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――「ほら、見てくれ」


 丘の上から王子が指し示す眼下には、視界いっぱいの麦穂が揺れていた。黄金色の輝きに、私の口からほう、と嘆息が漏れる。元の世界でも、こんなに一面に広がる麦畑は見たことがなかった。


「僕はこの景色が好きなんだ。いや、この景色だけじゃない。風に揺れる木々や花、大河のせせらぎ、城下の賑わい。この国の文化、風景、そしてここに生きる人々。それらすべてが、僕の宝物だ」


 落ち着いた口調で語る王子の横顔を、ちらりと盗み見る。彼は、きらきらと目を輝かせていた。とてもきれいな蒼い瞳に、黄金色を映して。


 ああ、夢を語る男の人というのは、どうしてこうなのだろう。あまりにも不意打ちが過ぎる。いつも冷たい印象を抱かせる顔をしているクセに、いきなりそんな、少年のようなあどけない表情をしないでほしい。


 彼が私へと向き直る。私は慌てて、視線を逸らした。


「だから、絶対に守るよ。もちろん、きみのことも」


 王子は私の背中に手を回し、そっと抱き寄せた。

 私はされるがまま、彼の胸に身を委ねた――。




 これは、物語の中盤、大陸の覇者と呼ばれる隣国との戦へ赴く王子様が、主人公の女の子と出立の前日を過ごすワンシーン。主人公にとって、王子様がどれほど大切な存在なのかを再確認する、重要なシーンだ。


 夢を語る王子様の語り口は、非常に論理的。けれども、その表情は瞳に幼い憧憬を宿す子供のよう。


 彼は、あの日の先輩。サークル勧誘かと思いきや、どこかズレたことをしながら、私に好きな本を語る、先輩。主人公わたしが恋をした瞬間の、王子様せんぱい


 マウスホイールを上に回す。




――コン、コン。


 ノックの音が、廊下に響く。眼前の木製の扉の中から、返事はない。乾いた感触が指先に虚しく残るだけである。


 もう何度かノックしているが、何の反応もなし。呼び出しておいてこの仕打ちはなんなのよ。さすがに腹に据えかねるものを感じて、私は取っ手に手をかける。書斎の扉は簡単に開いた。鍵は掛かっていないようだ。


「失礼します」


 恐る恐る中に入ると、雑然と床に積み上げられた書物の山が目に入り、思わず顔を顰めた。陽当たりのせいか、やけに埃っぽい。部屋の奥の小さな窓の向こう、中庭から小鳥の囀りが聞こえる。


 その窓の近くの椅子に、彼は座っていた。俯き、開いた書物を読み耽っているようだ。固く結ばれた艶やかな唇。薄く細められた瞼。綺麗な金髪に陽光が反射している。深窓に佇むその姿がとても絵になっていて、見惚れてしまう。……いやいや、何を考えてるんだ、私。今はそんなのどうでもいい。


「……あの、王子サマ? おーい、王子サマー?」


 再度の呼びかけにも、彼は応えない。私がここに来たのは、彼に呼び出されたからだ。なのに見向きもしないなんて。これは私、さすがに怒ってもいいよね?


「王子サマってば!」


 近くまで歩み寄り、大きな声で彼を呼ぶ。するとようやく、彼は固く結んでいた唇を開いた。視線をこちらに寄越さぬまま。


「そう怒鳴るな。聞こえている。もちろんノックの音も」

「はぁ。それなら返事くらいしてよ」

「なぜ僕がきみに対してそこまで気を遣わねばならない」


 なんとも不遜な態度である。まぁ、彼は一国の皇太子であるのだから、分相応な態度とも取れるが。とはいえこちとら礼節に重きを置く極東の島国出身者。和を以て尊しと為す文化が体に染みついている。その態度に、自分の存在すら安んじられたように感じられて、頬を膨らませた。


「きみを呼んだのは、他でもない。この部屋の整理を頼みたくてな」

「えぇー……?」


 私は改めて周囲を見回す。

 私の腰ほどまでありそうな本の山が、ひとつ、ふたつ、みっつ……十以上あるんですけど。本自体の冊数は、もはや数えきれない。これを片付けるなんて、大仕事だぞ。


「なんで私が?」

「国の機密に触れる文書が多いから使用人とて気安く使えないんだ」

「私、使用人さんたちよりよほど部外者だけど」

「きみなら任せられると僕は判断した」

「そ、そう」

「異世界出身ということで文字が読めないからな」

「あ、そういう理由ね。納得……」


 でも、私だって最近、この国の字を読めるようになろうって頑張ってるんだから。お世話してくれてるメイドさんにこっそり習ってるんだ。まぁ、まだ始めたばかりで全然成果は出てないけど。元の世界でも英語の成績悪かったしなぁ。


「安心したまえ。僕が監督していてやる。基本的に背表紙のしるしに合わせて棚に戻せばいい。中には擦り切れているものもあるが、それについては指示する」

「手伝ってはくれないのね……」

「なぜ僕が手伝わねばならない」

「はぁ……。もういいです。仰せのままにしますよ」


 床に積まれた本を一冊手に取る。表紙に何が書いてあるかすら分からない。王子の言った通り、私がこれらを手に取ったところでどんな秘密もどこにも漏れることはないだろう。


 背表紙にある奇妙な形のマークを確認して、壁際の本棚を探す。いくつか違う形のマークが、本棚の段ごとに刻んである。どうやらこのマークは分類を示しているようだ。


 一冊目を棚に戻し、二冊目を拾い上げる。ふと、疑問に思ったことを王子に尋ねた。


「でも、どうしてこんなに散らかっているの? みんな大事な本なんでしょ?」

「すべて僕が読んだからに決まっているだろう」


 あっけらかんと言ってのける王子に、私は呆然とし、拾い上げた本を取り落とした。「おい、大切に扱え」と開いたページに目を落としたまま注意してくる王子を睥睨する。


「それなら自分で片付けてよね」

「いやだ。僕には他にやるべきことがある」

「本読んでるだけじゃん」

「そうだ。何を置いても優先すべき大事なことだろう」

「あ、うん、そうだね。そういう人だったよね、あなた」


 この王子サマは、どこまでも勉強が大好きらしい。いつもどこでも、隙あらば書物を開く。私には到底分からない境地だ。説得を早々に諦めて、私は作業を再開した。

 いくつか本を戻した時、王子が「ああ、そういえば」と声を発した。


「簡単な単語のみで構成された本を用意しておいた。もちろん、ここにではないが。あとで僕の私室にくるといい。三冊ほど見繕ってある」

「えっ?」


 投げかけられた言葉に驚き振り返ると、王子は本から顔を上げ、私を凝視していた。ばちりと目が合う。海に浮かぶ宝石のような蒼い瞳がきらきらと瞬く。私は気恥ずかしさからすぐに目を逸らした。


