2瓶目
「んー(お早いお戻りで)」
マー坊が再び眠りにつくと、またBAR Booへ来ていた。今度は店の前ではなく、先程までいたボックス席に自分が座っていることに気付く。
どうやらこの席が指定席になったようだ。きっと自分が現れる時も光っていたんだろうなとマー坊は思った。
向かいに居たやっさんの顔が、寂し気な表情から笑顔に変わる。
「へむー(また来てしまいました。……あれ、このクッションは?)」
ボックス席のソファーは汚れ防止のために皮素材で出来ていたが、そこにたくさんのクッションが積みあがっていた。マー坊はそれにうまく埋もれている。
するとマスターが狭い歩幅で歩いてきて、水を置き、クッションを整えてくれる。
「だーだ(その方が安定しやすいかと思いまして、差し出がましいですが置かせていただきました)」
「あー(ありがとうございます)」
それまでは傾いだ身体で無理に座っていたので、これは助かる。
おかげでやっさんの顔や店内が難なく見渡せるようになっていた。
見るとやっさんの脇にも大きなクッションが左右に一つずつ置かれている。自分に比べればだいぶ腰がしっかりしてきているように見えるが、完全には据わってないそうだ。
マー坊はもう一度あの夢のような味を確かめたくて、グラスを頼んだ。運ばれてきたグラスを、すぐに飲み干す。やはり夢のような味だった。
「うぁー(それにしても、えらく早かったね)」
マー坊がBAR Booに現実世界に帰ってしまってから、一時間も経っていない。
抱っこしてくれる人が再び揺らしてくれたので、比較的早く夢の世界へと旅立てたのだ。
「あー…(お母さんのこと、そんな風に呼んでるんだね)」
マー坊が事情を説明すると、やっさんが眉を下げた。
「うぁ(お母さんっていうのがまだよく分からなくて……。居なくなると困るのは分かるんですけど)」
目が覚めるととりあえずその人を探す。全部の欲を満たしてくれる人だからだ。たまにこちらの意図が伝わらなくてイヤイラすることもあるけれど。
二人で語らっていると、やっさんの隣、マー坊の向かいの席が輝き出した。
そしてしばらくすると嘉助の姿が現れる。
「へっきょっ(なんでぇ、なんでぇ、何の話をしてやがるんだ?)」
「んー(マー坊が揺らしてもらわないと寝られないって話だよ)」
「へきょきょっ(そいつはとんだ甘ったれだな)」
「あぁー(嘉助さんだって、夜間に何度もお乳を吸うのは甘えん坊なんじゃない? そろそろ飲まなくても朝まで寝ていられる月齢なんでしょう?)」
マー坊は知らなかったが、離乳食が軌道に乗ってくれば、夜間に母乳を飲まなくても大丈夫になるのだという。個人差はあるが、離乳食で十分に栄養が取れるので、お腹が空かないのだとか。それでも欲しがるのは、母親との触れ合いを求めていたり、おっぱいを吸って落ち着くためらしい。
確かにおっぱいは不思議な魅力がある、とマー坊は納得した。吸いながら寝るのはまさに夢心地だ。
「あーうーぁ(へっ、おっ母がどうしてもって言うから飲んでやってるだけさ)」
嘉助の耳が赤くなっている。どうやら痛い所を突かれたらしい。
そして聞いてもいないのに、母親が乳の出が良くて乳腺炎になりやすい体質だから自分が助けてやってるんだ、と立て板に水を流すように饒舌に語った。
「ま?(結構客が増えてきたな。夜も更けてきたからだろうな)」
見回すといつの間にかカウンターやボックス席が埋まっている。
姐さんも誰だか知らない人と細長いグラスで乾杯している。
ストローで飲む姿を見て、マー坊は「大人だなあ」と憧れの念を抱いた。
「ぶーっ(おい、何姐さんに熱い視線を送ってやがる? 生後3ヶ月のくせに、もう色気づきやがって)」
「あぶー(違いますよ)」
嘉助はすぐにへへっと笑った。冗談で言ったらしい。
「あ、あ(何だか皆さん大人だなあって思って見てたんです)」
「ん(今日は今のところお前さんが最年少だからな。そういや、新生児は見たことねえなあ。2ヶ月ならたまに見るけどよ)」
「むーん(そう言われてみれば。どうしてなんだろうね?)」
嘉助とやっさんが首を傾げる。もちろん、マー坊にも見当がつかない。
「だだっだ(その問いには私がお応えできるかもしれません)」
するとマスターが白くて丸いココット皿を持って登場した。
「だーだっ(お待たせいたしました、カボチャとサツマイモの裏ごしです)」
「う~(待ってました~)」
やっさんが皿を受け取る。
「んぶぅー(驚いた、ここは料理も出すんですか?)」
