三題噺 『ギター 手錠 コンパス』
三題噺シリーズ第二弾。 友達からテキトーに選んでもらった単語三つを題材に、話を作ります。 暇つぶし程度に読んでいただけたら幸いです。
困った。超困った。
日本国民ならば、約半数以上の人間が自堕落に過ごす日曜日の昼下がりに、俺はというと二十年強の人生の中で一番と言っても過言ではない緊急事態に襲われている。
朝起きた。それはいい。
朝食をとって歯を磨いた。それもいい。
買い物に行こうと思ってドアを開けた。そこまではいい。
「あんた誰?」
見知らぬ女性が、まるで花見の席を確保するかのように玄関の前に陣取っていた。
あんた誰、はむしろ俺の台詞だと思う。
初対面の奴にあんた呼ばわりされるのも気に食わなかったし、人の家の前で何やってるんだとも思ったし、なんというか、こう、全てが規格外すぎて思考回路がショートした。
よし、警察だな。健全な日本人ならば、そう思い行動するのだろう。
俺だってそうしようと思った。
「……黒沢直澄」
と思ったら、素直に質問に返答していた。俺は何をしているんだろうね。
しかし、俺が頭を抱えているのをよそに、その女は俺の回答に納得したのだろうか、立ち上がり俺と対峙した。いや、睨めつけるというほうが正確かもしれない。とにかく、すごい目力で見つめられた。
「そうか、そっか。ならいいんだ」
そして、よくわからないというか理解しがたい意味不明な返事をして、俺の家の中へとずかずか入っていく。
その時、なんとなくだが、彼女は無害なような気がした。それは勘に過ぎないが、俺を見つめたあの瞳は、とても犯罪者の目には……
ちょっと待て。
「おい。なに人様の家に、我が物顔で入ってんだお前は」
訂正しよう。犯罪者の香りがプンプンする。今は、犯罪者としか思えなくなってきた。
そんな俺のちょっぴり怒号をブレンドした声を聞いてもなお、女は自分のペースを崩そうとしない。
それどころか、「汚い家だけどかまわないよ」なんて言い出し始めた。
コノヤロウ、会ってものの数分でふてぶてしくなりやがって。
「おい! いい加減にしろ! お前、警察呼ぶぞ!」
脅しなんかではなく、結構本気で言った俺は、女の肩をつかんだ。
すると、彼女の体に触れた今になって気がついたのだが、こいつ、めちゃめちゃ細い。女性に細いというと、プラスなイメージがあるが、それとは全く違う。
このまま力入れたら、簡単に折れそうなくらいだ。それくらい、病気的なまでに細い。
あまりの細さに俺はビックリし、少しだけ怒りがどこかへ飛んでいった。
そんな時に、こんなことを言われたからだろうか、
「あー……、深見だ。よろしく」
俺は、怒る気力も失せた。
だって人が本気で怒ってるときに自己紹介なんて、正気の沙汰じゃないよ。マイペースというか、自由奔放すぎ。野生児か貴様は。
というか、自分の名前だというのになんだその間は。
俺こいつ苦手だ。出会って早々こうも人に嫌悪感を抱かせるなんて、ある意味凄い奴なんじゃないだろうかこいつは。一種の才能ではなかろうか。
「……はぁ」
俺はなんだか、どうにでもなれという気持ちになり、ひとつ溜息をついた。
わかったわかった。もう面倒くさいから、コーヒーの一杯でも飲まして、帰ってもらおう。
俺は諦めの早いことだけが取り柄だ。そして極度の面倒くさがりでもあり、ついでに楽観主義者でもある。まぁなんとかなるだろう、で全てにキリがついた。
こいつを警察に引き渡すのは、一息ついてからでも遅くない。
そう思った俺は、とりあえず先ほどから気になってきたことを彼女に聞いてみることにした。
「で、なんでお前は手錠なんてしてるんだ?」
◆
俺の名前は、黒沢直澄。
歳をとることがいかに死活問題であるかを学び始めた、いたって平凡な二十四歳だ。
夢を見て上京してきたものの、挫折。今はしがないサラリーマンとして、のうのうと暮らしている。
そして、この女。名を深見と名乗った。
下の名前は? と何べん聞いても、
「我輩は深見である。名前はまだない」
