喧嘩相手見聞録①
「え~んえん、え~んえん」
幼い少女が泣き叫んでいる。目の前には二人の両親が、困ったように立ち尽くしていた。
「やだやだ。お母さんたちと離れたくない! なんで私一人で別の街に行かなきゃいけないの!?」
少女は駄々をこねる。だが、いくら喚いても目の前の両親は決して少女を抱きしめようとしない。頭を撫でたりもしない。近寄りもしない……
「だからね美羽、あなたは少し甘えん坊なのよ……」
「そうだよ。お父さん達はそれが心配なんだ。美羽がちゃんと一人前になったら、その時はまた一緒に暮らそう。約束する」
そう、これは黒羽美羽が子供の頃に見た両親との記憶。
一人暮らしを強制的に言いつけられた時の記憶。
当時の美羽にはあまりにも過酷で、到底受け入れる事なんて出来なかった記憶……
「大丈夫よ美羽。あなたが行くマンションは最近できたばかりでとても綺麗みたいよ」
「街の人もみんな面白い人ばかりだそうだぞ。きっと毎日が楽しいに違いない」
涙を拭って両親の顔を見る。
その時見た両親の表情は……とても困ったような顔をしていた。
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ピンポーン!
降ります。と書かれたボタンが点灯した時の音で、美羽は目を覚ました。どうやらバスの中で眠っていたらしい。周りの景色を見ると、次の停留所が自分のマンションに一番近い所だった。
慌てて定期を取り出し降りる準備を始めながら、今日もコメットがおとなしく家で待っていたかを考えていた。
「ただいまー」
玄関から廊下を抜け、リビングの扉を開けてみるとコメットはテレビゲームに必死になっていた。
「あ、お帰り~……この! こんのぉ~!!」
コントローラーをガチャガチャ叩き、迫り来る大量の敵を無双するアクションゲームにかじりついていた。床にはその他のゲームの箱やらマンガ本やらが散乱している。
「なんですかこの部屋、地震で物が散乱したような状態になってますよ……? ところでコメットさん。お買い物には行ってきてくれたんですか?」
「……あ」
今日、美羽は帰りが少し遅くなりそうだったのでコメットに買い物を頼んでいた。
だが、当のコメットは石化したかのように固まっていた。
「ゲームに夢中で忘れたんですか……?」
「だ、大丈夫! 今から行って来るから」
そう言ってベランダに出ると、背中の羽をパタパタと動かし始める。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 空を飛んで行くつもりですか!?」
「うん。だってその方が早いし」
「駄目ですよ! そういう自分が人間じゃないって事を隠しながら生活して下さい!」
しがみついて飛ぶのを抑えると、コメットは仕方ないという表情で止まってくれた。
さて、今から歩いて買い物に行こうかと考える美羽だが、イマイチ気乗りしない。バスの中でうたた寝した事もあって、もうこれ以上外に出るのが億劫だった。
ため息を吐きながら冷蔵庫を開けてみる。中には数種類の野菜があったため、しょうがないので今日はこれでなんとかする事にした。
「コメットさん。ご飯が出来るまでその散らかした部屋を片付けて下さいね」
「ほ~い」
やる気のない返事が返ってくる。そのてきとうな返事に若干の苛立ちを感じながら、美羽は晩御飯の準備を始めた。
そして、およそ五分後――
「ミウ~。片付けたわよ。どう!」
「え? もう片付いたんですか?」
目を向けると確かにコメットの周りはキレイになっていた。だが、部屋の隅っこに気が付いた美羽に衝撃走る。なんと散らばっていたゲームやマンガが一ヵ所に集められて積み上げられていた。タワーのようにそびえ立つその物体はグラグラと揺れている。
「って、端っこに積み上げただけじゃないですか!?」
「わーい褒められた~♪」
「褒めてませんから!!」
ドッタンバッタン!
