1瓶目
気付くと、マサヨシはとある店の前に立っていた。
いや、“立っていた”という表現は適切ではない。“ほふく前進スタイルになっていた”が正しい。
目の前にある店の入口には、横にスライドさせるタイプの洒落た扉がある。
だが、マサヨシにはその扉を開けることが出来なかった。両手でしっかりと自身の身体を支えていたからだ。
せめてノックをしよう。
そう考えたマサヨシは、利き手である右手を精一杯振り上げ、扉を叩いた。
すると目の前に立ちはだかっていた扉がすうっと横に動いた。どうやら、運良く自動ドアのタッチスイッチに触れたようだ。
開いた扉からは、同じく洒落た空間のBARが見えた。
右手には黒く長いカウンター、左手にはいくつかのボックス席。
黒を基調とした店内は落ち着いた雰囲気を漂わせており、BGMは音楽ではなく、砂嵐かさざ波のような音だった。
「ばぶー(いらっしゃい)」
出迎えたのは細い目とがっちりした体格をしたマスターだ。黒い服を着た彼は、カウンターの中でシェイカーを振っている。両手ではなく右手のみで振るのは、彼特有のスタイルらしい。左手も同じ動きをしているのはご愛敬だ。
「へあっ!(おや、お前さん、初めて見る顔だな。一見さんかいっ?)」
ボックス席の方から甲高い声が聞こえ、マサヨシは驚いてそちらに視線を向ける。
するとそこには二人の客が居た。
先程声を上げたのは目がぎょろっとした、ハッピに似た青い肌着を着た男。もう一方は上品な黄色の帽子とお揃いの寝間着を着た男だ。
「あー(よしなよ、嘉助さん。ほら、びっくりしているじゃないか)」
取り成してくれた男に勇気をもらい、マサヨシは恐る恐る口を開いた。
「だー(あのう、ここはどこなんでしょう? 僕、気付いたらこの店の前に居て……)」
戸惑っているマサヨシを見て、男性客の二人は顔を見合わせて頷く。
「うきゃー(いいだろう、俺たちが色々と教えてやるから、まずはこっちに来いよ……どうした、入って来れないのか?)」
「へむー(嘉助さん、彼、もしかしてあそこから動けないんじゃない?)」
「あーっ!(そうか! 昔のことなんで、すっかり忘れちまってたぜ!)」
嘉助と呼ばれた男はおでこを叩き、すっくと立ちあがると、テーブルに両手を乗せ、慎重な足取りでこちらまで伝い歩きをしてきた。
そして「ああー(ちょっと痛いかもしれねえが、ちっくと我慢してくんな)」と言い、マサヨシをうつ伏せにさせると丸太のように回転させてボックス席の向かいまで運んだ。
今までで一番寝返りを打たされたマサヨシは、目が回ってしまった。
「うーうー(ありがとうございます。あの、それで、ここは……?)」
マスターがトコトコと歩き、水を持ってきた。
「あだー(ここはBAR Booです)」
「ばーぶー……」
「あだー(言いやすい単語でしょう?)」
マサヨシは頷く。確かに、発音しやすい店名だ。
「ねー(それで、お前さんの名前は?)」
「ああー(僕はマサヨシと呼ばれています)」
「だーだっ(じゃあ、今日からマー坊だな。俺のことは嘉助って呼んでくんな)」
マサヨシは本名でも呼ばれようがあだ名で呼ばれようが一向に構わないので、了承する。
すると嘉助を見ながら、もう一人の男がそっとマサヨシ改めマー坊に耳打ちをする。
「へえー(嘉助さんね、本当は和也っていう名前なんだよ。江戸っ子を気取りたいからって勝手に名乗っているんだ)」
聞けば嘉助は東京生まれでもないらしい。マー坊は、よく分からないという考えを小首をかしげることで表した。首を全部かしげると、バランスが取れずに転倒してしまうからだ。
「うぅ(そうそう、僕の名前は康彦。ここではやっさんって呼ばれているよ。よろしくね」
マスターに嘉助にやっさん。状況はよく呑み込めないが、覚えておいた方が良さそうだ。
「えぇー(それでお前さん、齢はいくつだい?)」
「う?(齢?)」
「あだ(月齢のことさ。嘉助さんは君が生後何ヶ月なのかって聞いているんだよ)」
マー坊は一生懸命考えたが、自分が生まれて何ヶ月経ったのか分からなかった。
すると嘉助は「仕方がねえなあ」とでも言うように溜め息をつき、マー坊を観察する。
「あぷー(首は据わっているようだが、まだ不安定だな。小柄だし、発達が早いと見て……生後3ヶ月と少しってところか?)