などと、ふざけているのかはぐらかしているのか分からない返事を繰り返すので、俺は聞くのをやめた。きっと深見にとって、聞かれたくない、踏み込まれたくない領域なのだろう。
そう、信じたい。
彼女を家に招き入れた俺は、座るよう促し、コーヒーを淹れてやった。
この前奮発して買ったいい豆だったので心惜しかったが、そこをグッと押さえる。我慢だ、我慢。
脈略や経歴はともあれ、一応こいつも客人なんだから。
「あ、私コーヒー嫌い」
ぶちまけてやろうかと思った。
しかし紳士な俺は、胸の奥底からこみあげてくる怒りを抑え、冷蔵庫から麦茶をとりコップに注いだ。この意味不明で正体不明、おまけに身元不明のこいつを家に招き入れた俺にも責任はある。多少のことには目をつむるとしよう。
多少じゃないことしたら、警察につきだそう。
「……飲みにくいな」
手錠をしたままコップを口元にもっていく深見は、なんだか見ていて危なっかしい。
ぶつくさ言いながらも、喉の渇きには勝てないようで、一気に飲み干した。
こぼすんじゃないかとハラハラして、逆に俺が疲れた。
「手錠してるってわかってるんならさ、ストロー付けるなり何なりしたらどうだ」
「深見、お前はストローで麦茶を飲みたいか?」
「……すまん」
深見は見たところ、俺と同い年か、少し年下のように見える。髪は無駄に長く乱れており、ノーメイク、なんと言ったらいいか、少しみすぼらしい印象を受ける。
この世に絶望したような、光が宿っていないように見える瞳も印象的だった。
そして、なんと言っても手錠。
深見を戒めるかのようなその手枷が、よりいっそう彼女を普通から遠ざける。
そういえばまだ理由を聞いていなかったな。先ほどは「とりあえず中に入れてくれないか」なんて言われて、ちゃんとした返事をもらっていなかった。
「ん? この手錠か……」
深見はジャラリと音を立てながら腕を持ち上げる。その仕草が、囚人のように見える。
すると、何も臆することなく、興味なさげな目でこう言った。
「父につけられたんだ」
それを聞いた俺は、あまりにも意外すぎる答えにしばらく呆然としていた。
この女を育てた父はどんな神経をしているのかとも思ったが、なによりも、この手錠をつけたのが性質の悪い友人やイジメ、もしくは自らの性癖によるものではなく、肉親によってつけられたことに、だ。
手錠の理由を聞いて、思いっきり馬鹿にしてやろうと思ったが、どうやらそういう空気ではなさそうだ。
もしかしたら俺、聞いてはいけないことを聞いてしまったんじゃないか?
「私の父は、血が繋がっていなくてな」
なんだか俺は、その続きがなんとなくわかるような気がした。
「というのも、両親は私が中学生の頃に離婚してな。私は母親の方についていったんだ」
それ以上言うな、そう俺の中で緊急信号が鳴り響いている。
「それで私が高校生になったぐらいの頃、再婚したんだがな……、これがまたヒドイ男で」
話はいたってシンプル……、というか昼ドラのありがちな展開といった感じだった。
再婚相手は酒癖が悪く、ギャンブルに走り、酔っ払っては母と深見にしょっちゅう手を出していたらしい。そんなクソッタレ親父のことを話す深見は、一切怒る様子もなく、ただ淡々と事実を述べているだけだった。
きっと、怒るだけの気力も奪われたのだろう。
「黙ってれば殴られるだけで済んだからな、母も私も必死に耐えたんだ。だけど、一週間前のある日、あの男は私の宝物に触れやがってな……。反抗したら、手錠に監禁もどきさ」
「ひどいな、そりゃ」
俺も平静を装っていたが、怒りを隠さずにはいられなかった。
俺が怒るのはお門違いだが、それでもだ。
「一週間近く、ほぼ飲まず食わずの状態が続いて、ああこれはヤバイって思って、命からがら逃げ出したんだ。ただでさえ痩せまくってた体が、余計に痩せてしまったよ」
ハハハ、と自嘲気味に話す深見はなんだかとても弱いのに、強く見えた。
やせ細って、魅力もへったくれもない彼女に、少しドキリとしてしまったのは、同情からなのか。
そして俺はというと、この非日常にとけこめないでいた。
