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「意図が読めない」


 私が生まれて初めて書いた私小説――つまりは処女作――の冒頭から書きかけのところまでを読み終えた先輩が最初に放った言葉が、それだった。

 大学の文芸サークルに入って一年ほど経った頃だ。


「主語が見えない文章が多い。文脈がところどころちぐはぐだ。擬音を多用しすぎている。同じ形容詞や動詞、副詞が頻出する。情景描写が少なすぎる。登場人物の人格が突然変わる。視点が右往左往している。時間経過の概念が掴みづらい――」


 その後もつらつらと、ダメ出しが出るわ出るわ。

 私はそれを聞いている間、純潔を無理矢理に散らされたような気分だった。処女作をこき下ろされたのだから、似たようなものだ。実際にはまだ一度も経験がないので、あくまで想像ではあるが。

 先輩は無限に続くかと思われる酷評をこう締めくくった。


「――何より、主人公に感情移入できない」


 それまでの指摘はどれも的を射すぎていたのでぐうの音も出なかったけれど、これに関してだけは、私は反論した。


 先輩は男性ですから、主人公の女の子に共感できないのも無理はないと思います、と。


 すると先輩は、冷めた目つきで私を見据えた。


「性別は関係ない。男性だろうが女性だろうが、読者は読者。それ以上でも以下でもない。きみが読み手を選別するな。衆目に晒すのであれば、誰の目に触れても恥ずかしくない作品を書け」


 思わず私はむっとする。

 衆目に晒すも何も、人目に触れたのは先輩が『はぢめて』である。商用目的で書いたわけではなく、現段階ではただのサークル活動の延長の私小説であるのに、なぜそこまで非難されなければいけないのか。


「乱雑なだけで作意不明な文章は、目に毒だ。そのようなモノは、四〇〇字詰めの原稿用紙に書き写して燃やしてしまえばいい」


 先輩は私のノートPCを閉じると、片手で大雑把に手渡して歩き去った。


 ……原稿用紙、買って帰ろうかしら。


 と、その後私は大学生協に赴いて本気で悩んだ。



*****



 私が書いて先輩に見せた小説は、大型小説投稿サイトで一定の流行を得ている、いわゆる異世界トリップものだ。


 主人公の女の子が、ある日突然異世界に迷い込むという、至極ありきたりな内容。書き出しは『私はどこにでもいる普通の高校生』という、こちらも至極ありきたり。ありきたりすぎて、携帯小説であれば一行目を読んだ瞬間ブラウザバックする書き出しだ。自分で言うのもなんだが、惹かれる要素がまるで見当たらない序文となっている。


 一応ジャンルは恋愛ものを想定している。女子高生と異世界の男性たちとの甘々ラブコメディを想定している。想定に想定を重ねた結果、あまりにも非現実的な内容と化した。


 まず、異世界入りする理由が『なぜか地面にぽっかり開いていた落とし穴に落ちた』だもの。先輩の言った通り乱雑で作意不明だ。『不思議の国の何某』のエピゴーネンと言えば聞こえはいいが、あちらは童話であり、登場するキャラクター達もどこかメルヘンチックで、作品全体が幻想的な世界観を持つため、現実とは一線を画した創作物として理解されている。私の小説の場合は、なまじ現実的な登場人物ばかりを描いているために、違和感が大きい。たったそれだけで異世界に行けるのなら、現代を生きる皆様はこぞって落とし穴へと落ちる事だろう。


 その後の展開といえば、異世界に迷いこんだはずなのになぜか無駄にポジティブな主人公、出会う男性がイケメンばかり、しかも漏れなく主人公に惹かれるというご都合主義のオンパレード。紛れもなく駄文である。


 自分でも、異世界の一国の王子様が現代の女子高生に懸想するなんてあり得るのだろうか、と思いながら書いた。それでも世の恋愛脳の女子たち(私含む)には一定の需要があるさと心の中で言い訳しながら書いた。溢れ出る妄想を思うまま形にした。してしまった。その結果が先輩の反応だ。


 私はアパートに帰ってノートPCを開き、先輩が貶めた私小説を自分で読み返していた。改めて自分で読むと、これはとてもじゃないけれど、他人に見せられるような内容ではなかったと反省する。良くない形での自己表現欲求の表出だ。よほど日頃の鬱憤が溜まっていたのかもしれない。昇華させた結果とんでもないモノになっている。


 耳元で甘い愛を囁くイケメンとか、主人公を巡って対立するイケメン達とか、獣性を露わに主人公を押し倒すイケメン(描写はソフト)とか。乙女の欲望が爆発しすぎている。幸い、先輩の言ったように私の描写が拙いのでそこまで過激とは言えないが、それでもこんなモノを自分が生み出し、それで先輩のお目汚しをしたなんて、恥以外の何物でもない。


 一番の汚点は、主人公が最初に出会う王子様の容姿や性格が、他でもない先輩をモデルとしているということである。言ってみたら、先輩がした処女作こき下ろし(レイプ)よりも、よほど強姦に近い。冷静に見ると、ストーカーないしはヤンデレめいた発想である。


 しかも現在の構想では、最終的に主人公とこの王子様が結ばれてハッピーエンド、とする予定である始末。まぁ、他にも多種多様なイケメンが登場しすぎて収拾がつかなくなりつつあるから、その点については多少誤魔化しは効いていると思われるが。


 こんなものは、先輩の言に従って、いっそ燃やしてしまったほうがいい。原稿用紙に写すのはくたびれそうなので、デスクトップのダストボックスにそのままバーンアウトだ。


 だが、マウスを動かし、テキストファイルをごみ箱の上にドラッグしたところで、胸の奥がツキリと痛んだ。なぜだか分からないけれど、視界が滲んだ。


 いや、理由なんて分かりきっている。自分がこれほど打ち込めたものは、これが初めてだったからだ。書いている間は、日常の何もかもを忘れて書くことだけに集中していた。楽しかったのだ。自分の想像が形になっていく。形にしていく。その作業が、とても楽しかった。だから私は、この()を燃やしてしまうことを、躊躇っているのだ。