「だー、ばー(いえいえ、うちはBARなので、出来合いをお出ししているだけなんです)」
「はぐっ(このジャンクな味が恋しくなるんだよねえ)」
「むきゅー!(これがジャンク? へっ、だからボンボンはっ!)」
ベビーフードというのは、市販されている離乳食のことなんだそうだ。月齢ごとに食べられる食材が食べやすい大きさで入っていて、おまけに保存料が入っていないため、安心して食べることが出来るらしい。子供用品店だけでなく、薬局などでも入手可能で、母親手作りの離乳食よりもバリエーションがあって美味しい場合もあるのだとか。
マー坊も食べてみたいと思ったが、まだまだ消化器官が未発達なので、生後5・6ヶ月頃にならないと食べられないと言われてガッカリした。
ウィーーン
テーブルから音がして、何かが出てきたので、マー坊は驚いて目をまん丸にした。
出てきたのは、アームの先に小さなスプーンの付いた装置だ。やっさんが手元にあるボタンを手の平で叩くと、スプーンが上手く皿の中身をすくってやっさんの口元にやってきた。
「はぁ(へっ、そんな機械に頼るなんざ、お前さんもまだまだコドモだねえ)」
「むー(嘉助さんだってまだまだ手づかみ食べ出来ないじゃない。口の周りを汚すだけ汚して、口に入るのは1割がいいとこでしょ)」
「あーっ(そ、それで、新生児が居ないっていうのはっ?)」
嘉助とやっさんが険悪なムードになるのを見て、マー坊は慌ててマスターに尋ねた。
「あだー(そうでした、そうでした。新生児には朝と夜の区別がつかないからではないか、と私は考えています)」
マスターのその答えに、嘉助が両手をパチパチッと胸の前で合わせた。なるほど、と手を打ちたかったがまだ出来ないので、拍手で代用したらしい。
マー坊もなるほどなと思った。
確かに生まれたばかりの頃は今がいつなのか全く分からなかったが、今では明るければ「朝だな」暗くなれば「夜だな」と分かる。
それに、新生児の頃ほど頻繁に母乳を飲まなくても、長く眠れるようになってきたのもその要因かもしれない。何故か夜になると昼間よりも睡眠が深いのだ。
「はー(生まれたばかりの頃は3時間おきに起きてたからねぇ。それもオムツ換えてもらったり、ミルク飲んでたりで、実質、寝るのは1時間ちょっとくらいだったし」
いやあ、母親って大変だよねえ、とやっさんは他人事のように言った。
それを聞いて、マー坊は今でも自分を揺らし続けてくれているであろう母親のことを想った。まだ視界はぼやけているが、母親の顔は毎日見ている。笑顔を向けてくれてはいるが、髪は乱れていつも眠そうな顔をしている。自分のせいで疲れているのかなと考えると、申し訳ないなという気分になってきた。
「……あぁん(あなたたち、さっきから何の話をしているの?)」
華奢なスツールをくるりと回転させ、姐さんが話しかけてきた。
その拍子にナイトガウンから胸元と膝頭がチラリと覗き、一同はドギマギと視線を逸らした。
「わーふっ(いえいえ、大した話じゃねえんで。生まれたばかりの頃の話をちょっとね)」
それを聞いた姐さんは、手にしていたグラスをくるくると回し、目を伏せた。長い睫がライトに照らされ、陶磁器のような頬に影を落とす。
「……ん(生まれた頃……懐かしいわねえ)」
「うきゃー(姐さんが生まれた頃はどんな風だったんで?)」
「……あん(そうね……色んな男に抱かれたわ……)」
姐さんの大胆発言に、嘉助が気色ばみ、がたんと大きな音を立てて立ち上がった。
「ふわっ!(色んな男に!? そいつは一体、どういう意味でえ、姐さんッ?)」
「……んーぁ(ふふ、女の過去を根掘り葉掘り聞くなんて、野暮ってものよ)」
姐さんは人差し指を立て、それを自らの唇に当てた。
嘉助さんは耳まで赤くなり、「ふしゅう」と空気が抜けるような声を出した。姐さんの色香に骨抜きにされてしまったみたいだ。
「何だか大人の世界ですね」とマー坊が言うと、「それはちょっと違うんじゃないかな」とやっさんがツッコみを入れた。
登場人物 ※()内は月齢
・マスター(11)BAR Booのマスター。「だ」の発音が得意で、連続で5回まで言える。
・マー坊(3)この物語の主人公。BAR Booのメンバーのキャラの濃さに、主人公の座が危ういのでないかと内心危惧している。
・嘉助(8)姐さんにホの字。そのため、ライバル候補の男には常に睨みを利かせている。
・やっさん(6)いいとこのボンボン。好きな離乳食は賀茂なすの煮びたし。
・姐さん(10)謎めいた美人。ナイトガウンから胸元を見せるのはサービスの一環。