「……え、な、なんで?」

「きみの世話をしているメイドに聞いた。文字を学び始めたのだろう? とても良いことだ。僕がそれを応援するのはおかしいか?」

「う、ううん。そんなことない。ありがとう」


 知られていたのかという照れと、わざわざ選んでくれたのかという嬉しさが入り混じって、胸がざわつく。いきなりこういう優しさを見せるのは、ずるい。


「用意したのは三冊とも幼子おさなごに向けた寓話だが、どれも中々に興味深い内容の物語だ。学ぶのも大切だが、興味を持つことが第一だからな。楽しむといい」

「そ、そうなんだ。うん、そうする」


 頷く私に満足したのか、王子は再び書物に目を落とす。今度は若干、頬を緩めながら。


 その横顔に、私は不覚にもときめいてしまった。それを悟られまいと作業に没頭し、残りの本をあらかた棚に戻し終える頃には、オレンジの斜陽が小さな窓から零れ落ちていた――。




 主人公()が出会った王子様は、先輩なのだ。


 王子様の口調も、仕草も、たまに偉そうなことを言うところも、ひとつのことに集中すると周りを見ようとしなくなるところも、全部全部、先輩のものだ。この物語のそこかしこに、先輩が居る。


 私はさらに、マウスホイールで私と王子の物語を遡る。




――『社交界』


 華々しい響きの言葉だ。王子に言われるがままウエストがきついドレスに身を固めてエスコートされてみたけれども、やっぱりこの空気は私には合わない。私には縁のない世界なんだろうなぁ、と、ホールを橙色に染め上げる中世風のシャンデリアをぼんやり見上げながら思った。


 今、私はバルコニーに近い壁に背中を預けて独り。ホールの中はわいわいと賑わっているのに誰も話しかけてこないので、暇を持て余している真っ最中だ。まぁ、こんな周囲から浮いた黒い髪で得体の知れない女は、忌避されて然るべき。王子が傍にいないと、私には何の価値もないんだ。それくらいはもう理解できているから、べつに今更どうってことないけど。それでもこの針の筵のような状況は胃にくるものがある。


 今すぐ出ていきたい気分だけれど、さすがにそれは今日まで面倒を見てくれている彼に悪いから出来ない。それにしたって、もうちょっと気にかけてくれてもいいじゃないか。王子に手を引かれていないと、私は何をしていればいいのか分からないのに。使用人らしき男性に無言で手渡されたグラスを傾けながら、当の本人に恨みがましい視線を送った。


 彼はホールの中央できれいなドレスを身に纏ったご婦人方に囲まれていた。だが、彼は冷たい表情で、まったく楽しそうに見えない。少しくらい愛想笑いしないと、ご婦人方も機嫌を損ねるのではなかろうか。まぁ、もし彼が笑顔で愛想を振り撒いていたら、さすがの私も本格的に逃げ出したくなっていたかもしれないが。


 耳をそばだててみると、かすかに王子たちの会話が聞こえた。


「王子様には、意中の方はいらっしゃるの?」

「そんなものはいない」


 間髪入れずに言い切るあたり、本当なんだろうなぁ、と思った。ご婦人方はそれを聞いて、「では、わたくしなどいかがでしょう?」とか、「いえ、わたくしが」とか、自分を売り出し始める。なんと姦しいことか。あれが噂に聞く肉食系女子ってやつか。私も見習ったほうがいいのかな。


 そんなことを考えていると、王子の低い声が耳を掠めた。


「押しつけがましい女は嫌いだ」


 周囲のご婦人方が、その声色にたじろぐ。


「僕の理想は……そうだな、供にこの国の未来を案じてくれる人。そして何より、僕のことを一番理解してくれる女性であること、だな。少なくとも、『王太子』の地位に擦り寄ってくる相手はごめんだ」


 皮肉げな笑みを残し、王子は身を翻してホールから出て行った。まるで参加義務は果たしたと言わんばかりの振舞いだった。ちょっと待って。私、置いてかれた?


 足早にその背中を追いかけながら、ふと思う。私にあの王子サマを理解できる日は来るのだろうか、と――。




 このシーンは、序盤、異世界に迷い込んだばかりの主人公が、王子様に連れられ王宮の社交パーティに参加するシーン。これは序盤も序盤、冒頭にほど近い部分だから、まだ二人の仲に進展はなく、王子は女性に言い寄られるのを防ぐ露払いとして半ば強制的に主人公を連れ出す。が、その甘い目論見が敗れ去り、王子様は案の定女性に囲まれ、主人公は蚊帳の外からをそれを見ている。そんなシーンだ。


 これは、私が大学に入った年の、サークルの新入生歓迎パーティの風景。先輩に見事|勧誘された≪釣られた≫私が、のこのこと参加したパーティの投影(リフレクション)


 私と先輩の距離が、まだ遠かった頃のおはなし。


 先輩から近いようで遠い席しか確保できず、私は終始、先輩と周囲の会話に耳を傾けていた。その中で、『好きな異性のタイプ』なんて話題が出るのも、羽目を外しがちな大学生(パリピ)なら当然と言えよう。少し大人になったといえ、大学生なんて高校生に毛が生えた程度の存在だ。話す話題が劇的に変化するわけではない。