DVなんて、ブラウン管の向こうの世界だと思っていたから。この世界には、不幸な人がたくさんいると分かっているはずなのに、そういった出来事は、どこか違った世界のことのように思っていたのかもしれない。
「……あー、つまらない話をしたな」
バツの悪そうな顔をする深見。頭をかこうとするが、手錠のせいでとてもやりにくそうだ。
眉間にしわを寄せているのが自分でも分かるほどイラつく俺に気がついたのだろう、深見は話を変えようとキョロキョロと部屋中を見渡している。
こいつにも、人を気遣うことができたんだな。感心、感心。
そう思っていると、なんだか怒りも収まってきた。
「あ、黒沢さんギターやるんだ」
深見はどうやら俺の部屋の隅にあるギターを発見したようだ。
忘れられたように、日用品の山に埋もれるエレキギターのケース。それはもう何年も使われていなく、もはや俺の部屋の一部と化している。
俺の、過去が詰まった、ギター。
「昔の話だ。あと、さん付けしなくていい」
「聞いてみたいッスね、自分」
急に中途半端な敬語を使われても気持ち悪いだけだ、というツッコミも忘れ、俺はギターに見入っていた。こいつをまじまじと見たのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。
過去のこと、俺がギターを弾いていた頃のこと、そしてギターを捨て平凡な人生に身を投じたこと、色々な出来事が俺の中を走馬灯のように駆け巡っている。
それを振り払い、俺は深見に強く言った。
「無理」
「弾けないのに部屋においてあるのか?」
「今は、無理」
「……そうか」
俺が強く拒否するのに、深見も気がついたのだろう。
踏み込まれたくない過去が、俺にだってある。同じように踏み込まれたくない過去を持つ深見だからこそ、それ以上聞く気にならなかったのかもしれない。
「……深見は、なんでここに?」
今度は、俺が気を使う番だった。
思えば、変だ。ぶっ飛んだ父親から逃げてきたのはわかるが、どうしてたどり着いた先がこの部屋なのだろうか。そんなもん、警察に行けばいいし、父親に脅されていて警察にいけないのだとしても、知り合いの家に行けばすむ話だ。
こんな、ボロっちいアパートに、命からがら逃げてくる理由がわからない。
いや、行き当たりばったりでここに来たのなら納得だが、ここは二階だ。
階段をのぼる意味がわからない。
「こいつが、ここなら大丈夫って教えてくれたんだ」
すると、深見はポケットに片手(といっても手錠のせいで両手を突っ込んでいるように見える)を突っ込んで、何かを探すようにまさぐっている。
そして、あるものを取り出し、俺に付けつけた。
「方位磁石?」
深見の両手には、方位磁石、コンパスとでも言うべきか、とにかく方角を示す例のアレが握られていた。青みがかった光沢で覆われているが、少しハゲている。どうやら年季が入っているようだ。
円形のガラスの内側には、常に北を向く針が鎮座している。
「これは私の宝物なんだ」
「さっき言ってたやつだな」
「そうだ。これだけは自分のもとに置いておきたくてな」
そう言うと深見は、コンパスを優しく撫でる。
なんちゃってヤンキーみたいなけわしい表情常備の深見だが、このコンパスを見つめる表情は聖母のように安らかだ。俺はそれに、見入っていた。
こんな表情もできたんだな、こいつ。
それを見るだけで、このコンパスが深見にとって、どれだけ大切なものなのかが分かる。
「で、こいつが教えてくれたとは?」
どうやら深見は、これ以外の所有物は一切持ち合わせていないようだった。
食料や金を差し置いてコンパスを選ぶあたり、彼女の本気がうかがえる。
「このコンパスは、魔法のコンパスでな」
「は?」
「私が行きたいと思った場所を、指してくれるんだ」
コンパスを優しく撫でる深見は、なんの臆面もなくそう言った。
最初こそ、また俺をからかってんのかこの電波女警察突き出すぞコラ、と思ったが彼女の口ぶりから、どうやら本気で言っているようだ。
いや、嘘じゃなかったら何なのかと言いたいが、『深見だから』という理由で全部片付いてしまう。