 もう少しだけ……。


 と、そう呟いてから、私はテキストファイルを元の場所に戻した。そして、もう一度開いて、徐にキーボードを叩き始める。


 私は先輩に言われたことを思い返しながら、書いた文章の推敲を始めた。やらなければいけないことは、非常に多い。


『主語の明確化、文脈の整理、擬音の削減、形容詞や動詞の言い換え、情景描写の加筆、登場人物の性格の固定と視点の固定、適切な時間の描写――』


 だが、ダメと言われたのなら、直せばいい。直さなければいけない。直してあげられるのは、私だけだから。


 この日の私は、ディスプレイのブルーライトを瞳に浴びながら夜明けを迎えた。



*****



 あれから、一年が過ぎた。


 大学に通いながら、私は寝る間も惜しんで私小説と向き合い続けた。そんな生活が、もうかれこれ一年続いている。せっかく大学に入ったんだから、どこかサークルに所属してキャンパスライフを満喫したい。そんな浅慮を多分に含みながら、ひょんなことで選んだ文芸サークルだったが、今やその創作活動が生活の主軸になっていることに自分でも驚いている。


 手前味噌になるが、先輩のご指摘を受けた私の作品は、あれから一年が経った今、それなりに見られるものになったと思っている。書いた部分を徹底的に見直して、現在は物語の続きを執筆中だ。


 だが、このことは先輩に話していない。あのお目汚しからかなりの時間が経過したが、再び見せるのは勇気が要る。一度、「この前読ませて貰ったアレはどうしたんだ?」と尋ねられたが、ハードディスクの中のどこかで眠りについてます、とお茶を濁しておいた。先輩もそれ以上何も訊いてこなかったので、さして興味があったわけでもないのだろう。


 私のことよりも、先輩の創作活動の進捗も気になったので問いかけると、「構想は八割方練られつつある。これからアイディアを形にしていく」と答えた。先輩が書く物語は、私などが書く駄文よりもよほど高尚なものなのだろうな、と思った。いざ読ませて頂いた時に、理解できるか心配である。


 さて、先に言ったように、いくら私の小説が生まれ変わったとはいえ、先輩に再び目を通して頂くのは恐ろしい。もちろん、先輩にもう一度読んで頂いて、賞賛を頂けるのであれば願ったりなのだが、またあの辛口の先輩に突撃するのは憚られるものがある。今度ぼろくそに言われたら、二度と立ち直れないと思う。私は学習したのだ。先輩に読んで頂く前に、叩き台のようなものが必要だ。


 サークルに所属する他の方たちは使えない。すでに先輩はこの小説を過去の物と捉えていらっしゃることだろう。その状況下で、まかり間違ってこの小説の存在を先輩のお耳に入れられたら困る。いつか二度目に読んで頂く時に、『先輩のご指導を受けて、こんなに変わりました』と胸を張って自分で打ち明けたい。それに、読ませた人から王子様のキャラクターのモデルについて言及されてはたまらない。改稿を経ても、王子様のモデルは先輩のままだから。そこは譲れない部分だったのだ。許してほしい。


 ということで、他にどこか他人から評価を頂ける場所がないかと思案し、真っ先に思いついたのが大型小説投稿サイトである。私は思い立った当日に会員登録をし、書き溜めた小説を読みやすい文字数に区切って、一日一話ずつ投稿し始めた。


 期待は少々。

 もしかしたら、面白いと言ってくれる人がいるかもしれない、と。


 不安が大半。

 先輩と同等かそれ以上に肥えた目をお持ちの方々から散々に言われるかもしれない、と。


 私の期待と不安とは裏腹に、私の投稿した小説には、誰からの反応もなかった。褒められるでも貶されるでもなく、ノーコメント。PV数は堂々の(ゼロ)。そもそも誰にも読んでもらえてすらいない。私はネットの海の広大さを痛感した。



*****



「身近な人物をモチーフに?」


 彼女の鸚鵡返しに、私はこくこくと頷いた。


 私はサークルで数少ない同学年女子である彼女に、ある質問をした。それは、小説の登場人物のモチーフとして、ごく身近な人物を採用するのは是か否か、ということだ。ネットを利用しても暖簾に腕押しのような手応えであったので、当たり障りのないと思われる範疇で彼女を頼ることにしたのだった。実際に私の子を読んで貰うことは精神衛生上よろしくないが、これくらいならいいだろう。


 私は彼女の答えを、一言一句逃すまいと身構えた。


「あたしはしたことないかな。でも、意識せずに書いてて後から読み返すと、『あ、このキャラあの人に似てる』って思うことはあるかも」


 彼女の口が紡ぎ出した言葉に、少しだけ安心した。

 だが、私の小説に出てくる王子様は偶然の産物ではない。完全に確信犯である。その場合はどうなのだろう。


「まぁ、アリだとは思うよ。あくまでモチーフでしょ? 本人ってわけじゃないし、キャラが立ってるなら、物語の一要素としては十分に価値があるんじゃない? 自分で書く小説の中でなら、あたしらは神様になれるんだよ。神様がどんなキャラクターを作ったって、誰も咎めらんないって」


 目からウロコな意見だった。神様。そうか、そんな考え方もあるのか。

 感心するあまり、へえぇ、と気の抜けるような声が出た。


「あ、けど、仮にそうした場合、さすがに本人に読ませるのは酷だからね? それだけはしちゃだめだよ? 肖像権だの著作権だのってうるさい時代だし、その人だけは神様を咎められる人になっちゃうから、ね」


 急所を抉られるような言葉を付け加えられ、どくりと心臓が跳ねた気がした。


 だが、先輩は私を責め立てるようなことはしてこなかった。辛辣なコメントは頂いたが、それはあくまで私の小説に対しての正当な批評だ。書いた私に対するものではない……はず。咎められるなら、もうとっくにそうされているはずだ。


 眉間に力を入れて唇を結んでいると、目の前にいる彼女も難しい顔をしていた。如何しましたか、と問うてみる。すると、彼女は困り顔のまま答えた。


「いや、そういうことを訊くってことは、書いてるんだ、小説、って思って。あたし、あんたはサークル(うち)の活動に興味がないと思ってたから」


 言われた意味が分からず、私は首を傾げた。


「彼氏と一緒に居たいだけなのかなーって」


 彼氏? 誰に? 私にか? 私に彼氏なんていない。いたこともない。


 そのような風説を流布したのはどこのどなたか、と尋ねると、彼女は「あれっ? 違うの?」と素っ頓狂な声を上げた。


「いつも飼い主と体をすり寄せる小型犬みたいだから、てっきりそうなのかと」


 飼い主と小型犬……?