 男性女性が入り交じり、口々に好みのタイプについて言及する。そして、ついに先輩の番になった時、出てきた言葉がこれだ。


「本を読むのが好きな女性。お互い高め合えるから、執筆もしているならなおいいな。それから……僕のことを、一番理解してくれる女性ひとであること、かな」


 まさに小説の王子様と同じようなことを、先輩は言ったのだ。というより、先輩が元ネタなので流用したのは私のほうだ。


 その言葉を聞いた時、私の脳内に電流が走った。これしかない、と思った。


 それこそが、『小説を書いて、彼に読んでもらって、私の想いを伝える』ということだった。


 元々本を読むのは嫌いじゃないし、サークル勧誘(街頭販売)の時に渡された先輩のおススメの本は、軒並み面白かった。先輩の教えてくれた本なら、私は大好きなのだ。この点は問題ない。だが、小説を書くとなると、文字に触れた経験が圧倒的に足りない私には敷居が高い。そのため、サークルでは先輩の一押しの本を何度も尋ね、勧めてくれる本をひたすらに読み漁って知識を蓄えた。


 先輩を理解するという点に関しては、自分の努力次第だと奮起した。出来るだけ彼に近づいて、彼のことを知ろうとした。彼を理解するというのなら、同じように創作活動をすることが近道であると考えた。親近感に勝るものはない、と。


 あまりに倒錯した願望。自分の実力を顧みず思い上がった短慮。なんて滑稽で、なんて浅はかで……なんて救いようがない、私。


 私の作った物語では、先輩には、何も伝わっていない。伝わらない。


 私だって、本当は分かっているんだ。この小説を書き続けてきたのは、義務感に駆られていたからなんかじゃない。


 私と先輩を、主人公と王子様に投影していたから。


 だから私は、彼らを幸せにしたかった。結ばれる未来まで描きたかった。現実の何もかもをかなぐり捨てても、見届けたかった。それだけなんだ。たとえそれが、叶わぬ現実からの逃避であろうとも。


 私は丸一日をかけて、もはや大作と呼べそうなほどに膨大となったデータの塊を隅々まで読み終えた。ブルーライトカットの眼鏡を外し、目元を拭う。目頭の熱の割に、そこは既に乾いていた。読んでいる間に何度も寄せては引きを繰り返し、ついには枯れたらしい。目の周りにじんじんとした熱だけが残っていた。


 今、物語は佳境を迎えている。隣国に攫われた主人公が、その国の皇太子に無理矢理に迫られ、なんとか機転を利かせて逃れたところ。この後、王子様が颯爽と現れて、主人公を助け出す。その過程で、今まで知り合ったイケメン達も活躍する。皆の働きで騒動が収束し、そして二人が結ばれ、大団円(ハッピーエンド)――となる予定だ。


 ありきたりでチープなエンディング。それでも、私は私達に幸せな未来を作ってほしかった。その願いが形になるまで、あと少し。


 だが、そんな結末は、この先ずっと、訪れない。


 私はテキストファイルを閉じ、マウスをクリックした。指を離すことなくカーソルを動かし、『ごみ箱』の上で止める。今度は、少しの躊躇いもない。


 私は、主人公わたし王子様せんぱいの物語を、そこで離した(燃やした)



*****



 私は里帰りすることもなく、例年と同じくらいに冷え込む年末年始を独りきり、抜け殻のように過ごしていた。


 大学に入ってからここ数年、間借りしている自宅(アパート)ですることと言えば創作活動ばかりだったから、いざそれをやめてしまった時、何をすればいいのかが全然分からない。大学生って普段どんなことをして過ごせばいいのかな、なんて益体のないことを考えてみても、虚しさが募るだけ。


 ふと、先輩は今何をしているんだろうか、と考えそうになって、その度に頭を振って思考を中断した。先輩の顔を思い浮かべると、どうしても涙が零れそうになる。底の見えない沼に嵌まりそうな気がした。いや、もう下半身くらいまでとっぷりと浸かっている気もするが。それでも出来るだけ考えないようにした。


 けれど、何も考えないというのは、私の性格的に難しい。想像は私の特技なのだ。あるいは妄想かもしれないが。おかげ様であのような冗長な物語を形にするまでになってしまったのだから。だがそれをやめてしまった今、そんな特技を活かす方法は存在しない。持ち腐れるほどの宝と呼べる代物でないことは確かなので、言うなれば腐ったがらくたのような悪癖だ。なんとも遣る方ないことである。


 気を紛らわせるために、アルバイトでもしてみようかな、とも考えた。だが、近くのコンビニでバイトの情報誌を頂いて開いてみたが、興味をそそられるような仕事はなかった。それに、年末年始のこの時期に面接に応じてくれるところなどないだろう、と思ったからやめた。


 手持無沙汰もここに極まり、さすがに人恋しくなって、私は年明けの大学初日、サークルに顔を出すことにした。先輩が来ないなら、と夏ごろから年末にかけて参加率が悪かった私だが、思いの外あっさりと行くことを決めた。先輩と顔を合わせたくないと思いつつも、同時に来てほしいとも思っている自分が、なんだかとても矛盾に満ちていると自嘲しながら。


「あ。あけましておめでとー」


 サークルの教室に入ると、もはや同学年で一番親しい友人とも言える彼女が私に声をかけてくれた。彼女とは授業でも会うし、最近ではプライベートでお茶をすることもある。


 あけましておめでとう、今年もよろしくね、と返しながら、彼女の隣に腰を下ろした。


「珍しいね。ここんとこ、ずっと不参加だったのに」


 気が向いたから、と応じる。彼女は「そっか」と短く答え、難しい顔をして机に開いたPCと向き合った。それを見て、そういえばサークル誌の原稿の〆切が直近だったなぁと思い出す。周りを見ると、同じようにPCを持ち込んで執筆や推敲をしている人が多い。


 前にも言ったように、他の皆さまはサークル誌に一定の文字数で物語を綴る役割を負っているが、私は何の役割も振られていない。まぁ、自分自身で『読み専門にする』と宣言したのだし、きっと素人同然の私が書くものになど需要はないから、この扱いは至極正当と言える。


