骨組みと肉付け。
私塾を構える芸術家が塾生に与えた課題の一つに『自分作り』があった。文字通り自分を摸した人形をつくるのだ。作り方は難しくない。
きれいな針金を二本手に取り、人の形を作る。わっかの頭に、よじられて針金二本分の太さになった胴、そこから左右にわれる二本の足。首もとに両腕となる針金をあてがって固定し、絵に書いたような棒人間が出来上がる。これが骨組みだ。
次に紙粘土で肉付けをする。自分の体を、自分の内面をイメージして。肉付けが終わったら、好きなように服を着せ――絵の具で描いたり、実際に布で服を作ったり、色とりどりの毛糸をまいてみたり――て、顔を書き込み十人十色の『自分』の完成である。
不思議なことに、全員が全く同じものを作っているのに誰ひとり同じではない。同じものを作るから、逆に差異が目立つのだ。
小説においてはどうだろう。人の作る形は様々だ。人に留まらず犬猫羊……。皆が自分だけのものを書こうと躍起になっている。
マイノリティは必ずしも偉くはない。
そもそも偉い偉くないの話ではないが便宜的に表現させてもらおう。
もちろん、マジョリティだって偉くはないが。何度めか、再び言おう。
オリジナリティが偉いのだ。
マイノリティ? 求められないものに希少価値などない。マジョリティ? 要らない、いらない。他のものがあぶれている。
既製のものをなぞらえて書くことに面白さがあるものもある。が、それはこのサイトでは縁遠いものであろう。むしろ同じ筋書きのものを複数人でそれぞれに書きあいたい書き手がいるのならば、それは是非試みるべきだろう。
針金で作った棒人間を筋書き、粗筋としたとき、それに紙粘土で肉付けしたら、必ず万人が万人違う人形が出来るはずだ。
同じものを作っているのに違う。そして違うからこそ面白い。
我々は皆と同じ人形を作っている。犬なのか猫なのか、差異はあれど。
小説とはその差を魅せるものなのだ。
異世界? 勇者? 書き手達のもっている針金の人形は既製品か? まさか、粘土の段階で既に大量生産されている製品か?
作者がオリジナリティがあると思っているものほど他の作品との類似点が際立つ。
まあ、そもそも異世界だなんだという生き物の針金人形はその通りに作るにしても。もちろんそれがオリジナルだとか勘違いしてしまっても。
同じ生き物を作るのなら、せめて真っ直ぐな針金を捻るところから始めたらいい。
既存のものとの違いは人目でわかってもらえるのだから。