 いや、私にすり寄ってくる犬のようなお方など、いないはずだ。

 だから、これは彼女の勘違いであるに違いない。


「それにしても、あんたって話してみると意外と面白いね。言葉選びが独特っていうか、奇抜っていうか……。是か非か、とか、風説の流布、なんて日常会話で聞くとは思わなかった」


 彼女はそう言って、含んだような笑みを見せた。納得しかねる笑顔だった。


 むすっと頬を膨らませていたところで、からり、と教室のドアが開く。学部棟の廊下から姿を現したのは、先輩だった。


 私はその立ち姿を認めると、さりげなく先輩のほうへと近づく。ちょうど、先輩の小説の執筆状況が聞きたかったところだ。


 背中から、彼女が「ほら、そういうとこ」と投げかけた。


 ……あ、そうか。私が小型犬のほうか。納得。


 だけど、先輩は私の彼氏ではないのだよ。誠に遺憾ながら。


*****


 先輩はいつも、カバンにお気に入りの物語を二、三冊入れて持ち歩いている。

 サークルでも図書館でも、果ては大学の授業中でも、暇さえあればすぐにそのどれかを開いて読み始める。なかなか重篤な活字中毒患者だなぁ、としみじみ思う。


 けれど、私は本を読んでいる先輩も嫌いじゃない。先輩は本を読むとき、とても集中している。それこそ、私が正面からじっと見つめていたとしても、なかなか気づかない。つまり、先輩が本を読んでいる時は、公然と先輩を間近で見られる貴重な機会なのだ。嫌いじゃない。むしろ良い。とても。


 この日も私は、図書館の隅っこでぽつねんと本を読んでいる先輩を発見し、真正面の席を陣取った。なぜか先輩はいつも、6人掛けの机を一人で使っている。なかなかに他の学生の迷惑となる行動だと思うが、私としては好都合だからぜひとも続けてほしい。


 ちなみに、ご一緒していいですか、と一言声はかけた。相手の了解も得ずに付き纏っていたらそれはただのストーカーだ。私にもそれくらいの分別はつく。先輩は「ああ。構わない」と、開いた本から視線を逸らすことなく了承してくれた。本を読んでいる最中にお邪魔すると、先輩は大体こんな感じだ。


 先輩が持つ分厚い本の背表紙に書いてあったのは、私が知らないタイトルだった。私は文学に明るくないので、先輩の読むその本がどのような内容なのか、どれだけ有名な作品なのかは知らない。先輩が読む物語は、有名どころからマイナーなものまで幅広い。尾崎紅葉の「金色夜叉」、夏目漱石の「こころ」など、国語の教科書に載っていそうな私すら知っている有名どころから、無名と思しき作品、近年の文学賞受賞作品から、果ては書店の店頭に並んでいる新刊を手にしていることもある。


 草食系とか肉食系とかいう言葉があるけれど、先輩の場合は雑食系男子という称号がしっくりきそうだ。まぁ、ああいった表現は異性に対する態度の話であるから、読書への姿勢は関係ないけど。わたしへの態度であれば、先輩はがっつり草食系だと思う。たまにしか笑いかけてくれないし。


「きみは何も読まないのか?」


 そんなことを考えながら先輩を眺めていると、ふと先輩が顔を上げて私に尋ねた。私は、なにかおススメの本ありますか、と尋ね返す。先輩は少し思案して、「ちょうどいいのがある」と、鞄から一冊の本を取り出した。


 その本の表紙には、「ドグラ・マグラ」と書いてあった。なんというか、タイトルだけでも食傷気味になりそうな本だなぁ、と思った。夢野久作。私でも知ってる。これ、日本三大奇書のひとつでしょ?


「読んだことはあるか?」


 いいえ、ないです、と答えた。知っているのはタイトルまで。中身についてはまったくの白紙状態。私の読書遍歴なんて、そんなものだ。


「正否入り混じった意見がある物語だけあって、なかなか興味深い内容だ。別にどちらかの立場に依って考察する必要はない。だが、一度読んでおくことをお勧めする」


 私はこくりと頷いて、渡された文庫を開いた。表紙のタイトルの後ろについていた≪上≫という文字に若干怯みながら。


 これ、≪下≫まで読まなきゃいけないパターンかなぁ……。


「登場人物の言動に惑わされないように。特に主人公には気を付けろ」


 先輩はそんなアドバイス? を告げると、再び自身の持つ分厚い本に目を落とした。なるほど、そこに気を付ければいいんですね。了解です。


 私も開いた本に視線を落とす。


 期待は少々。

 私は先輩ほど常に活字に餓えているわけではないし、先輩のように物語の構成や文章表現に一家言あるわけでもない。けれども、先輩の助言を聞いた後にその物語を読むと、一人で予備知識なく読む時と比べて、なんとなくその小説への理解度が深まるような錯覚を得る。だから、この小説もきっと面白いのだろう、と。


 不安が大半。

 謎の巻頭歌を経て、書き出しは「……ブウウ――ンンン――――――ンンン……」だった。この小説、大丈夫?


 だが、理解度が深まるというのは錯覚ではなく、実際そうなのだろうな、と思う。先輩が、見るべき点、注目すべき表現などを予め教えてくれて、そこに気を付けて読み進めていると、不思議なことにどの物語もとても面白く感じられる。私の読解力では到底気付けない細かなことにも気付かされる。おかげで最近、本を読むのが楽しくなってきた。まぁ、先輩のおススメしてくれた本にしか、食指は伸びないけれど。


 静かな図書館の隅に、(ページ)を捲る音だけが聞こえていた。私と先輩の読書の時間は、ゆっくり流れる。それがとても、心地良い。後から思い返すとあっという間のひとときだけれど、こうして過ごしている間は、とても安らいだ気持ちになる。


 私は文字を追いつつ、たまに視線を上げて、正面に座る先輩の顔をちらちら盗み見る。視線を本に落としたまま、不愛想な真一文字を引く唇が、とても艶っぽい。切れ長の目が細められていて、セクシーだ。