 正当と言えるのだが……それでも、どうせならなにか引き受けておけばよかったな、などと後悔の念が押し寄せ、寂しさや不甲斐なさを感じてしまう私は、きっと傲慢なのだろう。もし自分に出来る事を正しく理解できる謙虚さを持っていれば、おそらくあんな私小説を書こうなどとは思わなかったはずだから。思い返すだに、甚だしい思い上がりだ。


「あの先輩なら、今日は来ないって連絡があったわよ」


 ぼうっと彼女の手元を眺めていたら、彼女の刺々しい声が耳朶を打った。


「まったく、締切守る気あるのかしらね。あの先輩、全然書かないんだから。遅筆なんてもんじゃないわよ。鈍筆、ううん、亀筆って言ってもいいかも」


 タタン、と軽快にキーボードを打ち鳴らしながら、彼女はそんな恨み言を吐いた。それは先輩が時間をかけて言葉を吟味してるから、と庇うと、「あー、そう。あんたならそう言うと思った。ぶれないね、あんたは」と溜め息を吐かれた。


 私は少し迷ってから、その言葉を否定する。


 ううん。そんなことない。私、諦めたんだ。先輩のこと。


 と。


 途端に、彼女の指が止まった。

 顔を上げ、私を凝視する。その表情は驚愕に彩られていた。


「え、待って、ちょっと待って。何? 今、なんだって?」


 だから、諦めたの、と繰り返す。


「嘘。だって……え? なんで?」


 なぜと訊かれても、言葉の通りだ。

 私は諦めたんだ。先輩のことを。あの物語と一緒に、その想いも燃やし尽くしたのだ。


 彼女は眉を寄せ、開いていたPCをぱたりと閉じると、すっと立ち上がった。


「ちょっと、出よう。こっち来なさい」


 えっ? と彼女を見上げると、疑問を感じる暇すら与えられずに、私は彼女に手を引かれて教室から連れ出された。


 そのままずるずると彼女に連れられ、学部棟に休憩室として設けられている一室に押し込められる。二人きりの空間で「何があったのか話しなさい」と詰め寄る彼女の剣幕に圧され、私は洗いざらいを喋った。


 自分と先輩を重ねた物語をずっと執筆していたこと。それを先輩に読んで貰ったこと。一度目はこっぴどく評価されたこと。その指摘を受けて一から書き直したこと。だけど二度目もあえなく斬り捨てられたこと。私では彼に想いが伝えられないと悟ったこと。そして最後に、その物語を跡形なく消し去ったこと。


 正直、完結するまであと少しという段になって、あの決断をするのは、勇気が要った。でも、あれは先輩への未練を断つために必要なことだった。そんな葛藤まで含めて、全てを、余すことなく伝えた。


 神妙な面持ちで私の話を聞いていた彼女は、私の話が終わった瞬間、すうぅ、と大きく息を吸ってから、「はあぁぁぁ~」と目の前で盛大な溜め息をお見舞いしてくれた。柑橘系の甘い香りが鼻腔を掠める。


「あんたさ、変わってるとは常々思ってたけど、只の馬鹿なんじゃないの?」


 と、彼女は言い切った。

 本心から言っているのだろうな、というのが分かるほど真剣な表情で。

 馬鹿って、と反論を試みようとするが、続く彼女の言葉に遮られる。


「だってさ、それじゃ結局なにも伝えてないのと一緒じゃん。話を聞いた感じ、付き合ってた事実はないんでしょ? まだ振られたわけでもないし」


 うん、と頷く。

 でも、先輩に想いを伝える方法はそれしかなかったんだ。

 そんな私の言葉を、彼女は「んなわけないじゃん」とあっさりと否定した。


「名前を呼んで、目を合わせて、面と向かって言うの。『あなたが好きです』って。そんな当たり前のことすらしないで、諦めたですって? あんたほんと、馬鹿だわ」


 また馬鹿と言われたが、今度はぐうの音も出ない。そうか……いや、そうだ。その通りだった。


 先輩には、そんな当たり前は用を為さないと思っていた。先輩に対して、そんな当たり前が通用すると考えてすらいなかった。正論すぎて言葉を失う。


「ついでに言うとあの亀筆先輩も馬鹿よ。馬鹿ばっか。これだけ慕ってくれる可愛い後輩が書いてきた小説に、なんでそんな糞真面目な正論ぶつけてんの? あたしはあんたの小説読んでないから分かんないけど、書くことの辛さは分かるもの。物語を書いてたら、楽しい時もあれば、悩んで苦しむ時もある。人がそうやって必死で書いたものに、どうしてそこまで言えるのかしら! 男ならちょっとは気ぃ遣えっつーの!」


 彼女は足を踏み鳴らしながら、「行間くらい読みなさいよ! 文芸部員でしょうが! ああもう! 腹立つ!」と声を荒げた。


 こんな風に怒りを露わにする彼女は見たことがないので、私は戸惑う。彼女はいつも|(時に小憎らしい)微笑みを浮かべる穏やかな気性の女性だ。その彼女が、怒髪天を突く勢いで怒っている。天変地異の前触れかもしれない。


「……あ、ご、ごめん。泣かないで」


 えっ、と喉を鳴らして、頬に触れる。そこは言われた通り、濡れていた。


 あれ……?


「やめてよ、あたしがイジめてるみたいじゃない。そんな顔させるつもりじゃなかったのに」


 これは、違うの、ごめん、大丈夫だから、と取り繕うように言ってみるが、すでに声も若干枯れている。言おうとしたその言葉も、半分くらいは音にならなかった。一度自分の涙に気付いたら、どうにも溢れ出して止められなくなってしまっていた。


 原因は分かっている。ここまで抱え込んでいた|先輩への想い≪もの≫を、初めて他人に打ち明けた反動と、それから……たぶん、私の為に怒ってくれている彼女の優しさに触れたから。


「よしよーし。いい子だから泣き止めー」


 ついにしゃくり上げ始めた私をその胸に抱き、頭を撫でながら、彼女は幼児でも相手にするような声色で私を宥めた。扱いに不当を感じる。


 だが、その暖かい胸の中で、私はしばらくの間、文句を言うことも、涙を止めることも、出来なかった。



*****



 彼女の胸を借り、落ち着くまでしばらくかかった。


 涙が止まって、喉の奥の痛みが引いてから、私は彼女の体からそっと離れた。もうだいじょうぶ、ありがとう、と気まずい心持ちで彼女を見上げる。そこにはいつも通りの、温かな微笑を浮かべる彼女の顔があった。