コメットがはしゃいで飛び跳ねる。その度に高く積まれた寄せ集めの塔は、さらに激しく揺れ始める。美羽が慌てて支えようと飛び出すが、一瞬遅くその塔は崩れ始めた。
キャーっと二人の悲鳴が部屋に響き、その場はさらなる大惨事となったのだった……
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「ねぇ、今日はカレーじゃなかったの?」
「……その材料を買い忘れたのは誰だと思ってるんですか」
散らかる部屋の中央に位置するテーブルに料理が並び、二人は椅子に鎮座していた。急遽、残っていた野菜を使った野菜炒めを作ったのだった。
「これを食べたらちゃんと片付けてくださいよ」
「ほ~い、わかってるって」
イラ……。
軽い返事に再び苛立ちが募っていく。
今日の美羽は特に機嫌が悪かった。と言うのも、ここ最近は寝不足だからかもしれない。コメットがゲームにハマったのは数日前。かなり熱中して、美羽を巻き込んでのプレイ時間は深夜にまでおよんだ。さらに夜遅くまでゲームに熱中するのはその日だけに限らず、毎晩美羽にゲームの相手を要求していた。そのおかげで美羽はここ最近寝不足気味になっており、授業中やバスの中でも眠気に襲われる事になっていた。
「コメットさんは罰として、今日の吸血は抜きにします!」
「え~!? なんで~!?」
「当たり前じゃないですか! 崩れた物を片付けるように言っても気付けばマンガを読んでるし、その崩れた拍子に部屋の小物は壊れるし、最近ちょっとだらしないですよ」
ヴァンピールにとって吸血行為は必須である。一度吸血をしてから大体一週間くらいで吸血衝動が起こり、見境なく人を襲ってしまう状態になる。美羽はそのギリギリの一週間に一回だけ吸血させる事を提案して、コメットは毎日吸血させてほしいと要求した。
二人は間を取って一週間に二回、水曜日と日曜日に吸血する事で妥協した。そして今日は水曜日、コメットにとっては待ち望んだ吸血の日であったのだ。
ぐぬぬ……と、納得がいかない様子のコメットは、美羽に対して口を尖らせた。
「いいもん。別にこの街に住んでる美少女はミウだけじゃないもん。別の人から吸っちゃうんだから」
「それはダメです! あなたの吸血行為は……その……とっても恥ずかしいんですから。他の人から吸うだなんてとても許可できません!」
なんだか心がモヤモヤした。他の人にあのような、抱きついて、舐めて、噛みついて……そういう行為をする事を考えると、なぜか胸が苦しくなる。
あんな行為の被害者になるのは自分一人だけでいい。美羽はそう思い込んでいたが、どうにも胸のざわめきが治まらない。
「ふ~んだ! だってミウが血を吸わせてくれないなら、他の人から吸うしかないじゃない。別にミウ一人にこだわる必要なんてないし! 他にも血をくれる人は沢山いるし! ミウはそのうちの一人にすぎないし!」
「……っ!!」
コメットのその言葉を聞いた瞬間、頭に血が上っていくのがわかった。そして、目の前が次第に赤くなっていき、意識が朦朧としてくる感覚。
――そして、美羽の瞳から光が消えた。
「結局私って、あなたにとってその程度なんですね……」
「え? なに?」
俯いていた美羽がゆっくりと顔を上げる。その表情は人形のように固まっていて、けれど目つきだけは細く、睨むようにコメットを見つめていた。
――ガシャアアアアアアアアン!!
突然美羽が、テーブルの上をその腕で薙ぎ払った。食器やコップが宙を舞い、そして勢いよくフローリングに落ちて砕け散る。
そんな豹変した美羽に、コメットは唖然としていた。
「よくわかりました。あなたは私の事を……いえ、人間をただの食料としか見ていないんですね!」
「え……? そんな事は……」
「そう言ったじゃないですか! 私から吸えなくなったら別の人から吸えばいいんですよね? そこら辺に咲いている花から密を吸うような感覚なんですよね?」
「私……そんなつもりじゃ……」
まるで親の仇を見るような目つきでまくし立てる美羽に、コメットはたじろいでいた。
「血を吸う時に快楽を与えて、その快楽の虜になればまた吸ってほしいと寄ってくる。そうやってあなたは食料を確保しながら生きてきたんですよね! それと同じ物、人間界にもありますよ? 『麻薬』です」
「……麻……薬?」
「麻薬は人に快楽を与えて、止めなきゃいけないとわかっていても止めることが出来なくなる。そうやって人の人生を狂わせる毒物です。あなたと全く同じゃないですか。麻薬が私に近寄るな!! もうこれ以上、私の人生を狂わせるな!!」
ガタッ!