 その目が突然、大きく開いた。と思ったら、ばちりと視線が交わる。


 不意打ちである。私は慌てて、文庫に顔を埋めた。そこでは主人公が気でも触れたかのように高笑いしながら床を転げ回っていた。本当に大丈夫なのか、この小説。


 なんとか取り繕えたかな、と思い、恐る恐る文庫の角越しに頭を出した。先輩の目は再び細くなり、伏せられていた。既に自分の読書に戻ったらしく、ほっとする。


 だが、口角が上がり、頬に笑窪、口元に白い歯が見えた。滅多に見れない先輩の笑み。普段はむすっとした顔ばかりなのに、たまに花がほころぶように笑う。そのギャップに思わずときめいて、今度もあまり長く見ていられなかった。


 だから、不意打ちはやめてほしいって言ってるじゃない。


 あの分厚い本はそんなに面白いのだろうか。……あとで内容を聞いてみようかしら。


 この日はこんな風に、4コマ目の授業の直前になるまで、私は先輩とともに過ごした。


 先輩から借りて、数日をかけて読み終えた「ドグラ・マグラ」は、色々考えさせられる点がある物語だったけれど、やっぱり最終的には、面白かった。不安を感じたが、なんだかんだ楽しめたみたい。先輩(プラシーボ)効果である。


 ただ後日、あれが『読んだ者は精神を病む』との逸話がある小説だったことを知ったので、文庫を返却する時に、なんてものを読ませるんですかっ、とぷりぷりしてしまった。楽しめたこと、先輩にちゃんと伝わったかなぁ。


*****


「――でさ、その後の展開で少し迷っててね」


 サークルで使っている教室で、私は同学年の彼女と雑談をしていた。

 最近、彼女と話す機会が増えた。先日初めてまともに会話をしてから、なんだかたくさん話しかけられるようになった。学科は違うが、どうやら学部も同じだったようで、講義もいくつか被っており、隣の席に招かれて並んで座ることもある。


 なんでも、彼女は今、青春ラブロマンスなるジャンルの小説を執筆しているらしい。舞台は現代らしいが、私の書いているものと共通する部分もあって、色々参考にさせてもらっている。


 ただ、私に意見を求められても、彼女の満足するような答えを導き出せるかは自信がない。なにせ私の小説は、欲望と妄想を具現化した小説とは呼べないナニカだからな。色々破綻している。その点については先輩のお墨付きも貰ってしまっているし。


「引っ込み思案なヒロインだから、自分からっていうのも変かなーって思うし、かといって彼の方から動くのも脈絡がないし。あんたはどう思う?」


 私は少し考えて、第三者を動かしてみるのはどうか、と提案した。たとえば、ヒロインと彼の橋渡しをするような人物の登場。あるいは、その逆。それによって、物語も自然と動き出すのではないか、と。


 彼女は「あー、それいいね、そうしてみる」とにこやかに言った。


 その笑顔を見てほっと胸を撫でおろす。なにかアイデアのきっかけになれたのなら僥倖である。


「で、あんたの小説はどんな感じ?」


 私は、まだ人に見せられるような出来じゃないよ、これから形にしていくところ、と答えた。いつかの先輩を彷彿とさせる返答だなぁ、と我ながら思う。先輩も、他人に見せるのが恥ずかしくてあんなことを言ったのかな。だとしたら、大いに共感できる。


 彼女には恋愛ものを書いているということしか伝えていない。どんな物語なのか、詳細を伝えるのは恥ずかしいのだ。先輩に初めて見せたのは、なけなしの勇気を振り絞った結果だ。それと、一度他人から評価してもらいたいという欲もあった。小説を書いた経験がない私では、書き続ける事への不安が大きかったから。これで伝わるのかな、このまま書き進めていいのかな、という逡巡を経て、先輩にPCを渡したのである。


 結果は御覧の通りだったが。多少馬鹿にされる覚悟はしていたけれど、いくらなんでも『燃やせ』とまで言われるとは思わなかった。


 一度先輩に見せたら散々に言われた、という事だけは、彼女にも報告してある。その時は、「なにそれ、ひどくない?」との反応を返され、先輩に対する陰口のように受け取られてしまったので、言われても仕方ない出来だったから、と慌ててフォローした。


「ふうん。そのうちあたしにも読ませてね? あたしの小説と取り換えっこして、感想を言い合うってのはどうかな?」


 彼女ははにかんだような笑みを見せた。私も負けじと頬を吊り上げて頷く。よく話すようになって分かったことだが、彼女はよく微笑む女性だ。同性から見ても、とても魅力的である。


 こんな笑顔を見せられては先輩がころっといってしまうかも、と不安を感じたのが懐かしい。最初のうちはとても警戒していたものだ。だが、彼女曰く「それはあり得ない」らしい。「偉そうなことばかり言う男性は嫌い」なのだそうだ。先輩、そんなに偉そうかなぁ……? 私はあまりそう感じないが、彼女は先輩に対しそんな印象を持っているのだろう。


 その先輩はというと、今日はまだサークルに来ていない。入口が開くたび、少々の期待とともにそちらを振り返るものの、ここまで三連続で空振り。別のサークル員の方が教室に入ってくるのを確認しては、彼女に向き直る。何度も繰り返していると、いつしか彼女が呆れたような表情をしていた。


「待ち人来ず、って感じ? あんた、ほんと好きだよね。あの先輩の事」


 図星を突かれて、えっ、と喉をひっくり返したような声が出る。

 そこまで露骨な態度は取っていないつもりだったのに、彼女にはお見通しらしい。認めるのはなんとなく癪だったので、はてさてなんのことやら、ととぼけてみせた。声に震えが混じったのはご愛嬌ということでお願いします。


「あんな不愛想な人のどこがいいんだか。顔は見ようによっては美形の部類に入るだろうけど、あの性格は頂けないわ」


 歯に衣着せぬ彼女の物言いに、私はむうと唸る。

 彼女は分かってない。


 偉そうで高慢な態度や不愛想で固い口調と、時折見せる少年っぽい笑顔とのギャップが良いんじゃないか。ギャップ萌えってやつだよ。それを彼女は分かってない。分かってないよ、勿体ない。


 不愛想なところも先輩の味なんですぅ、と反論した。


「はいはい、分かった分かった。まぁ、蓼食う虫も好き好きってやつよね」


 誰が蓼虫(たでむし)ですかっ、とすかさず反論。


「あんた」


 と、真顔で返された。いやいや、蓼といえば苦味がある植物として有名だけれど、人間だって蓼をお刺身のつまに出すこともあるわけで、一般的な食用植物です。だから私は普通のはず。実際蓼なんて食べたことないけど。というか先輩は蓼じゃありませんー!