「いいよ、気にしないで。あたしの懐は海より深いからね」


 ふふーん、と彼女は胸を張る。突き出した胸の一部、彼女の着る紺色のセーターは、私の体液のせいで黒く湿っているが。とても申し訳ない。彼女の軽口に無理して笑ってみせたが、気まずさは拭いきれなかった。


 居たたまれなくて、ごめんね、とつい口が動く。謝罪を聞いても、彼女は微笑みを絶やさないままだった。


「だから気にしないでってば。上着なら洗濯すればいいしさ。それよりあの亀筆先輩よ。女を泣かせるなんてマジさいてー」


 相変わらずの言い様を聞いて、返事に窮してしまう。彼女は結構、先輩のことをあけすけに罵る。私が勝手に泣いただけだから、と弁明すると、彼女は「この期に及んでまだ庇うんだー?」と胡乱げな視線を向けた。


 そりゃ、好きな人だもの。庇うよ。


 と口にしそうになるが、『諦めた』と彼女に伝えた手前、掌を返すようなことは言えなかった。私が言い淀んでいると、彼女は「ま、でも、諦めたんでしょ?」と私のその意思を確認するようなことを言った。私は反射的に頷きを返した。


「それ、正解かもね。あんた小動物っぽくて可愛らしいんだから、あんな堅物で不愛想で後輩泣かせる先輩に拘る必要ないわよ。もっと良い男見つかるって」


 彼女の言葉に、私はむう、と唇を尖らせる。


 先輩より素敵な男性なんていないもん、と。


「あーはいはい、ご馳走様。こりゃ重症ね」


 彼女は肩を竦めて笑った。


「あんた、全然諦められてるように見えないわよ」


 う、と喉を詰まらせたような音が口から飛び出す。


 そう、そこなのだ。私は先輩を諦めた。断腸の想いで私と王子様の物語を焼き払い、すっぱりと諦めた。諦めた……つもりだったのに。先輩を悪し様に言われるとむかむかする。ありったけの言葉で否定したくなる。どころか、先輩の話題が出ただけで、今すぐにでも先輩に会いに行きたい。そんなことすら思っている。これで『諦めた』など、どの口で言ったんだ。


「だったらさ、さっさと『好き』って言ってきなよ。諦めるのはそれからでも遅くないんじゃない? 連絡先は知ってるんでしょ? ほら、今すぐ『会いたい』ってメッセージ送ろう」


 い、今から? いや、それは待って。こ、心の準備が。お化粧も崩れてるし。


「そんなのあたしが直したげるから。ほらほら、さあさあ」


 なんとか猶予を貰えないかとスマホを持つ手をもたつかせながら足掻いてみた。しかし、「ああもう、じれったい」と宣う彼女にスマホを分捕られ、タタタと素早いフリックで文字を入力され、「送っといたから」と事も無げに告げられてから返される。


 メッセージには、


『せんぱぁぃ?

 お暇ですかー????

 会いたいですぅ?????』


 というログが残っていた。誰だこれは。私はこんなキャラじゃない。こんな砕けた調子の文面を先輩に宛てたことなんて一度もないんですけど。ゆらゆら揺れる?の絵文字が妙に腹立たしい。というか多すぎる。


 やっぱり彼女はちょっと性格が悪い、と私が思ったのも仕方がないと思う。


「よし、メイク道具はカバンの中にあるから、取りに行こ」


 と、来た時と同じように手を引かれ、私たちは休憩室を後にしてサークルの教室へと向かう。途中、先輩から返信が来た。


『わかった。どこに行けばいい?』


 とのこと。文面へのツッコミは無い。ちょっとくらい違和感を覚えてほしかった。


『図書館のいつもの場所で待ってます』


 と返信した。

 ややあってから、『了解した』と返ってきた。


 簡素で平坦なやり取り。私と先輩の間に過度な装飾は要らない。というか、あの?が乱立したメッセージは明らかに装飾過多である。胸焼けを起こしそうだ。


「うむうむ。無事に約束を取り付けられたようで何よりじゃよ」


 ふと隣を見ると、彼女が顔をにやつかせながらスマホを覗き込んでいた。堂々プライバシーの侵害である。まぁ、彼女には全て曝け出してしまったから、今更隠す気も起きないけれど。


 ところで、なぜ急にお爺ちゃんキャラ?


「お爺ちゃんじゃない。仙人。ほら、漫画とかでよくあるじゃん。『あの子はワシが育てた』ってやつ。まさにあたしは今あんな心境になっておるのじゃ」


 なにそれ、おかしい、と私は笑う。今度は自然に笑みを作れた。あれだけ沈んでいた気分が嘘のようだ。彼女には今日、すごく救われた。


「いや、あたしに言わせたら、おかしいのはあんたらのほう。実際『は? あんたらまだ付き合ってなかったの?』って感じだし。今日はそこが一番の驚きだった」


 そんな悪態を突く彼女に、私はありがとう、と小さく返した。彼女は「えっ、このタイミングでお礼?」と面食らっていた。


「はは、やっぱりあんた、可笑しい」


 そう言って、彼女はまた微笑んだ。とびきり可愛らしい、屈託のない笑顔だった。



*****



 先輩に会った。

 彼女に化粧を直してもらい、大学の図書館棟に行くと、いつもの席にすでに先輩がいたから、私は条件反射でそちらに近づいていった。


 年末の二度目の|試読≪告白≫の時に会ったきりだったから、少しきまずくなるかな、と思っていたら、先輩はいつも通りだった。顔を合わせるなり、「年末休暇中に面白い本を見つけた。ぜひきみも読むといい」と文庫本を手渡された。


