、「構想は出来ている。あとは形にするだけだ」と答える。大学時代から数えて、都合何年そこで足踏みしているつもりなんだ、と呆れた。
だが、一生書き上がらないかも、などという不安はない。私の王子様はいつだって、最後の最後には、私の期待に応えてくれるんだ。
私は、少々の期待を込めて、彼に告げた。
できれば、四〇〇字詰めの原稿用紙に書き写して燃やす前に、読ませてね、と。
おわり。
2分割と言いつつ蛇足を付ける。
拙い文章ですが、読んでくださった方、ありがとうございました。