 などと、あれやこれや論じる私のどこがおかしかったのか、彼女はけたけたと笑い出した。


「あんた、やっぱり変わってるね。あー、面白い」


 私で遊ぶのはやめて頂けないだろうか……。


 打ち解けてからの彼女は、よくこうやって私をからかうようなことを言っては、心底愉快そうに笑う。なんて歪んだ性格の持ち主だ。


 こうして、彼女と雑談をしているうちにサークルの解散の時間となった。途中、サークル誌の〆切の話などが出たが、私は何も役割を振られていないので、聞く耳持たず。


 この日、先輩が姿を現さなかったことだけが心残りである。


*****


 進級した。とくに単位を落とすこともなく。

 今年度から私は三回生となった。


 先輩も無事、四回生に上がったようだ。だが、先輩はここ数ヶ月ほど、サークルに顔を出すことがめっきりと少なくなった。先輩が現れた稀有な機会に話を聞いてみたら、どうやら就職活動に精を出しているみたいだった。


「きみも企業研究は十分にしておかないと、痛い目を見るぞ」


 と、そんなお言葉を頂いた。

 言われるまでもなく、三回生の今から徐々に準備していかなければいけないことは重々承知している。自分も来年の今頃は就活をしているであろうと予測できるので、他人事ではない。


 そう思うのだけれど、私は就活の準備をいまだ始めていなかった。そしてその間、創作活動の手を緩めてもいない。いくら投稿サイトで反応が得られなくとも、私には私の小説を書ききる義務がある。生み出した登場人物たちが幸せになるまでを綴る義務が。誰に命じられたわけでもない義務感に駆られ、私は現実(リアル)そっちのけで執筆を続けていた。


 現実を疎かにしている私と違い、先輩は就職活動をしながらでも創作を続けているのだろうか、という疑問が頭を過り、ふと、なぜ自分が私小説の執筆を始めたのかを思い返した。


 実のところ、私が大学の文芸サークルに入った理由は、下心がその大部分を占めている。サークル勧誘の時に声をかけてくれたのが、先輩だったから。それだけが理由だ。


 しかし、正門にほど近い、キャンパスの真ん中を突き抜ける車道の脇に所狭しと居並ぶ各サークルの勧誘員たちの中にあって、先輩のところで立ち止まる新入生は私以外に誰も居なかった。なぜなら、先輩のあれはサークルの勧誘というより、先輩が好きな文庫の街頭販売だったから。わざわざ長机を用意して、布教用と思しきその文庫本たちを並べているさまは、さながら書店の特集コーナーのようだった。


 先輩の見た目の第一印象は、きれいなひと。細身の長身で、切れ長の目に、長い睫毛。短くまとめた髪に、白のワイシャツと黒めのパンツという固い服装はサラリーマンのよう。そんな人が、長机にこれでもかと本を並べているので、本当に街頭販売かと思った。燈火に誘われる羽虫のようにふらふらと近づいた私が興味本位で立ち止まってみると、先輩の営業が始まってしまった。


 先輩のセールストークは、饒舌でありながら、論理的だった。先輩も、聞き手が現れたことで舌に油が乗ったのだろう。私に対し、先輩のおススメの小説の、どこが魅力的であるか、どれほど美しい構成であるか、小説とは如何にあるべきか、などといった内容を延々と諭した。私が人柱となったことで、他の新入生たちは巻き込まれまいと一人たりとて近づいてこない。逃げ出すタイミングを掴めないまま、私は先輩の話を聞いていた。


「この物語では、第三者視点で登場人物の心理を細かく丁寧に描いている。だが、その中で唯一、一度もその心情の吐露がされないキャラクターがいる。それは一番最初の登場人物。つまり主人公だ。多くの心の内を丸裸にしながら、主人公のインテンションだけが分からない。僕も最初は表現不足と侮ったのだが、読んでいる内にそれに理由があったことに気付かされた。驚いたよ。書き手の真意が、そこに存在していた。僕も、まんまと陥穽に嵌められたわけさ」


 語られた小説は、私が聞いたことのないタイトルだった。私は精々、『なんとか賞』を受賞したという流行りの小説くらいしか手に取ることがないので、愛読家らしき先輩が嬉々と語る小説を知らなくても無理はない。だが、それはさておいたとしても、先輩のそれは多くの場合に悪し様に言われる『ネタバレ』すれすれではなかろうかと。そう思いつつも、私は先輩の声に耳を傾け続けた。


 その結果、気付けば私は、先輩おススメの文庫を三冊持たされ、サークルに入ることを約束していたのだった。他の新入生の目に先輩がどう映っていたのかは分からないが、私にとっては、先輩の話は少々くどかったけれど面白かったし、紹介している本を読んでみたいと思わされた。その時点で、勝敗は決まっていたのかもしれない。


 いや、本当は分かっている。その理路整然とした語り口とは裏腹に、少年のように目を輝かせて愛読書を勧めてくる先輩に、いつの間にか私は()()()()らしいことを。


 だから、私がサークルに通うのは、『先輩に会えるから』という動機に因っていたところが大きい。それが果たされないとなると、私もサークルから足が遠のく。本日も活動日なのだが、私はサークルには顔を出さず、アパートで独りカタカタとキーボードを鳴らしている。


 小説を書いてみたのも、『自分の書いた小説で先輩にあんな顔をさせたい』という、ある種倒錯した願望からだった。その願望はものの見事に敗れ去り、「意図が読めない」と先輩の眉を顰めさせる結果に終わったが。


 だが、不思議なことにこちらは休む気が起こらない。むしろ、大学の授業中など、他のことをしている間も書きたくてたまらなくなる瞬間がある。そんな時はすかさずノートの端に思い付いたアイデアを残し、アパートに帰ってすぐに文章に起こす。きっと、私はこういう作業が性に合っているのだろうな、と思う。このほど、いずれ就職してからも趣味として続ける意志を固めたところだ。


 私は数時間にも及ぶディスプレイとの睨めっこを中断し、文字を打ち込む手を止めて両目の内側を押さえた。このところ、眼精疲労が悩ましい。ブルーライトカットレンズの眼鏡の購入を検討しているほどだ。というか、つい先日ネット通販で注文した。価格は約五〇〇〇円。アルバイトもしていない仕送り生活なので、本来は節制に努めなければいけないところだが、これからも長くPCの前に居座るのであれば必要経費だろう。