 変わらない先輩の態度が嬉しくて、私も久しぶりの先輩との会話を楽しんだ。急な誘い文句(しかも人格が豹変しているメッセージ)を不審に思われていないかと思ったが、先輩は「ちょうど僕も暇を持て余していたところだった」と笑ってくれた。なんでこの人は、私が弱っている時に優しくなるんだ。そういうところがあるから、諦めきれないんだ。


 まぁ、やっぱり私の書いた小説は何も伝えられていない、ということが先輩のその態度によって証明されたわけで、少し物寂しくもあったが。でも、その点については私が意識しなければいいだけのこと。彼女の言葉を借りれば、『まだ何も伝えてないのと一緒』だ。これから、いくらでも伝える機会はある。そう思うだけで、随分と心が軽い。


 その後、ああだこうだという先輩による物語の説明が始まり、そして読む本は、やっぱりとても面白く感じた。先輩は要約の才能がある。的確に物語のツボを押さえ、読み進めるワクワクを高めてくれる。それでいて、いつか危惧したようなネタバレに繋がることはないのだから、これはもう才能といって差し支えないだろう。


 二人向かい合っていつものように本を読んでいる最中、「そういえば」と先輩が切り出した。


「校正が必要なら、いつでも声をかけてくれ」


 その言葉に、体温を奪われたような感覚に陥った。


 何に、とは言われなかった。言われなくても、何のことかは瞬時に分かった。私の小説のことだろう。その申し出を喜ぶべきなのだろうが……込めた想いが伝わらないのなら、先輩に読んで貰う意味はないのではないか、と思ってしまい、なんだか無性に遣る瀬無い。


 それに……私はもう、あの小説≪子≫を自らの手で燃やし尽くしたのだ。先輩に読んで頂くことは、二度とない。


 想いを打ち明けるタイミングを計っていた私の、舞い上がった高揚感が、すうっと冷めていく。


 私は感情を隠した曖昧な笑顔を作り、機会があればまたぜひお願いします、と頭を下げた。先輩は「ああ」と鷹揚に頷いた。


 それから私は言葉少なになって、元々寡黙な先輩との会話は弾まなかった。別れ際の先輩は、どこか訝しげに私の様子を窺っていた。「体調が悪いのか?」と訊かれ、女の子には色々あるんです、と私が返すと、先輩はそれっきり押し黙ってしまった。


 ……結局、『あなたが好きです』という言葉は、私の口から終ぞ出ることはなかった。今はこれでいい、先輩が普段通りに接してくれただけでいい。そんな言い訳めいたことを思いながら、自分を納得させた。先輩との『さよなら』までの刻限は近いというのに。



 先輩と別れて、ふらふらと自宅に帰った私は、倒れこむようにベッドに身を投げた。天井を見上げながら、ぼうっと考える。


 ……ああ、なんだ。私は、臆病なだけじゃないか。


 せっかく彼女に背中を押して貰ったというのにこの体たらく。自分が情けなくてしょうがない。だが、頭を過ってしまったのだ。『もし、音にした想いすらも伝わらなければ?』と。


 怖かったんだ。私には勇気がなかった。少々の期待すら持てず、胸に渦巻くのは黒々とした不安のみ。先輩と向き合わずに溜め込んだ想いを『書く』ことに始まり、『読んで貰う』なんていう遠回しな告白も、『好き』という想いを口に出さない日々も、今日の躊躇いも、はっきりとした『拒絶』を目の当たりにしたくなかっただけ。傷つくのが怖かっただけ。


 私は臆病者だ。直接的な表現を避けて、ずっと逃げてばかりいる。


 最初に先輩からの批評を受けた時もそうだ。先輩に読んで貰うのが怖くなって、逃げるようにネットに頼った。あの投稿サイトに……。


 投稿サイト……?


 私ははっとして、ベッドから飛び起き、すぐさまノートPCを立ち上げた。テキストファイルは既に消してしまったが、ネットに投稿したものはそのまま残っているのだ。


 このままにはしておけない。元データを燃やしたのだから、あれも燃やすべきだ。


 インターネットに接続し、投稿サイトのマイページに遷移する。すると、唐突な違和感に襲われた。


 あれ……?


 自分のページに、おかしな表示があった。『メッセージ』のタブに、バッジがついている。なんだろう、と思って、そこをクリックした。


 そして、それらは画面に映し出された。


『件名:再開待ってます


 最初の頃からずっと読んでましたが、いきなり更新が止まってびっくりしてます。今までこんなに間隔が開いたことなかったので。年末年始だしお忙しいのかな? 事情があるなら活動報告を更新してくれたら安心できるので、ぜひお願いします。

 続き、楽しみにしてますからね!』


『件名:主人公ちゃんピンチ!


 のままエタるなんて許すまじ。更新キボンヌ。とりまブクマ外すのは1ヶ月待ってからにするお』


『件名:はじめまして!


 いきなりメッセージは失礼かなと思いつつも、溢れる情動が抑えきれずに応援メッセージを送ります!

 先日ランキングで見かけて、最新話までノンストップで読み切っちゃいました!

 とても面白かったです! 王子様のツンデレが可愛すぎて何度も悶えました!

 でも、最新話でしばらく更新止まっててショック……。

 再開はいつになるんでしょうか! ぜひ書いてください! 応援してます!』



 この三件のほかにも、似たようなメッセージがあといくつか届いていた。

 そして、感想欄には、同じ趣旨のコメントが数えきれないほど残されていた。


『続きはよ』

『完結まであと少し? がんばって続けてほしい』

『主人公ちゃんには幸せになってほしい』

『ハッピーエンドまで止まるんじゃねぇぞ……』

『体調不良かな? 落ち着いたら更新再開してくださいね』


 ……。

 …………。

 ………………。


 それらを読んでいる間に、私の目端から頬を、温かい熱が伝った。

 視界が滲んで、文字が歪んで、途中から読めなくなった。


 ……ねぇ、先輩。


 こんなにたくさんの人が、待っててくれたんだよ。先輩には何も伝えられなかった物語だけれど。

 『続きが気になる』『楽しみにしてる』『いつまでも待ってる』って。たくさんの人が、言ってくれてるんだよ。


 ねぇ、先輩。

 私、続きを書いても、いいですか?