コメットは勢いよく立ち上がると、飛び出す様にベランダから外へ出た。そのまま戸を開けっぱなしにして、夜の空へと飛び去っていく。
後に残された美羽は、頭から熱が引いていく感覚から次第に意識をはっきりとさせていった。その瞳には光が戻り、頭の中には今、自分がコメットに向かって放った言葉が朧気に残っている。そして、前にもこんな事があった気がして、それを思い出そうとしていた。
あれはいつの頃だっただろうか……? そう、あれは確か、子供の頃……
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「え~んえん、え~んえん」
幼かった頃の美羽が泣き叫んでいた。目の前には二人の両親が、困ったように立ち尽くしている。
「だからね美羽、あなたは少し甘えん坊なのよ……」
「そうだよ。お父さん達はそれが心配なんだ。美羽がちゃんと一人前になったら、その時はまた一緒に暮らそう。約束する」
次第に記憶が鮮明に映し出される。
周りには割れた食器が散乱していて、戸棚のガラスは残らず割れている。椅子が引っくり返り、そして、床には包丁が突き刺さっていた。そんな部屋の中心で美羽は泣いており、両親は怯えたような表情で決して近寄っては来ない。
――美羽は思い出した。あの惨状は、自分がやったのだ。
美羽は子供の頃から大きなストレスや怒りを感じると、まるで別人のように豹変する病気を持っていた。いや、それが病気なのかもわからない。二重人格とも違うらしく、医者に見せても原因が解明されなかった。
両親は苦渋の決断を強いられて、美羽をある街へ預ける決意を固めた。
それがこの『天龍街』。
原因不明の病気持ちや、自分の欲情を抑える事ができない人間が集う街。国で管理されており、ある程度の事件ならば国が補償してくれる街。美羽は、自分の病気が治るまでこの街に預けられていた。
昔の記憶が曖昧だったのは、豹変して暴れる自分を否定して認めたくないが故の自己防衛。両親を怯えさせ、自分から離れていく現実を受け入れたくないためであった。
それが今、コメットと出会い、自分の気持ちを整理する暇もなく喚き散らす事で、後から冷静に考えようとした結果、自分自身と向き合い全てを思い出したのだ。
取りあえず床に落ちて割れた食器を片付けてから、寝る準備を一気に整えてからベットに倒れ込む。今日は色々と疲れて、これ以上何かをやる気にはなれなかった。
自分が悪いのか、コメットが悪いのか、ぐるぐると頭の中で回り回って答えが出ない。人はこういう時、大抵は自分を正当化する生き物らしく、コメットの態度に対して許せなかった気持ちは間違いじゃないと言い聞かせている自分がいた。
けれど、いくら意識が無くなったとはいえ酷い事を言ったのも事実。結局はその板挟みで、心に釘を打ち込まれたような痛みは決して消えなかった。
そんな時、ふと枕元に小さな箱が置いてあるのに気が付いた。不思議に思い、その箱を開けてみる。中に入っていたのは、ネックレスだった。
「あ……あぁ……」
一目でそれがコメットの作った物だと分かった。
真珠のネックレスの、真珠の部分を小石にした手作りのネックレス。決して店で売っている物ではない。店で売られている物にしては石の大きさは歪で、不揃いなものだ。しかし石の一つ一つが丁寧に削ってあって、機械の無い魔界でワイルドに生きてきた者が会得したかのような、そんな加工が施されている繊細な作り物。
コメットは言っていた。ヴァンピールは自由気ままに生きる種族だと。そんな彼女が人間界に来てから、ずっと美羽のそばにいて、美羽と共に行動して、美羽のためだけにプレゼントを作ってくれた。その好意が、さらに胸に突き刺さるような痛みを広げていく。
美羽はベットから跳び起きると、外出用のカーディガンを手に取ってから外に飛び出した。寝る時に来ているブカブカのスウェットの上に羽織り、コメットを探しに夜の街へと走り出した。
本当は分かっていたのだ。コメットが自分を、人間を食料としてなど見ていない事に。
血を吸う時には必ず相手の合意を得ると言っていた。そんな彼女に、麻薬だなんだと勝手な事をぶちまけてしまい、ベランダから飛び出す時に、その瞳に涙を浮かべていたのだって脳裏に焼き付いている。
そんな彼女に謝りたかった。
もう一度話をしたかった。
そしてまた戻ってきてほしかった。
――だが結局、その日はコメットを見つける事はできなかった……