 小休止小休止、と誰に向けるでもない言い訳をしつつ、私はブラウザを開き、ブックマークしてある小説投稿サイトへ飛ぶ。何気なく自分の小説のページを開くと、青天の霹靂のような出来事が私を襲った。


 なんと、細々と書き連ねていた私の小説に、感想がついていたのだ。誰かが感想を残してくれるのは、初めてのことだった。


 更新をし続け早半年。PV数は〇を脱したものの、三桁には届かない。毎日更新は五〇話で限界を迎え、今は週に三、四話ずつ、それでも途切れさせずに更新していた。反応してくれる人が居なくとも、読んでくれている人が居るのなら、と思って投稿を続けている。


 そんな私の小説に対して、ここにきて初のコメントである。賞賛だろうか、それとも批判だろうか、と、私が恐る恐るその感想を読むと、それはそのどちらでもなかった。


『報告。3章6話の5段落目、「~は、こくなることを予想していたのだ!」→「~は、こうなることを予想していたのだ!」、4章序文の11段落目、「~は、追い詰められた私の逃げ道を塞ぐように壁に手を尽、至近距離で私の見つめた」→「~は、追い詰められた私の逃げ道を塞ぐように壁に手を付き、至近距離で私を見つめた」かと思われます。修正お願いします』


 ただの誤字脱字報告だった。


 だが、それだけでもありがたいことだなぁ、と思いながら、ご指摘頂いた部分をすぐさま修正する。先輩のご指摘に比べて、なんと簡潔であることか。間違っている箇所まで細かく教えてくれたため、数分で終わった。先輩の時は、改革と呼べるほどの大規模修繕だったので、費やした時間は膨大だった。おおよそ、一回生の秋ごろから約一年弱を丸々改稿に使ったと記憶している。そのおかげで、文体や構成に気を遣うようになれたし、書いたものを自分で校正するという癖もついた。先輩には感謝だ。


 だがそれも完璧ではない。自分では気付かない抜けはあるものである。私は誤字の報告をしてくれた感想に、コメントを返す。


 報告感謝です、修正しました、という旨と、いつもお読み頂いてありがとうございます、という旨。


 送信してから、妙な充足感が私の中に満ちていることを感じた。私の小説をこんな細かいところまで、それこそ一節一章一段落に書き綴った一文字一文字を、この方は穴が開くほどに見てくださっているのだろうか、などと思い、照れくさくなる。


 ひとしきり余韻に浸った後、私は、再び物語の続きを打ち込み始めた。


*****


「すまないな。散らかっていて」


 部屋の扉を開け、先輩は申し訳なさそうな顔で振り返った。

 しかし、私は部屋の様子に気を配るどころじゃなかった。心臓が早鐘を打って破裂しそうだ。油断したら倒れてしまいそうなくらい緊張している。男性の部屋に入るのは、初めてなのだから。それも、意中の人となれば尚更だ。


 私は今日、先輩の下宿にお邪魔する。

 どうしてこんなことになったのかというと、私が押しかけたからだ。


 最近就活のせいで先輩に会えない日が続いており、先輩成分が不足気味だった私は、勇気を出して連絡を取ってみた。連絡先は随分前に教えてもらっていたが、サークル活動以外の私用で先輩に連絡するのは初めてだった。


 近況を尋ねるメッセージには、思いの外早い返信があった。


 それによると、先輩は就活に並行し、『卒業後に引き払う部屋の整理を徐々に進めている』とのこと。私は一も二もなく『手伝います』と申し出た。


 初めは渋る返事が届いたが、『二人でやったほうが効率がいいです』『物の整理は得意なんです』とごり押した結果、なんとか承諾を得てこうして先輩の部屋にやってきたというわけである。


 だが、いざ来てみると、色々意識してしまってだめだ。近くのコンビニで待ち合わせをして、現れた先輩を一目見た瞬間に私の理性は正常を保てなくなった。


 いつも大学で見る先輩は、襟の固そうなシャツに落ち着いた色のすらりとしたパンツというフォーマルな格好が多い。今日の先輩は、ジャージに胸元が露出したVネックのシャツとラフな格好だった。服装が違うだけなのに、いつもより柔らかい印象を受ける。というか、ラフな格好もとてもお似合いです。イケメンは何を着ても似合う。かっこいい。


 そして、そんな姿を見せてくれたということは、私に対してある程度の信頼を置いてくれているということなのかな、と邪推してしまい、少々の期待が頭をもたげる。結果、私の顔はまともに先輩のご尊顔を拝見することも憚られるようなだらしない状態と化していた。頬が緩んで仕方がない。くそう、締まれ、私の表情筋。


「まぁ、この惨状だからな。そんな顔にもなるか」


 必死ににやけ面を誤魔化そうと苦心しているのを、先輩はそう捉えたらしい。


 だが、ちらりと先輩の部屋の中に意識を向けてみると、確かにかなりひどい有様だった。4LDKの部屋中に物が散乱しており、足の踏み場もない。言われた通りに頬が引き攣った。これはすごいですね、という小学生並の感想しか出ない。


 まぁ、物といっても、ほぼ全てが書籍なわけだが。その数、パッと見ただけで優に二百冊以上はある。奥の壁際に申し訳程度の大きさの本棚が据え付けられているが、明らかに収まる量ではない。というか、本棚自体が本に埋もれそうだ。本の虫もここに極まれりといった様相である。さすが先輩。


 けれど、先輩はきっちりした性格だから、こんなに部屋が荒れているとは思わなかった。先輩の新たな一面を発見した。だらしないところもあるんだなぁ。でも、こんな欠点もちょっぴり愛おしく感じられるから不思議だ。


「これでも一部は実家に送ったんだ。本来なら蔵書にも気を遣うべきなんだろうが、この狭い部屋だと中々厳しくてな。売却は僕のポリシーに反するし、別の保管場所に心当たりもない。苦渋の末に部屋の隅に重ねていたが、段々と中央まで侵食されて、気付いたらこうなっていた」


