最強。
最強とセットでついて来るのは、最強さん単体では打ち破れないような敵である。数だったり、頭脳だったり。最強さんが想定しないことだったり、その盲点をついたり。時には心の弱さであったり。
最強で話を書く欠点に、主人公が成長しない点がある。成長しても意味がないからそうなるのだ。
「最強」の単語が出てくる話は何らかの形で戦闘するシーンがあるのだろう。敵に勝つと分かりオチの見えている、つまり最初からネタバレの状態も欠点になりうる。
てっぺんにいる「天下の最強さん」をひたすら書くだけの小説は、主人公になりきって悦に浸るだけのもの。妄想を実現、手助けする道具だ。
作品を通しての目的(伝えたいこと、えがきたい人物像や人間関係)があるならそれは素敵なことだが、どれだけがそれを持たないでごまかしている小説だろうか。
最強というステータスを持つ者は無意識のうちに慢心を抱える。また、そのステータスを努力でない才能や何かで得たならば「浮かれかた」も問題として浮かぶ。産まれながらの才能である場合、人格も確かとしてしまうのは出来過ぎだ。
天から降って来たように突然に与えられたなら、どうしてそれを正しく扱えよう。能力的にも心身としても。
人は想像の中でくらい強くありたいと願うようだ。
世界観とその物語の中に入り込んだときに出来ることを、主人公をもって書けば自慰の肴はもうそれでよい。
健全な官能小説とは、矛盾しているがこれのことではないか。そういう意味で異世界やハーレムに通じ、タグに仲良く並んでいるのか。
チートについてもそうだ。
チート。
日本では、ゲームならずるやいんちきとして使われる単語だ。日常においては頭抜けて力を発揮する人物を指したりもする。
小説家になろうにおいてはまた違い、「最強」の上を表すようだ。「絶対」と表現できるかもしれない。
これが出てくる作品には明確な終わりがない。
「最強さん」が「最強から二番目さん」と争う結果、僅差で最強かもしれないが「絶対さん」は違う。どんな課題が発生しようがあっさり解決する力を有する。
最強を超えて話の起伏が無い。あってもワンパターンの波を繰り返している。
話が膨らまない。まとめる内容が無いから終わらない。
小説において、強いということは読んでいて爽快かもしれない。
だが「最強」や「絶対」が素晴らしいのは現実でだけだ。それらがどんなに目に素敵に映っても、はなから豊かな物語は乏しい小説である。