3瓶目
姐さんがパチパチと瞬きをし、ゆらゆらと肩に流れる髪をかき上げた。
その拍子にナイトガウンから白い二の腕が覗き、嘉助は耳まで赤くなる。
「うふん(じゃあね、坊やたち。呼ばれているみたいだから、行かなくちゃ)」
「へー! へー!(呼ばれてる!? 一体誰に!? もしや姐さんを抱いたとかいう、数々の男たちの元へ!?)」
ぷるぷると震える右手を、すがるように差し出す嘉助。だが、無情にも姐さんは「んー、まっ」と非常に艶っぽい投げキッスを一つ残し、霞みのように消えていった。
「へむー!!(ああっ! 姐さん! カムバーックッ!!)」
すぐ隣でそんな劇的(?)な展開が繰り広げられているにも関わらず、やっさんはマイペースに離乳食を食べ進めていた。
「あーだー(うーん、美味しかった~)」
やっさんが拳で口を拭う。皿は見事に空になっている。
そしてマスターが入店時に持って来てくれていた水で手をパシャパシャと洗った。途中で水遊びが楽しくなったようで、結果、辺りが水浸しになってしまった。
そうか、この水は手洗い用なのか、と顔にいくらかの水滴を受けたマー坊は心の中で納得した。ボウルのような透明な皿に注がれていたので、飲みにくいなと思っていのだ。と同時に、飲まなくて良かったなと安心する。危うく恥をかくところだった。
やっさんはぽっこりと突き出たお腹を両手で擦りながら、周囲を見渡している。きっとおかわりをするかどうか考えているに違いない。が、結局、おかわりはせずにマー坊へと向き直った。空腹が緩和したことにより、ようやく新顔の存在を思い出したらしい。
「いぁー(ほったらかしにしてごめんね。ああ、カウンターの方も結構埋まってきたね)」
やっさんの言葉で、マー坊はカウンターの方へ視線を向ける。
そこにはスツールが並んでいる所と、何も無くてスタンディングバーのようになっている所があった。
「うー(嘉助さん曰く、あの辺はつかまり立ちが出来るようになって粋がってる連中なんだってさ)」
見れば、カウンターに全体重をかけている者、膝がプルプルしている者、バランスを崩して尻もちをつく者など、皆不安定な態勢の者ばかりだった。
「へあっ、へあーっ(へっ、何かってーと立ちたがるんだからよ。お前ら全員、教師に『廊下に立ってろ』とでも言われたのかってんだ)」
「えうー(出来るようになると、そればかりしちゃうよね。僕なんて寝返りを打ちすぎて、おむつ替えの時にお母様を困らせたものだよ。まあ、現在進行形だけどね)」
毒づく嘉助さんと、それをフォローするやっさん。二人は本当に良いコンビだ。
「へあっ(ふふん、俺なんて初めて立ったのと同じ日に伝い歩きが出来たからよ。まあ、あいつらとは違う訳よ)」
嘉助は得意げに掌底で鼻を擦った。
まだ体験してないけれど、自分の首や腰さえ満足に動かせないのだから、立つと同時に伝い歩きをするなんてよっぽどすごい芸当なのだろう。
マー坊が尊敬のまなざしを向けると、嘉助は鼻を高くして胸を反らした。逸らしすぎて、スタンディングバーにいる一人が視界に入り、その人のある部分に目が吸い寄せられた。
「あっ、あっ(あの人、顔に何か乗せてますね?)」
その人の目元には丸くてキラキラとライトの光を反射させているものがある。
丸くて黒い縁の付いた、透明なガラスである。
「なうー(ああ、あれは眼鏡だよ。視力が低い人が掛けるとよく見えるようになるんだとか。サイズが大きいのはきっと、両親か誰かのメガネを掛けているんだろうね)」
「あうー(へえ。よく分かりませんけど、頭が良さそうに見えますね)」
マー坊の周りには眼鏡を掛けている人が居ないので、新鮮に映った。
すると当の本人がこちらをパッと振り返った。眼鏡の隅が、ギラリと光る。
「むー!(誰ですか、私の噂をしているのは!)」
「あだ、う(ごめんね、この子は君のそのメガネが珍しかったから見ていたんだ)」
「むむー!(珍しい!? 他人の容姿についてあれこれと言うのはいかがなものでしょうか? 失礼だとは思いませんか? これは憲法13条、プライバシー権の侵害に当たりますよ。個人のプライバシーは尊重されるべきであり、むやみにこれを侵すと憲法違反であることは当然お分かりですよね? だいたい……)」
いつ息継ぎをしているのか分からない程流暢に、そして一方的に捲し立てられ、マー坊は目を白黒させた。
すると二人の間に嘉助が割って入る。嘉助がテーブルを叩くと「ぺたっ」という軽い音がした。
「へしっ、へしっ(おい、お前。講釈垂れるのはそのくらいにしろや。こいつは新入りでマー坊ってんだ。自己紹介してやんな)」
相手は話を遮られて納得いかない様子ながらも、ハイハイでテーブルまでやってくる。するとここでもまた、つかまり立ちをした。どうしても立ちたいらしい。
「むーん(私は教授・田中と申します。隣人とのトラブルや離婚問題でお困りの際はぜひご相談を)」
