4瓶目
マー坊が目を開くと、そこは寝室だった。
「ああ、また起きちゃった……」
すぐ傍で、絶望に満ちた女性の声がする。
この人が僕を産んだお母さんという存在か、とマー坊はまだぼんやりする頭で考えていた。
まだ視力が発達していないのではっきりとは見えない。だが、髪はボサボサで暗い表情をしており、疲労がピークなのは分かった。それもこれも自分のせいだと思うと、マー坊は初めて申し訳なく思った。
そこで、マー坊は目を閉じて寝たふりをした。
「起きたと思ったのに、また寝たのかしら?」
母親がマー坊をそっとベビーベッドに下ろす。これ以上は無いというほどゆっくりと、そして静かに。
背中がベッドに触れたが、目を開かない。
すると母親は自分の寝床へも行かず、その場で崩れるように倒れて寝てしまった。限界だったようだ。
ヒーターが入っているものの、風邪をひかないか心配である。
そのまま目を閉じていると、またもや睡魔が襲ってくる。部屋が暖かいのがいけないのだ。だが、スイッチは壁に掛けられているので、たっちの出来ないマー坊には触れることさえ出来ない。
夢の世界に誘われる感覚は、死ぬのと似ている。死ぬという概念はまだ分からないが、とてつもなく不安になるのだ。だから眠くなるとつい泣いてしまう。今日も声をあげようとしたが、あまりの温さに「ふにゃあ」と寝ぼけた声しか出ない。夢の中ならたくさん話せるのに、とマー坊は自分の言語能力の低さを嘆いた。
そして瞼が重くなり、次に目を開いた時にはBAR Booに舞い戻っていた。
「あーあー(今夜はもう戻ってこないと思ってたけど)」
テーブルの上にお皿を何枚も重ね、膨らんだお腹を擦りながら、やっさんが言う。
一人残された寂しさからか、更に離乳食を食べていたらしい。
「うーう(はあ、それが部屋が暖かくて、つい……)」
辺りを見回すと、教授は離れたボックス席に座る別の客に、何事かを捲し立てていた。マー坊は教授に見つからないようにソファに身を沈めて声を落とす。またからまれると厄介そうだ。
「んー(分かる分かる。ただでさえ体温が37度もあるのにあんなに部屋を暖かくされたら、ひとたまりもないよね。僕たちに風邪をひかせまいとする親心なんだろうけどさ)」
「へむー(そうそう、僕、初めて親孝行してきました)」
「まっ、まっ(親孝行? 笑いでもしたの?)」
マー坊は事の次第を話して聞かせた。するとやっさんは腕を組み何度も頷く。
「いいことをしたね。お母さんが寝ている時は、緊急時以外は大人しくしておこうね」
「う(緊急時?)」
「あうあー(寝入る前まで口の中に入っていたはずの乳首が無くなった時とか)」
「へうー(ああ、あれは不安になりますよね)」
乳首を吸うのは、乳幼児にとっては空腹の緩和以外にも精神安定剤の作用がある。特に寝る時には必須だ(お腹がいっぱいになると眠くなるから、という理由もある)。
それが、ちょっとうとうとした後で目を覚ますと、今まであったはずの乳首が無い。
これは最大級の緊急事態である。自分から探しに行けないマー坊は、口の中に乳首が戻って来るまで、声の限りに叫ばざるを得ない。
嘉助風に言えば、「おんどりゃあ、どこに隠しやがったんだ、このすっとこどっこい!」てなもんである。
すると、BAR内が静かになり、客たちの会話が途切れた。
「あだー(あれ? 何だか静かになりましたね?)」
原因はすぐに分かった。BGMがいきなり止まったのだ。
「うきゃっ、うきゃきゃーっ!(ハイッ! それでは今日も行ってみましょう! サービスターイムッ!)」
すぐ傍にいたマスターがいきなり大声を出したので、マー坊は飛び上がるほどに驚いてビクッと身を震わせた。寡黙だと思っていただけに、そのテンションの変わり様はある意味、異様なほどだ。
だから、マー坊はマスターの言った言葉の意味を考えるのが遅れた。
さーびすたいむとは、何だろう?
「きゃっきゃっ!(いよっ! 待ってましたっ!)」
「あー!(ようやくね!待ちくたびれたわ!)」
客が沸き立ち、BAR内の温度が上がる。
「ピュウッ」という口笛ではなく、「へあっ! へあっ!」と興奮した息遣いと、ペチペチというまばらだがたくさんの拍手が店内に響く。
マー坊はまだ拍手が出来ない。やっさんは皆よりゆっくりしたテンポで拍手をしていたが、音が鳴っていない。どうやら音が出るほど叩くのは難しいようだ。
その時、マー坊の向かいの席が光り、嘉助が姿を現した。
「嘉助さん、いいところに! 今始まるところだよ」
「へあっ!(あぶねえ、あぶねえ。乗り遅れるところだったぜぇ!)」
嘉助はおしぼりで顔を拭き、意気揚々と立ち上がる。
すると、スピーカーから陽気な音楽が流れ出した。
「あー!(こ、これは、某子供番組のオープニング・テーマソング……!)」
それは、朝早くから放送しているテレビ番組の曲だった。マー坊も最近見せてもらうようになり、音と映像に驚きつつもテレビを凝視した覚えがある。
その音楽が鳴り出した途端、客が全員が立ち上がり、一斉に身体を左右に揺らしだしたのだ。
「あーっ!(ど、どうしたんですか、皆さん!?)」
その異様な光景の中、一人立てないマー坊が目をまん丸に見開く。
すると身体を揺らす客たちが口々に話しかけてくる。
「へーしっ!(我々はある呪いを受けていてね、陽気な音楽が流れ出すと、身体を揺らさずにはいられないんだ!)」
「うっきゃっ!(食事の最中だって、寝起きだって、音楽が流れたら身体が勝手に動くのさ!)」
それはなんと恐ろしい呪いなのだろう。
硬派な嘉助までも楽しそうに身体を揺らしているところを見ると、よっぽど強力な呪いに違いない。
「んまー!(横だけじゃなく、縦にも揺れるのよ!)」
「んあっ!(君も一緒に踊ろうよ!)」
確かに、曲がクライマックスを迎えると、一様にガクガクと膝を曲げて上下に揺れている。両手を上に上げている者、更に天井を見上げながら踊っている者までいる。
何がそんなに楽しいのか、皆は溢れんばかりの笑顔である。
「へーう……(お前ももうすぐ分かるようになるさ……)」
嘉助が息を切らしながら、そんなことを言う。
大人になったら、あんなに一心不乱に踊らなくちゃいけないのか……! と、 マー坊は何だか大人になるのがちょっとだけ恐ろしくなったのだった。
登場人物 ※()内は月齢
・マー坊(3)……とは言いつつも将来を見据えてダンスを習いに行こうかと考えている。
・やっさん(6)好きな言葉はフルコースと満漢全席。痩せるのは諦めた。
・嘉助(8)母乳を飲んで満腹だが、姐さんにかっこいいところを見せるために皆よりも大きいボトルをキープしている。愛人宅で食事を終えた男が、妻の夕飯も頑張って食べるという状況に誰よりも共感できる男。
・マスター(11)寡黙と見せかけ、実はホスト顔負けのシャンパンコールも出来る、奥の深い男。