 主人公わたし王子様あなたが、幸せになる物語の、続きを。



*****



 先輩が、卒業した。


 あれからも何度か先輩と二人で過ごすことはあったが、結局私は、この胸を苛む想いを彼に打ち明けることはなく、秘めたままその門出を祝福した。同学年の――いや、私の親友である彼女は、「意気地なし!」と憤慨していた。どちらに向けた言葉だったのかは、この際置いておこうと思う。


 先輩はこの春、唯一の内定となった機械部品の製造・販売を手掛ける零細企業に就職した。営業部に所属して毎日あくせく走り回っているそうだ。


 実は私は、大学で会えなくなってからも、結構頻繁に先輩と会っている。大抵先輩の休日を見計らって私から連絡し、押しかけるような形だが。前回会った時には「執筆に割く時間がとれない」と嘆いていたのが印象的だった。


「はぁ? どうせ時間があっても書かないでしょ」


 私がそのことを伝えると、彼女は身も蓋もない評価を下した。やはり彼女は先輩と相性が悪いみたいだ。でも、同じサークルにいたのに彼女と先輩が会話しているところを見たことがないから、直接お話したら彼女の印象も良い方に傾くと思う。まぁ、先輩が卒業した今となっては、それも叶わぬ夢だけれど。


「で、あんたはどうなの? 今年度は書く?」


 問われたのはサークル誌のことだ。

 彼女らが昨年度必死に筆を滑らせたものは、無事完成し、年度末に図書館に一部を寄贈した。それからほどないというのに、すでに彼女は今年度の創作へと目を向けているらしい。四回生、つまり最上級生となり、責任感の強い彼女は今、周囲からの推薦でサークルの長となっているのだ。もちろん私も一票を投じたし。さもありなん。


 私は、うーん、と唸った後、掌編くらいなら、と答えた。


「ほんと!?」


 彼女は目を輝かせて、「じゃあ早いとこテーマを考えないとね!」とうきうきした様子を見せた。


「……といっても、毎年フリーテーマみたいなものだけど。みんな自由すぎるのよねぇ。得意分野もてんでばらばら。先輩たちはどうやってこんなの纏め上げてたのかしら。どうせ手綱なんて握れやしないんだから、いっそ最初からテーマなんて設けないほうがいいのかも」


 大枠だけ決めて、あとは自由でいいんじゃないかな、と答える。彼女も「やっぱりそうかなぁ」と不承不承に応じた。


「あの亀筆先輩みたいに書かない輩が出ないことを祈るわ」


 む、と私の眉間に力が入る。

 先輩はたしかに、サークル誌への寄稿を断念した。だが、彼は卒業ギリギリまで就活をしていたし、しょうがないと思う。という旨を伝えると、彼女は呆れ顔を見せた。


「あんた、相変わらずあの先輩のこととなると必死になるよね」


 それもしょうがない。もうそういう風になっちゃってるのだ。


「で、未だに諦めきれずに会ってると。煮え切らないなぁ、もう」


 う、と言葉に詰まる。


 確かに、想いを伝えられないままに先輩が卒業した時は、これが私達の道の別れ目になると思っていたが、そんなことはなく、先輩は変わらず会ってくれている。そのことだけでも、前に進んだと言えなくはないのではなかろうか……と思ってしまうあたり、社会人となった先輩と比べて私のほうは何も変わっていないようだ。


 でも、これでも私だって以前より積極的になっているんだ。


「へぇ、どんな風に?」


 実は、と私は口を開く。


 ある休日に先輩に連絡を取ってみると、まだ慣れない仕事のおかげで自宅に帰るとくたくたで、料理や洗濯、掃除がおざなりだという。それを聞いた私は、ここぞとばかりに自分を売り込み、許可を得て先輩の家に頻繁に通うようになった。先輩の新居は、幸運にも私のアパートからそれほど距離がない。


 主に部屋の掃除や料理をする家政婦的な働きだけど。毎月のように何冊か増えていく書籍の整理が一番の仕事だ。


 つまり、アプローチの仕方を変えてみたのだ。


 どうやら私に文才はない。自分の作品を通して先輩に想いを伝えることは出来そうにもない。だが、それ以外の先輩の好み――本を読むのが好きなこと――は、私にだって条件を満たすことは出来る。それから、もうひとつ――先輩のことを理解すること――も、傍で過ごすうちに、いつか可能になるかもしれない。いや、してみせる。その前に愛想を尽かされないことを祈るばかりだ。


 今のところ、先輩は私が押しかけても迷惑とは思っていないらしい。むしろ、たまに「いつも世話をかけてすまない」と言ってくれるから、『便利な家政婦さん』くらいには思ってくれていることだろう。概ね順調で善き哉善き哉。


 そこまで伝えると、彼女は、「それもう同棲みたいなもんじゃないか。はやいとこくっつけ」と急かしてきた。


 わ、わかってますよぅ。


「どうだか。あんた、押しが強いクセにいざって時にすぐ逃げ腰になるから」


 彼女は吐き捨てるように言った。一切の微笑もなく。早く区切りをつけないと彼女にも愛想を尽かされそうである。


 でも、先輩に想いを伝えることは、いまだに出来ていない。いざ先輩と向かい合うと、どうしてもあの一言を飲み込んでしまうのだ。それに、近くにいられるだけで満足できてしまうという純然たる事実の前に、のらりくらりと現状の維持に努めている自分がいる。


 でも、たまに……そう、本当に、たまに。


 先輩の仕草が、物語の王子と重なることがある。もちろん、王子かれは先輩なのだから、その姿が垣間見えるのは当たり前なのかもしれない。


 だけど、ふと、先輩が寄せてくれているのではないか、とも思ってしまう。私の書いた理想の王子様に。


 ねぇ、先輩。

 私、少しは期待してもいいのかな?