マー坊は最近“3ヶ月”というフレーズを聞いたことを思い出し、小さく頷いた。
「あー(3ヶ月か~懐かしいね)」
「だー(遠い記憶すぎて忘れちまったぜ)」
「おぉ?(お二人はおいくつなんですか?)」
「むー(嘉助さんが8ヶ月で、僕は6ヶ月だよ)」
マスターは、と視線を動かすと、やっさんが意図を察して教えてくれる。
「あーうー(マスターは11ヶ月だよ。彼は特殊な宿命を持っていて、生後11ヶ月の終わりの日を何度も繰り返しているんだ)」
そんなことがあるのかと、マサヨシは目を見開いた。
続くやっさんの説明は、こうだ。
このBARは満1歳までの者しか来ることが出来ない(つまり、常にマスターが最年長ということだ)。
店は客のサイズに合わせているため、高さは1メートル半ほど。
実際に店がある訳ではなく、眠ると来ることが出来る不思議なBAR。
一度来店すると、次回からは指定席にそのまま来ることが出来る。最近は常連客ばかりなので入り口からやってきたマー坊のような客は久々なのだという。
「あーう?(そのまま来るって?)」
マー坊が疑問を抱いた時だった。
カウンターの隅、豪華な花の活けられた花瓶の横に、ぼやあっとした光が現れた。その光は徐々に強くなり、やがて人型になっていく。
「うきゃきゃ!(姐さん!)」
嘉助に姐さんと呼ばれたその細身の女性は、こちらに背を向けていたが、裸だった。いや、裸ではなく、下着姿だ。
姐さんは花瓶の横に置かれていた布を手に取ると、それをするりと羽織った。シルク素材のナイトガウンだ。
「きゃっきゃっ(姐さん、ほどほどにしてくんねえと目のやり場に困っちまうよ)」
振り返ったのは、大人びた雰囲気の美人だった。姐さんと呼ばれるからには、8ヶ月の嘉助よりも年長なのだろう。
姐さんは、嘉助を含める三人に流し目をくれる。
「あーん(夜寝る時は裸にシャネルのNo.5だけって決めてるの。ごめんなさいね、ウブの坊やたちには刺激が強すぎたかしら)」
確かに四六時中ネンネしているので何も言えない。
マー坊は、明け方は寒くないのかな、なんてことを考えていた。
「あだーあうー(姐さん、こちら今日初めてきたばかりのマー坊って者です。以後、お見知りおきを。……そうだ、お前さん、まだ飲み物すら頼んでねぇじゃねえか。何にするんだ? 3ヶ月なら白湯か、ミルクか、それとも麦茶かい?)」
嘉助が思い出したという風に尋ねると、注文する前にマー坊の前にグラスが置かれた。
「だっ(あちらのお客様からです)」
マスターは手の平で姐さんを示した。姐さんはマー坊に向かってウインクをする。
「うー(ありがとうございます、いただきます)」
マー坊はお礼を言い、グラスを手に取った(やっさんに手伝ってもらった)。ちょうどいい温度に温められたミルクは、完全母乳であるマー坊には癖の無い夢のような味だった。変わった形をしたグラスも非常に飲みやすく、いつもよりも難なく喉を通っていく。
「ねうー(気に入っていただけたようですね。ボトルをキープしておきます)」
ごくごくと飲むマサヨシを見て、マスターが破顔した。つられてマー坊も笑みを浮かべてしまう。まだまだ自発的に笑うのは難しいのだ。
マー坊がグラスを飲み干すと同時に、嘉助が自身の膝をぺしりと叩いた。
「まンま!(おっと、目覚めの時刻が来ちまったようだ。ちょっくら、おっ母の乳でも吸ってくらぁ)」
言うが早いか、嘉助の姿が次第にぼやけ、ついには消えてしまった。
「へー……(嘉助さんは母乳だから起きる回数も多いんだよ。君も見たところ母乳なんだろう? 僕はほとんどミルクでね。おかげでついつい飲み過ぎてしまって、少し太り気味なんだ)」
やっさんは出っ張ったお腹をさすりながら愚痴った。母乳よりもミルクの方が腹持ちが良く、睡眠時間も長いのだそうだ。おかげでやっさんはこのBARに誰よりも長く滞在しているらしい。
「ねうー(ああ、君ももう帰ってしまうんだね)」
やっさんがマー坊を残念そうに見る。気付けば、自分の身体がぼやあっと薄れていた。
どうやら目覚めの時が近いらしい。
すると現実世界の状況が次第に見えてきた。
世話をしてくれる人がさっきまで抱っこして揺らしてくれていたはずなのに、マー坊をベッドに横たえようとしているようだ。早く戻って、ずっと揺らすように抗議しなければ。
「あばばー(またのお越しをお待ちしております)」
薄れゆく意識の中、マスターの渋い声が聞こえた気がした。
登場人物 ※()内は月齢
・マスター(11)1歳の誕生日前日を何度も繰り返す、時に囚われた男。出生時には巨大児として全国ニュースに取り上げられた。
・マー坊(3)首が据わったばかりの甘えん坊。常に揺らされていないと深く眠ることが出来ない。
・嘉助(8)江戸っ子気取りだが人情厚い男。最近伝い歩きをマスターしたので、披露したくてしかたがない。
・やっさん(6)嘉助の暴走を止める役を務めるしっかりした男。お気に入りの離乳食は京豆腐のすり流し。
・姐さん(10)美しい容姿を持つ女。寝る時は基本オムイチ(オムツ一丁)だが、その私生活は謎に包まれている。