その優しい声を憶えてる
独り暮らしは寂しいものです。四人姉妹の末っ子として、存分に甘やかされて育った私にとっては……特に。
とある地方の田舎町出身の私にとって、都会での生活も、勿論、独り暮らしも初めての経験でした。
大学進学を気に上京を果たして数か月。季節は初冬。まるで身を切るような都会特有の寒さが、人の心までも凍らせてしまうような気がして。私の気分は、この頃どこかふさぎがちでした。
情けないけれど、未だに独りと言う環境に慣れることの出来ない私。四人姉妹という団体の中でしか個を見出すことのできなかった末っ子の私にとって、今の状況は全てが未知であり、全てが不安の連続です。半年。実家を出てからまだ半年。私にとっては、もう何年も何年も離れて暮らしている気さえするのに、まだ半年。寂しいという感情は、心の奥底に蓄積していくもので。それがいっぱいになると、時々、涙が溢れて止まらなくなることがあります。意味もなく、とめどなく。
一しきり泣いた後、思い出すのは決まってお姉ちゃんたちの事。
しっかりものの、一番上のお姉ちゃん。凄く厳しくて、凄く優しい二番目のお姉ちゃん。いつも明るくていつも笑顔な、三番目のお姉ちゃん。みんな、私が独り暮らしをするって決めたときは、凄く驚いてた。でも、すぐに応援してくれて。すごく心配してくれて…。辛くなったら、いつでも帰って来ていいよって、お姉ちゃんたちは言ってくれました。元来末っ子気質で、甘えたがりだった私にとって、その言葉は支えであり、誘惑そのものでもありました。勿論、お姉ちゃんたちのその言葉に嘘偽りも、裏も表もありません。けど、その言葉を額面通りに受け取っているばかりでは、私はいつまでも実家に居た時のまま。いつまでも、甘えたがりで気の弱い四女のまま。
私は、変わりたかった。
お姉ちゃんたちの背中に隠れ続けるだけの私から、守られるだけの私から、いつも後ろを向いてばかりだった私から。
だから、この独り暮らしは、私にとっての禊であり、通過儀礼。蛹が蝶になるように、私が個になるために、避けては通れない道。そう心の中で固く誓っておかないと、きっと今すぐにでも帰りのチケットを注文してしまいそうで。そんな時、私は、目を瞑ってゆっくり深呼吸をします。今日は、まだ駄目。明日は、きっといい一日。まるでおまじないを信じる少女のように、胸に手を当てながら静かに呟くのでした。
―― ガタガタガタ
いつになく冷たい北風が容赦なく吹き付け、一階にある私のアパートの部屋の窓を大きく音を立てて揺らします。まるで、嵐のような夜。築三十年のこのアパートは、決して上品な見た目とは言えません。一見すると、ちょっと何かが出そうな雰囲気。よく言えば風情のある、悪く言えば、まるでいわく付きのような…。でも、独りは苦手な癖に、どういうわけかホラー映画はへっちゃらな私にとって、それは特段大きな問題に思えなかったことが、私がこの部屋を契約した理由の一つでもあります。それに、肝心の部屋そのものは、大規模なリフォーム工事のおかげでまるで新築同様の真新しさに包まれた内装に様変わりしています。確かに見た目も大事だけれど、やっぱり大切なのは中身。それって、人間とおんなじですよね?
―― ガサガサッ
今度はアパートの脇にある砂利道を、何かが通った足音がしました。今の時刻は午前零時。お隣さんが帰って来たにしては、鍵を開ける音がしませんし、そもそも何だか人の足音じゃなかったような気もします。都会とはいえ、私の田舎ほどじゃないにしても野良犬も野良猫だって、カラスにコウモリだって見かけます。そもそも、女性が独り暮らしをするにあたって、アパートの一階に住むという決断は、防犯上あまり好ましくないことだとお姉ちゃんたちにもきつく言われました。いつ、何が起こるかわからない。でも、それは例え世界のどこに住んでいても、同じこと。それよりも、なによりも。私にとってこのアパートを選ぶに際し、何よりも大きな決め手となる特徴がありました。例えば、私の通う大学のすぐ近くであるということ、家賃がとっても安いということ。そしてもう一つ…
―― ガサガサッ
先ほどから、何かの物音が途絶えません。それに、何だかカラスの鳴き声も聞こえてきます。ああっ、もうっ。まるで嵐のようなこんな夜は、残念ながら眠れそうにありません……お姉ちゃん…。