深見、恐ろしい女。
「私をかくまってくれる優しい奴のところに連れてって、と願ったら、針はここを指してくれたよ」
「……そうかい」
何か文句や揚げ足のひとつや二つ言ってやろうとも思ったが、やめた。
きっと、父親の暴力のせいで少し疲れているのだろう。なにかすがる物が欲しくて、それが彼女の宝物のコンパスだったのだ。深見の中で、きっとこのコンパスが心の支えであり、そう依存している内にこのコンパスは彼女の中で神格化されたに違いない。
そう、自分を丸め込むことにした。
「世話になった。そろそろ私は去るとするよ」
そう言って、深見は立ち上がった。
立ち上がると同時に、彼女の手錠が音をたてる。
俺には、なんだかそれが、彼女の『助けて』という悲鳴に聞こえた。
「待てよ」
気づくと俺は、深見の腕を、まるで母の手を掴む子供のように握り締めていた。
このまま深見が消え、日常が戻ってくることを俺は望んでいるはずなのに、俺の手は深見を求めている。
棒切れみたいに細い、深見の手を。
「このまま帰ったら、またお前ヒドイ目に遭うんだろ?」
「そうだが……、これ以上黒沢に迷惑はかけられん」
口ではそう言いながらも、深見の手は震えている。きっと、家に帰って父親に怒られるのが恐いのだろう。理不尽に怒られるのが、恐いのだろう。
ここで深見を帰らせる訳にはいかない。
珍しく、自分がムキになっているのに気がついた。
「家に上がりこんでる時点で、とっくに迷惑かけてんだよ。逆にここで帰られた方が、後ろめたくなって逆に迷惑だ」
「でも、麦茶くれただけで私には十分……」
そう深見が言いかけると、彼女の腹が飯を求めるように、盛大に泣き喚いた。
それを聞いた俺は腹を抱えて笑い、深見は頬を赤らめた。
知り合ってまだ約一時間だが、無表情に見えたこいつの様々な表情を見れて、なんだか俺は嬉しくなった。
「チャーハンでいいか?」
「……うん」
深見は再び腰を落とし、恥ずかしそうに俯き、返事をした。
◆
「……すごく硬いな」
「ああ、ちょっと痛いかもしれんが我慢しろ」
夜、俺達はお互いに向き合い、奮闘していた。
結局あのあとチャーハン大盛り三杯をケロリとたいらげた深見は、また俺の家を去ろうとしたが、俺がそうさせなかった。
暴力親父のところに深見をつき返すくらいなら、どこの馬の骨かもわからん俺のボロアパートにいたほうが万倍マシだ。年頃の男女が同じ屋根の下、というのはいささか公序良俗に反するとの意見もあがったが、「誰がお前に発情するかよ」と俺が反論したところ、手錠をしたままの両腕で殴られ、「襲ったら殺す」という条件のもと、深見は俺の家に厄介になることが決定した。
ちなみに、「お前もな」と反論したらまた殴られた。
「……痛っ! もっと優しくしろ」
「す、すまん」
しかし、出会ったばかりの生気が感じられない頃より、ずっと明るくなったと思う。
それだけでも、収穫があったというものだ。
「はぁ……、はぁ……。深見、ちょっと休憩」
「あ、ああ」
ちなみに今は、手錠がどうにか外れないものかと奮闘しているところだ。
引っ張ったり、叩いたり、刃物を使ってみるが、結構本格的な手錠らしく全く外れる気配がない。今度、ホームセンターにでも行って仰々しいペンチでも買ってくることにしよう。
ちなみに、この会話を聞いて、十八禁的想像をした奴は心が腐っています。
「駄目だ。スマン、明日にしよう」
「迷惑かけたな。私はこのままでも構わないが……」
なんだ、深見はマゾヒストか。と言いかけたが、また殴られそうなので黙っておくことにする。
きっと俺に気を使ったのだろう。だから俺も何も言わない。
「明日から俺は仕事だ。寝るぞ」
そう言って、俺は狭い部屋に敷かれた布団を指さす。客用の布団が一つあってよかったと、本気で思う。さすがに同じ布団で寝るというのは、無理があるからな。
深見が頷き、もそもそと布団に入っていくのを確認した俺は、電気を消す。
さて、俺も寝るとしようか。
「黒沢、起きてるか?」
数分経っただろうか、二人とも床に就き、俺もだんだんうつろになってきた時、何か思いつめるように深見が俺に尋ねる。