*****


 ――「きみが、好きだ。これからもずっと僕の隣にいてほしい」


 常に冷静を絵に描いたような王子の顔が、羞恥に染まっていた。私もその熱に当てられて、頬が火照った。


 至近距離で見つめ合いながら、私は無理矢理はにかんだ。


「私のほうがずっと好き。この先、嫌がられても隣に居るから」


 目を閉じる寸前に見えたのは、眉根を寄せる王子の顔。


 瞼の裏の暗闇に揺蕩う時間は、わずか数秒。


 唇に柔らかい感触がそっと触れて、そして離れた。


「愛している」


 目を開いた瞬間に、ぎゅっと抱き寄せられる。遠慮がちに包み込む温かさが、とても愛しい。


 異世界に来て、拠り所を求めた。帰る方法を探したこともあった。それがないと判明し、沈んでしまった。自分には居場所がない、と悲嘆に暮れた日もあった。


 けれど、私はここにいる。

 いつも寄り添ってくれたあなたが、今も傍にいる。


 私の居場所は、あなたの隣。

 これからも、ずっと――。



 更新を再開してから三月みつきほど経った今日、長く綴ってきた物語が、終焉を迎えた。紆余曲折はあったが、思い描いた結末を迎えられた。


 更新の再開にあたり、全てのコメントに目を通し、そして返信する作業に没頭し、更新を再開したのは、先輩の卒業まであと一月を切った頃だった。


 そして、ついに今日の更新で、終わった。


 最後の一話を投稿した瞬間、私はとても複雑な気持ちになった。

 解放感と脱力感、達成感と喪失感があべこべに入り交じった、名状しがたい感情。


 でも、それはすごく大事なもののような気がした。甘んじて受容すべきものだ。


 私は、少しの逡巡を経て、活動報告に一言を綴ることを決意した。


 この自分の感情を残しておきたかった。何より、支えてくれた人たちへの感謝を一番に伝えたい。そう思って、キーボードを叩き始める。


 それを書いている途中で、先延ばしにしている問題があったことを思い出した。先輩のこともそうなのだが、それ以外にも、もうひとつ。


 それは、自分のページのメッセージボックスにある『書籍化推薦作品への決定のお知らせ』と題された一通のメッセージ。


 そう、私の作品は、書籍化の打診を受けたのだ。夢かと舞い上がる気持ちを抑えつつ、騙されているかもと疑って併記された出版社名を検索エンジンにかけてみたが、既にいくつか投稿サイトの小説を書籍化した実績のある出版社らしかった。


 完結の直前に送られてきたメッセージ。だが、二つ返事は出来なかった。


 私は、『もうすぐ作品が完結する見込みなので、その後改めてお返事させてください』と返信した。どうやら先方も少しくらいなら待ってくれる気があるらしい。


 私が書いた物語が出版される。それはこの上なく嬉しいこと。身に余るほどの光栄だ。だが、そこに至るには、私にはクリアしなければならない重大な問題がある。


 お伺いを立てねばならないのだ。

 唯一の、神様わたしを咎められる人に。



*****



 期待、不安。


 私が自分の行く末を案じている時、大抵はこの二つの感情に心を支配される。割合は1:9といったところ。いつも大体、不安が勝る。


 期待は少々、不安が大半。


 私は、自分にそれほど自信がない。だから、自分を誤魔化すように不安を肥大化させて、そして少々の期待を打ち砕かれないように安全弁を設ける。いつからか、そういう癖がついている。


 今も、そうだ。


 私の前に、神妙な面持ちの先輩が佇んでいた。その表情から察するに、少々の期待すら、持てない。積乱雲のような不安が折り重なり、胸の中に雷鳴が轟く。


 それでも、私は先輩に伝えた。だって、彼には私を止める権利がある。あの小説を私に書かせたのは、彼。彼がいなければ、あの物語は生まれなかった。だから、私には彼の意志を確認する義務が、ある。


 以前に読んで貰った小説が、とある出版社の方の目に留まったらしく、書籍化の打診を受けている。


 という旨を、震える声で伝えた。


 しばらくの沈黙の後、ふう、という溜め息のような吐息がその口から零れた。


 先輩は、静かな怒りを瞳に滲ませているようだった。


「……やめてくれ」


 強めの語気で言われ、私は怯む。


 やはり、こうなった。また言われるんだ。


 『意図が読めない』と。

 『あんなものは小説ではない』と。

 『燃やしてしまえ』と。


 しかし、先輩が続けた言葉は、私の予想とはかけ離れたものだった。


「アレを世に出すなんて。恥ずかしすぎる。自分たちがひたすらにいちゃついているだけの小説を世に出そうなんて、きみは馬鹿なのか?」


 耳を疑った。辛辣な言葉が紡がれると思っていたのだ。なのに、先輩は照れ隠しでもするように頬を掻きながら、そう言った。


 自分たちが? と、先輩の言葉の中で引っかかった部分が、つい口をついて出る。


「あ、いや。違う。今のは、違うんだ」


 先輩はしどろもどろになって狼狽え、「そういう意味じゃなくて」とか「今のは言葉の綾で」とか言い訳めいたことを口にする。


 耳まで真っ赤にする彼を初めて見て、本を語る時の彼の表情とは違うけれど、この顔にさせたのが私、ということに、なんだか優越感を感じた。私、ちょっとだけSっ気があるのかも。


 余裕を取り戻した私が、いつからですか? と訊くと、先輩は少し項垂れて、「……初めて読んだ時から」とぶっきらぼうに答えた。その答えを聞いて、私は思いきり噴き出した。


 なぁんだ。意図なんて、最初から伝わっていたんじゃないか。『意図が読めない』なんて、どの口が言ったんだか。私の『好きです』という想いは、口に出すまでもなく、彼に伝わっていたのだ。


 この後、すでに投稿サイトのランキングに掲載されているほどに、世に出た後の祭りであることを伝えた。先輩が|出版を認める≪折れる≫まで、さほど時間は要さなかった。


 そして最後に、私は彼の名前を呼んだ。


 あれほど胸に渦巻いていた不安は欠片もない。

 あるのは、胸を膨らませる大きな期待のみ。


 私を真っ直ぐに見つめる彼に、面と向かって、私は言った。


「あなたが好きです」


 と。


 先輩は顔を真っ赤にしながら、「ありがとう。僕もきみが好きだ」と言って、私を抱き寄せた。


 先輩は私の期待に、最高の形で応えてくれた。

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