◆
無事、夜が明けました。
案の定、私はほとんど眠りにつくことができず。一晩中、お姉ちゃんたちにプレゼントしてもらった大量のぬいぐるみと枕を抱きしめながら、ベッドの中で震えているばかりでした。どれだけ大仰な理想を抱こうと、どれだけ勇猛な大志を描こうと、やはりまだまだ私は私。そう簡単に変わることなどできません。
私は、窓の外をぼーっと眺め、ベッドの脇にあるこれもお姉ちゃんたちからのプレゼントである可愛らしいキャラクターものの目覚まし時計に視線を移します。時刻は午前6時半。うん。いつもよりちょっと早い起床の時間です。ほとんど眠れていないとはいえ、そろそろ目を覚まさないと。今日は確か、一限から必修の講義があったはずだから。私は、眠い眼をこすりながら、何とか立ち上がろうと努力します。
ぽすん。
あれっ? どうしてだろう。足に力が入りません。立ち上がったつもりが、ベッドに逆戻り。それどころか、どうしてでしょう。世界がぐるぐるぐるぐる回転してる。これ、これって、まるで、あれみたいかも。あれ、そう、めりーごーらんど! ふふっ。最後に、メリーゴーランドに乗ったのって、いつだったかなぁ? あれは確か、おねーちゃんたちに連れられて乗った、小さな遊園地の小さな白いメリーゴーランド…。おねーちゃんに抱き着きついて、泣きながら乗ったメリーゴーランド。周りの子たちは、みんなお父さんやお母さんと一緒に乗っていたのに、私は、私は…。
―― ピピピピピピピピッ
どうやら、二度寝をやらかしてしまったようです。私は、慌てて目覚まし時計のボタンを押し、恐る恐るその針に視線を移します。午前7時。ほっ、大丈夫。まだいつもの起床時間です。今度こそ、本当に本気で起きないと。そう思い、重い腰を上げます。
ぽすん。
……。体が、思うように動きません。そしてやっぱり、視線も定まらない。どうやら、やらかしてしまったのは、二度寝だけではないようでした。
這うようにしてベッドから抜け出た私は、異様な倦怠感に襲われながらも、なんとか近くの机から体温計を取り出します。この部屋に引っ越してきて以来、一度も使われることのなかった新品同様の体温計を箱から取り出し、自らの脇に挟みこむ。一瞬、ひんやりとした異物に体が反応し、飛びあがりそうになったものの、何とか平常心を保ちつつ、ふらつく頭で考える。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
風邪。もしかしたら、風邪かもしれない。
以前、何かで目にしたことがある。独り暮らしをしていて、何が一番大変だったかと言う話。テレビだったか、雑誌だったか。もしくは友達に聞いたことだったか。朦朧とした今の私の頭では、ちょっと思い出すことができないけれど、そのランキングの一位だけは、今でも鮮明に思い出せる。
そう。何を隠そう、病気になった時だ。
額に手を当てると、大量の発汗。何だか、動くたびに体のふしぶしに痛みが走る気がする。思わずごくりと唾を飲み込むと、案の定のどが痛い。お願い、どうか私の勘違いであって。どうか、まだ夢の中であって。未だ脇に体温計を挟んだままなので、両手を合わせると必然的に祈りのようなポーズになってしまう。そのまま、祈りをあげる代わりに再び夢の世界へ現実逃避な、罰当たりな私。
―― ぴーっ。ぴーっつ。
体温計の無味乾燥としたデジタル音が、私の意識を無理やり現実へと引き戻してくれる。安易な逃避は許してくれない。この厳しさ、何だか、真ん中のお姉ちゃんに似ているなと、独りで可笑しくなって、少し笑う。
38.5℃
ふふっ。やっぱりね。あーあ。ふふっ。どうしよう。何だか、意味なく可笑しくなってきて、もっと笑う。
その反動なのかは分からないけれど、急に寒くなってくる。きっと、この短時間で急激に汗をかいたせいで、体が冷えたのでしょう。勿論、発熱のせいもあるし、それを現実のものとして意識してしまったためと言うのもあると思う。
ちょっとだけ、途方に暮れる。
講義、休まないとだなぁ。薬、どこにしまってあったっけ? 食べるもの、冷蔵庫に入ってるかなぁ。まさか、インフルエンザじゃないよね?