何事か、とも思ったが俺は深見を背を向けながら、適当に返事を返した。
「黒沢には、本当に感謝してる」
「俺が勝手にやったんだ、気にするな」
それでもだ、と付け加え深見は繰りかえし俺に感謝の言葉を述べる。
人に感謝されるなんてしばらく無かったので、俺はなんとなくくすぐったい気持ちにっなった。
出会った当初の彼女に対する不信感は、もう一切ない。
「その、答えたくないのならいいが……」
深見はなにやらモゾモゾと布団の中で動いているようで、体と布がこすれる音が聞こえてくる。
どうやら俺にとって答えずらい質問をするようだが、深見らしくないなと俺は思った。
言いたいことはハッキリ言え、と俺が言うと深見は一呼吸置いて、
「ギターは、もうやらないのか?」
と尋ねた。
その声にはためらいがあり、声は深見のものではないかのように上ずっている。
きっと今朝、ギターのことについて、口を閉ざし俺が強く拒否したことを気にしているのだろう。
「お前はそれを聞いて、どうする」
俺は怒気を強める。
しかし、深見はおののきもせず、今度ははっりとした口調でこう言った。
「お前は私の秘密を知った。軽蔑され、哀れみの目で見られるであろう秘密を、だ。だけどお前はそれを聞いても何も言わず、受け止めてくれた。ご飯もくれた。泊めてくれた」
「ただの同情かもしれないぜ」
「それでも、私は嬉しかったんだ。話を聞いてくれて、少し心が軽く、楽になったんだ。私は、お前にも少しでいいから楽になって欲しい。……こう願うのは、いけないことか?」
あとで思い返したら悶絶しそうな恥ずかしい台詞を、何の臆面もなく言いのける深見。
聞いてるこっちが赤くなるような言葉だったが、なんだか俺は心を打たれた。
やれやれ、俺もこいつに大分毒されちまったようだな。
俺は、こいつになら全てを話してもいいような気がしていた。
「話せば長くなるぞ」
「聞かせてくれ」
俺はゴロンと寝転がる体勢を変え、仰向けになって両手を頭の後ろで組む。
そして、一呼吸入れて、こう切り出した。
「好きな女がいたんだ」
◆
思えばあの頃は、突発性中学二年生症候群に感性していたのかもしれない。
俺は中学生になると、何事も社会が腐っている、時代が駄目だ、政治家が、と主張した。
それを誰かに伝えてたくて、必死に詩にのせた。
それを書き綴ったノートは、俺のA級黒歴史としてタンスの奥隅で永遠の眠りについている。
二度と目覚めることは無いだろう。
この詩を、もっと多くの人に聞いてもらいたい。
俺の主張を、理解してほしい。
そう思った若気たっぷりの俺は、自慢の行動力を活かし、小遣いやお年玉を貯めに貯め、安くてちゃっちいエレキギターを買った。『音楽は国境を越える』、中二病まっさかりな俺はそんなフレーズに感銘を受け、この詩に曲をつけることにしたのだ。
詩から歌へ、嗚呼なんて跳躍。とか思ってた当時の俺の目を覚ましにいってやりたい。
何ヶ月練習しただろうか、かろうじて曲は形になり始めたので、俺は学校に行くことも忘れ、必死に近所の公園で歌い続けた。
日々歌い続けると、ギターも歌も上達してくるのが手にとってわかる。
一つ難をあげるとすれば、客が全くいないことだった。
それもそうだ。言っていることは中坊の戯言だし、言葉も汚く、思わず背を向けたくなるような歌詞ばかり。一般人が嫌うのも、当然だった。
そんなの関係ない、俺は俺の歌いたい歌を歌う。当時の俺は、最強だった。
そんな、夜も更けそろそろ帰ろうとしたある日のことだ。
「素敵な曲ね」
ふと気づくと、目の前に女の子が座っていた。
純情無垢な、人懐っこい笑顔を振りまきながら。
まだまだ病気が治っていなかった俺は、「社会の闇を知らぬ少女か、愚かだ」などと、その子を見て思っていた。
あれだ、死ねばいいよね。
「……宮村か」
「こんなとこで何してんの、黒沢直澄くん」
それは、クラスメイトの宮村千佳という少女だった。彼女は、俺のクラスの委員長というやつで、人当たりもよく、よく笑い、明朗快活、絵に描いたような優等生だ。