男は手のひらサイズの紙を差し出した。そこには不明瞭な線が所狭しと書かれていて、隅には手形が押されている。もちろん、マー坊には全く読めなかった。
「あーぅ(トラブル? 離婚問題……?)」
「むふーん!(プロフェサー田中と読んでいただいても構いませんよ)」
「あう……(ぷ、ぷりょふぇしゃー?)」
教授の言葉は、難解すぎて全く理解出来ない。マー坊は何だか、自分がとてもおバカさんになった気にがした。
「えあー(彼は、親からの読み聞かせが絵本じゃなくって六法全書なんだってさ。その他にもありとあらゆる専門書を聞かされたんだとか)」
やっさんの説明に、教授は胸を反らして鼻を高くしている。
彼が悦に入っている間に、やっさんはマー坊にこっそりと耳打ちをした。
「ねあー(もっとも、途中で寝ちゃうからどの知識も中途半端らしいけどね)」
「う……(それは……いえ、何でもないです)」
それは果たして教授と呼べるのであろうか。
だが、こんな呪文のような言葉を羅列されたら、自分でも途中で脱落してしまうだろうなと思ったマー坊は、神妙に頷いておく。
「むむむっ?(何か言いましたかっ!?)」
「ぅあ(い、いえ。何も)」
「むーん!(よろしい。ではまだこの世界の常識をほとんど知らない生まれたばかりの赤子のようなあなたに、私が知識を授けてあげましょう)」
教授はそう言うと、基本的人権がうんたらかんたら、知的財産権がうんぬんかんぬんと、いつ息継ぎをしているのか分からないくらい饒舌に語り始めた。
最初は頑張って聞いていたマー坊だったが、次第に瞼が重くなってきた。
夢の中だというのに、更に眠くなるとは。マー坊は必死で自分の腿を握る。力加減が出来ないので強く握りしめてしまい、目尻に涙が滲んだ。
すると、|カクテル<哺乳瓶>を持ったマスターが横を通り過ぎていった。
そこでマー坊は、まだ飲んだ分の代金を支払っていないことに気が付いた。
母親だという人がいつも玄関先やスーパーとかいう寒い場所で相手にお金を手渡しているのは見たことがある。
もしかして自分はとんでもなく失礼なことをしているんじゃないだろうか。
不安になったマー坊は、イラスト入りのメニュー表を食い入るように見つめるやっさんに尋ねることにした。
「ねうー(やっさんさん。ここのお会計ってどうなって……)」
お世話になっている先輩をやっさんと呼ぶのは憚られたので、妙な呼び方になってしまう。
やっさんは気にした様子もなく、「あうあ(ああ、それはね)」と答えようとした。
だが、それを押しのけた教授の顔がマー坊の視界一杯に広がった。
「むーむん!(まだ話は終わってませんよ!)」
そして頭に衝撃が走る。教授が拳骨をマー坊の頭に落としたのだ。
「あーっ!(痛いっ!)」
「ぎゃうー!(あー! いーけないんだ、いけないんだ! 体罰、体罰!)」
まだ頭蓋骨が完全に閉じてないから危ないんだよ、とやっさんが言う。
赤ん坊の頭蓋骨は三つに分かれており、完全に閉じていないのだとか。生まれる時に母親の産道を通りやすいように、または脳の急激な成長に対応しやすいように、などの説があり、完全に閉じるのは2歳頃らしい。
マー坊は自分の頭を触ってみた。すると、確かに中央部分にくぼみがある。
不安になってやっさんに確認すると、脳の周りは堅い筋肉の膜で覆われているので、ちょっとやそっとの刺激では心配ないそうだ。
「教授さんだけでなくやっさんさんも物知りだなあ」と感心しながら、マー坊は短い腕で胸を撫で下ろした。
「むむー!(これは体罰ではありません。言うなれば叱咤激励、つまり愛のムチというものです!)」
教授はずり落ちてくる眼鏡を拳で押し上げながら強気の釈明をする。
すると嘉助が顔を上げて叫んだ。
「やーっ!(てめえら、うるせーぞ! 人が恋人との別離の悲しみに暮れてるってえのによ!)」
嘉助の怒号が響く。
やけに大人しいと思ったら、嘉助は姐さんが残していったナイトガウンに顔を埋めて泣いていたらしい。
だが、マー坊にはそれに応える余裕はない。
教授の拳骨の痛みが後から押し寄せてきたのだ。
その痛みで現実世界に送り返されるのを感じながら、マー坊は「この世界で生きていくって、結構大変かもしれない」と早くも将来を悲観していたのだった。
登場人物 ※()内は月齢
・マー坊(3)キャラ付けのため、何かの教室に通おうかと考え始めたところ。候補は俳句か盆栽。
・やっさん(6)優しくて親切と見せかけて、結構ドライで腹黒な部分も。食べるとテンションが上がる離乳食は、汲み上げ湯葉。
・嘉助(8)きっぱりはっきりした性格だが、恋だけは不得手。出来心で姐さんの使用済みストローを持ち帰ってしまったことがあり、それを誰にも打ち明けられていない。
・教授(7)初登場。マー坊が来る前からBARに滞在しており、実は会話に参加したくてウズウズしていた。