なんだか、急に部屋が広く見える。
まるで、私の部屋じゃないような違和感と居心地の悪さ。
今日も、朝からガタガタと風が吹き付ける。強い風が。容赦なく。
急に、寂しさがこみ上げてくる。涙が、堰を切ったように流れ出す。あぁ、私は今、世界にたった独りなんだと唐突に理解する。
お姉ちゃんたちに、大丈夫だよって言ってほしかった。誰かに、見つけてもらいたかった。傍にいてほしかった。私は、どうしょうもなく、独りだった。
お姉ちゃん、お姉ちゃん、おねぇちゃん…… おかあさん…
熱のせいか。或いは、私の寂しさが見せた幻聴か。もしくは、その両方か。
「大丈夫、大丈夫よ」
どこからともなく聞こえてきた声。それは、とても不思議な声でした。聞いたことがあるような、或いはないような。どこか懐かしさを感じさせる声でした。優しさと、慈愛に満ちた声でした。
私は、意を決して、重い体を引きずりながら窓まで這った後、近くのタンスに捕まりながらなんとか立ち上がる。ピンクと白の花柄ドットのパジャマの裾で額の汗をぬぐい、窓の外をのぞき込む。人の姿は、見当たらない。ほっとしたような。どこか残念なような。私は、観念して再びベッドにもぐりこみ、無機質で真っ白な天井を見上げます。
「大丈夫、大丈夫よ。きっと、大丈夫」
恐怖は微塵もありませんでした。どうせ幻ならば、それでも良かったのです。ただただ、独りが嫌だった。とにかく、独りきりになりたくなった。今にも、今すぐにでも全てから逃げてしまいそうな気がして。とにかく、誰かの声が聴きたかった。だからこそその声は、ギリギリのところで私を支える、一本の命綱のように思えたのです。今にして思えば、その声はどこか子供をあやす母親のような無償の愛と包容力があったように思えます。
少しだけ冷静になった私は、汗だくとなったパジャマを着替え、簡単な朝食を作り、薬を飲み、たっぷりの水分を補給し、水枕とおでこに冷却シートを準備し、教授に欠席の連絡を入れた後、再びベッドにもぐりこみます。自分でも、驚くほどの手際の良さでした。まるで、お姉ちゃんたちに看病されているかのような手際の良さでした。
「あなたは、きっと大丈夫」
優しさに満ち溢れたその声を聴きながら、私は、目を瞑りました。
私は、母の顔を殆ど覚えていません。少しだけ年の離れた三人の姉が、いつも私の母代わりでした。だから、幼くして母を亡くした事を、悲しいと思ったことなど一度もありませんでした。
けれど、先程から聞こえるこの声は、何だかお母さんみたいに感じたのです。その声を聞いたことなんて、殆どないはずなのに。何だか不思議だなぁと思い、私は、少しだけ笑いました。
「♪_~♪~_~♪」
それは、聞いたことのない歌でした。それどころか、聞いたことのない言葉でした。けれど、不思議なことに。何故だかそれが、子守歌だということだけは、私には、はっきりと理解できました。
まるで誰かに優しく抱きしめられたかのように。すっかり安心しきってしまった私は、その歌を枕にして、ゆっくりとゆっくりと夢の世界へと、足を踏み入れたのでした。
翌日。
すっかり全快した私は、少しだけ早くに目が覚め、ふと、外の空気が吸いたくなって一日ぶりにアパートの外に出ました。
《それ》を見つけたのは、ほんの偶然でした。私の部屋の、窓の傍の、恐らく、普段ならば絶対に気にかけることのないであろう死角。
まるでお正月のお餅のようにして丸まって眠る一匹の、真っ白な子猫と……その子猫に覆いかぶさるようにして寄り添う、母猫の、遺体。
◆ ◆ ◆
結局、私は、その日も講義をお休みすることとなりました。
知り合いの獣医さんのもとへ、私が涙と鼻水交じりの必死の形相で二匹を連れて行ったのは早朝の話。
幸いにも。子猫には目立った外傷もなく、健康そのものでした。ただし、母猫の方は素人の私が一目見ても分かってしまったように、やはり、助かりませんでした。
子猫と同じく、もともとはきっと、綺麗な純白の体毛だったのだと思います。けど、その体は数多くの傷と、自らの血液によって真っ赤に染まっていました。思わず、目をそむけたくなるような、痛々しい姿。先生によると、《死後1日以上が経過している》とのことでした。その言葉を聞いた私は、あの、一昨日の騒がしい嵐のような夜を思い出しました。あの足音は、この母猫たちによるものだったのではないか? あのカラスの鳴き声は、そして、この母猫の傷は…。
そして何より。あの声の正体について、私は想いを馳せずにはいられません。
熱にうかされた私の脳が聴かせた幻聴。確かにそうかもしれません。まるで私に語り掛けてくれていたかのような、あの声は……母猫が、子猫に語り掛けていたものだったのではないか?
母猫が、子猫を安心させたい一心で、そんな想いが、何かを超越して、語り掛けていたのではないか?
きっと、そんなことを言ったら、お姉ちゃんたちに笑われてしまいますよね?
そして。もしも私が風邪なんてひかなければ。もしもあの嵐のような夜、私が物音に臆せず、外に出ていれば。結果は違ったのでしょうか?
だからこれは、罪悪感を感じたからとか。贖罪とか。子猫の境遇に同情したからとか。母猫の想いに心打たれたからとか。私が母と同じ獣医を目指しているからとか。あの時の子守歌の恩返しとかでは、全然なくて。
ただ単に。このアパートが、ペット可であることが大きな特徴だから。
だから、私は、この仔と一緒に暮らすことにしたのです。
勿論、まだまだ駆け出しの私が、独り暮らし初心者の私が生き物を飼うだなんて、とてもとても大変なことだと思います。けど、それでも。私にはそれが必要なんだって、私は、心からそう思うんです。
だって、独り暮らしは寂しいですから。
END