 と、先輩はこの惨状の経緯を説明してくれた。


 それでは、これらの本はどうするのだろうか。売却はしないのだろうし、別の場所に移すわけでもないのならどうしようもないのではなかろうか。


 私がそのことについて尋ねてみると、「とりあえずダンボールに詰めて、いくつかまとめて実家に送ろうと思う」とのこと。


 なるほど。


 それくらいなら今日中に終わりそうだ。先輩の話し振りだと、卒業までまだ半年以上あるのに部屋の整理をするというのだから、もっと大掛かりな作業が待ち受けていると思っていた。少し肩透かしを食らった気分だ。


 私は、それでは早速始めましょう、と先輩を促す。


 すると、先輩は「ちょっと待ってくれ。始める前に注意点がある」と私を止めた。


「整理するときには分類ごとに仕分けてほしい。ミステリ、SF、ファンタジー、恋愛、評論、学術論文、詩集・エッセイといった具合に。それから、シリーズ物はひとつの箱に収まるようにすること。あと、英文書は独立させてくれ。ああ、翻訳書はその限りではないから」


 えっ、あ、はい。


 まくし立てられ、私は機械のように首肯した。うう、細かいよう……。


 先輩には先輩なりのこだわりがあるのだろう。だけど、分類なんて私に判別できるのだろうか。表紙だけで判断できるような本ばかりならいいんだけど……。


「では、始めるか」


 先輩の後に続き、私は部屋に足を踏み入れた。本を踏まないように気を付けながら。なんでだろう、さっきまでの胸の高鳴り(ドキドキ)がどこかに飛んで行った。違う意味で心臓がバクバクしている。占めているのは不安が大半である。


 案の定、表紙だけで選別するのは私にはレベルが高すぎたらしい。


 何度も先輩に「それはそこじゃない」と指摘された。だって、恋を予感させる詩的なタイトルだから恋愛ものだと思うじゃん。それがまさかのSFだなんて。分かんないよもう。こんなのタイトル詐欺だ。あの本は、恋愛ものだと思って会計を済ませてから開いてみると実はSF、という詐欺紛いの罪を何度も犯しているに違いない。訴訟ものだ。


 若干投げやりになりつつ、たまに他愛ない雑談をしながら、二人で作業を続けた。途中から、分からないものや怪しいものは最初から先輩に訊くことにした。そのほうが確実だもの。


 半分くらい片付いたところで、先輩が不意に作業の手を止めた。


「こんなことを手伝わせてすまないな」


 と、屈んでいる先輩が私を見上げて言った。


 いいですよ、先輩にはいつもお世話になってますからこれくらい、と応じると、先輩は整った顔をふにゃりと緩ませた。


 ふわぁ、不意打ち! やめてよ、もう!


「きみが来てくれて助かった。僕一人だと、多分半年以上かかっていただろうから」


 先輩は笑いながら言う。だけど私は首を傾げた。一日かければなんとかなる量なのに、どうして半年以上も? と尋ねる。


「恥ずかしい話なんだが、整理している内に、いつも手に取った本を開いてしまうんだ。そうすると片付ける事も忘れて読み耽ってしまう。そして気付いたらもう日が暮れている。とまぁ、ここのところずっとそんな調子で全然作業が進まなかった」


 先輩はそう言って自嘲気に笑った。うん、とても先輩らしい理由だ。先輩は一度集中すると周りを忘れるきらいがあるからね。そうなるのも頷ける。


「きみが居てくれると、こんなにスムーズに片付くんだな。本当に助かる。ありがとう」


 正面から真っ直ぐに言われて、私は恥ずかしくなって思わず目を逸らした。べ、べつに感謝してほしくてしているわけじゃないですから、と若干のツンデレ発言をしてしまった。


「ああ、大丈夫だ」


 と、先輩は私のツンデレをさらりと流した。ん? 何が大丈夫?


「分かっているさ。目星はつけているんだろう? 好きな本があればいくつか持っていくといい」


 あれ、んん? もしかして私、本のお裾分け目的で来たと思われてる? 大変だ、この人全然分かってない!


「残りは半分くらいか。ここまで来たら今日中に片付けてしまおう」


 意気揚々とした先輩の言葉に、私は複雑な心境で、はい、と頷いた。


 夕暮れ。

 ダンボールが積まれ、引っ越し直後のようにすっきりと片付いた先輩の部屋を出る時、私が目星を付けていたらしい小説が四冊、私のカバンの中に入っていた。その内一冊はあのタイトル詐欺のSF小説だった。


 どうしてこうなった。


 恋人のような甘々イチャイチャを期待していたわけではないのだけれど、もう少し違う形のご褒美が欲しかったなぁ……。



*****



 先輩の就活が漸く上手くいったという報告を受けたのは、年の暮れになった頃だった。県内に得意先を多く持つ機械部品製造会社に内定を頂けたとのことだ。


 けれど、ご自身はその成果に納得がいかないみたいで、「もっと僕の能力を活かせる企業があるはずだ」と息まいていた。先輩が仕事面でどのような能力をお持ちなのかは存じ上げないが、本人の気の済むまで努力を続けることは正しいことだと思う。なおも上を目指すひたむきな先輩の姿勢が、私の目には眩しく映った。


 私小説のPV数は、秋口ごろから急激に伸び始めた。どこの神の悪戯か、その投稿サイトの日刊ランキングに名前が載ってしまったことに起因しているのだろう。ジャンルは恋愛。競合相手が多いジャンルであるだけに、起こりえぬと諦めていたことが起こってしまった。初めてランキングの中に自分の小説の表題を確認した時は、幻かと思って何度も瞼を腕に擦り付けた。その表題をクリックして自分の小説ページに遷移した時になってやっと、どうやら|真実≪ガチ≫らしいと信じた。


 それに伴い、感想を頂ける数も大きく増えた。多くが『面白い』や『これからも楽しみにしてます』などといった肯定的な意見で、励みになった。それから、『王子様のギャップに萌える』という意見もあった。私の作り出した王子様は、普段は冷静なイケメンでいて、時折無垢な子供のように微笑むイケメンである。私の趣味全開のキャラクターなのだけれど、その意見に承認欲求が満たされた気がして、とても嬉しかった。


 もちろん、中には批判や否定的な意見も存在する。だが、それらも先輩の辛口コメントに比べれば可愛いもので、私の心を折るには足らない。むしろ、物語の見方に気付きを与えてくれる糧とすることが出来ている。


 私は、そろそろ良い時期ではないか、と考えた。何の時期かは分かるだろう。リベンジの、だ。


 先輩にもう一度見て頂くのに、これ以上待つ理由はない。先輩の就活も、終わってはいないようだが一段落したし、私の小説も、他人の目に晒されても少なからぬ好評価を頂けるようになった。今こそ、機は訪れた。


 私は、相談したいことがあるとかなんとか、適当に理由をつけて先輩を呼び出した。


 待ち合わせの場所は、あの駄文を初めて先輩に読んでもらった場所。図書館棟のテラスだ。ここは先輩のお気に入りの場所らしい。図書館で本を借りて、そのままここに赴き本のページを捲る。その時間は先輩にとって至福の時間なのだそうだ。実に本の虫である先輩らしい。


 私はノートPCを抱えて、先輩を待っていた。服装はいつもよりシックにまとめて、普段あまりしない化粧も万全にして、気合は十分。あとは先輩に小説を読んでもらうだけ。


 不安は少々。

 いくら洗練されたとはいえ、書き手は変わらず、私だ。先輩の中にある私のイメージはどのようなものなのか分からないが、少なくとも良い物ではないだろう。『ヘタクソな小説を書く女』が書いた『ヘタクソな小説』というイメージが先行して、読んですらもらえない可能性がある、と。


 期待が大半。

 とはいえ、私の小説は多少、人に認められた。それも、匿名性の高い小説投稿サイトで。であるからこそ、自信を持って言える。私の小説を楽しんでくれている人が少なからずいることは事実だと。先輩に一度こき下ろされた代物ではあるが、それでもきっと、少しは改善を認め、褒めてくれるに違いない、と。


「すまない、待たせたか?」


 先輩が片手を挙げながら、私の座る席へと近づいてきた。いいえ、私も今しがた来たところです、と答える。まるで恋人同士のようなやりとりが、面映ゆい。


「それで、今日は急にどうしたんだ? なにか相談があるということだったが」


 服装にも化粧にも言及することはなく、先輩はいきなり本題へと踏み込む。女心が分かってないなぁ、と呆れつつも、それでこそ先輩であると納得する自分もいて、なんだか可笑しかった。


 実は相談というのは、もう一度、私が書いた小説を読んでほしいということでして、と私が応じると、先輩は途端に怪訝な顔をした。


「書くのはやめたんじゃなかったのか?」


 と問われる。そういえば、そういう事にしていた気がする。いつだったか、文芸サークルに所属しながら一言も文章を綴らない私に業を煮やした周囲に対し、読み専門にする、と言ったのだった。私は自分でも認めるほど、これまで大して活字に触れていない。この大学の文芸サークルは、みんなで楽しみながら物語を作ることに重きを置いたサークルだから、執筆を強制されることはなく、先輩を含めた周囲はそれで納得してくれた。まぁ、年に一度のサークル誌の刊行の際だけは成果を求められるけれど。だがそれも自由参加だから、縛りはほぼないに等しい。


 先輩に指摘された点を見直して、一から書き直したのだけれど、それを正直に話すのは憚られたので、つい執筆をしていないことにしてしまった、と告げる。


 先輩は眉根を寄せつつも、私の話に頷いてくれた。


「……そうか。そういうことなら、読むのも吝かではない」


 私は先輩に、テキストファイルが開かれたPCを渡した。


 一年以上書き溜めた私の小説は、結構なボリュームとなっている。もしも先輩が渋面を作ったなら、データだけ持ち帰って頂いても良かったのだが、そう提案する前に先輩は私の小説を読み始めた。


 食い入るようにPCを見つめる先輩を見ながら、私は自分の頬が紅潮していくのが分かった。


 私が書いた小説は、いわば私の分身だ。これまで生きてきた私の経験や感情、思考や想像、爆発した妄想などが、その中に集約され、文章という形を為している。前回先輩に読んで貰った自己満足の駄文とはわけが違う。先輩の指摘を受け、誰かに読んで貰うために、私が私のすべてを詰め込んだもの。


 それを今、先輩が読んでいる。それはまるで、私という存在のすべてを、あのきらきらと輝く真っ直ぐな瞳で貫かれているかのようだった。羞恥で頬が染まる。先輩に顔の火照りを気取られないように、努めて気を静めることに腐心した。


 どれだけ時間が経ったろう。

 先輩は「ふう」と息を漏らし、PCから目を離した。


 ど、どうでしたか、と、私は若干どもりながら尋ねる。


 『面白かった』と、そう言ってくれることを、期待していた。先輩は、「まだ全て読み切ったわけじゃないが」と前置く。私の期待は、ひどく身勝手な期待だったと、思い知らされることになった。


「僕はこれを小説とは認めない。ただの文字の羅列だ」


 その言葉に私は愕然とした。

 淡い期待を抱いていただけに、ショックを隠せない。先輩の顔を見ていられず、俯いた。


「努力は認める。僕が指摘した文体や文章の体裁は大分整っている。だがそれでも、相変わらず意図が読めない。物語には、必ず筆者の意図がある。読み手に何かを『伝える』こと、あるいは何かを『感じさせる』こと。表現の仕方は書き手によって千差万別だが、それは小説というカテゴリーにおいて非常に重要な要素のひとつだ」


 冷気を纏う先輩の声が、私の耳を凍てつかせる。耳の奥に、ひりひりとした痛みを感じた。


「そこが曖昧で読み取れない以上、僕にとってこれは、ただの文字の掻き集めでしかない。きみはこの文章の塊で、一体何を伝えたいんだ」


 何を伝えたいか……。

 本当に、分かっていないのだろうか。この人は。

 それとも、分かっていてこれを尋ねているのだろうか。


 私が何も言い返せずにいると、先輩は席を立った。私を見下ろす先輩に、弱々しい声で、ありがとうございました、とだけ、伝えた。「ああ」と簡素に残し、先輩は私に背中を向けた。私は黙って先輩を見送った。


 本当はすぐにでも立ち上がり、一歩踏み出して、その背中を呼び止めたかった。そして、叫びたかった。


 恋文です、と。


 主人公の女の子は、私。

 王子様は、あなた。

 この小説は、私からあなたに宛てた、ラヴレターなんです、と。


 呼び止めて、そう説明したかった。


 もうすぐ先輩は、大学を卒業する。

 私と先輩には、もう、時間がないのに。

 私はその一歩を踏み出すことを、躊躇ってしまった。



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