その性格と容姿が相乗効果を生み出し、宮村は男子からも女子からも絶大な人気を誇っている。
「不良生徒を注意ですか、委員長は大変だな」
「うーん、まあそんなところ」
俺が皮肉を言ってニヒルに笑っても、彼女は邪険に扱わない。
こういう分け隔てないところが、人気の秘訣なのだろう。
「先生怒ってたよ。また黒沢はサボリかー、って」
「関係ねえよ」
「それにしても、今のいい曲だね。なんて曲?」
歌い始めてから、約一ヶ月。曲を褒められたのは初めてだったので、俺は拍子抜けした。
しかも、絶対にこのタイプの曲を好きそうでない、宮村に言われたからより一層驚いた。
こういう女子は、今はやりの陳腐なラブソングなんかを好むと思っていたが、案外そうでもないのかもしれない。
「……タイトルは決めてねえよ」
「いつもここで歌ってるの?」
いちいち質問が多い奴だな。
「ああ」
「また明日、聞きに来てもいいかな?」
本当に、その言葉は予想外だった。なによりも、そう言われて嬉しく思っている自分がいることに。
誰かに伝わってほしいとは思っていたが、まさか委員長をやっているような奴に俺の歌が伝わるとは思わなかった。
俺は少し混乱しつつも、肯定の言葉を宮村に返すのだった。
「そうそう、人に聞いてもらいたいならひとつアドバイス。歌詞が直接的すぎて、あまりにも過激だから、少し抑えた方がいいかも」
「なんだ、結局お前も文句言うのかよ」
「違う違う。たださ、なんの変哲も無い歌詞に違った意味を込めるのも、また一興と思っただけさ。黒沢くんが歌いたいように、歌えばいいと思うよ」
すると宮村は一呼吸あけ、してやったり顔をする。
「いつも同じ方向を、自分がこっちだと決めた方を、真っ直ぐに見つめることが大事だよ」
そう言って宮村は去っていった。
人の指図は受けないと心に誓っていたが、何故か宮村の言葉だけは説得力があり、なるほどなと素直に感心した。そういう伝え方もありかな、と。
俺はすぐに家に帰ると、歌詞作りに没頭する。当たり障りの無い歌詞を書きながらも、意図は別のところに存在させるように。
次の日、言った通り宮村は来た。俺の新しい曲を聞かせると、すごいすごいと言って拍手をする。やっぱり、悪い気分ではなかった。
それからというものの、毎日のように宮村はやってきて、俺にアドバイスをしてきた。最初こそ抵抗した俺だったが、次第に宮村とも打ち解け始め、アドバイスも真摯に受け止めることとした。
するとどうだろう。日を追うごとに客は増え、ここが公園であることを忘れさせるような人が集まるようになった。常連もでき、近所でも噂となり、学校側も俺がサボるのを黙認するようになる。
全部、宮村のおかげだった。
すっかり彼女の毒牙にやられた俺が、宮村のことを異性として見るようになったのは言うまでも無い。やはり、宮村にはそういう力があるのだろう。
卒業式の日、俺は彼女に気持ちを伝えようと宮村をいつもの公園に呼びだした。
「ありがとう。宮村がいなかったら俺、駄目になってたと思う」
すっかり、病気も完治していた。これも宮村のおかげだろう。
こいつには、どんな飾った言葉を言ったって無駄な気がして、俺は素直に気持ちを述べた。
「好きだ、宮村」
「ありがとう、私も好きだよ」
宮村の返事も、やけにあっさりしていた。
でも、俺達が付き合うというのは不可能に近い。
それはというと、宮村は親の仕事の都合で他県の高校に通うことがとうの昔に決定していたからだ。高校生同士の遠距離恋愛は厳しいものがある。今日俺が宮村に気持ちだけでも伝えたいと思ったのは、そういう理由からだ。
だから俺は、こう言った。
「待っててくれ、宮村。俺がもっともっと歌って、それで稼げるような一人前の男になったその時に、迎えにいくから」
俺がそう言うと、宮村は季節外れの向日葵のような笑顔で頷いた。
それが、俺の見た宮村の最後の姿だ。
それからというと、俺は高校に入学してもなお歌い続け、ロクに勉強なんてしなかった。歌以外で稼いでいくことは考えてすらなかったし、宮村との約束を果たすことしか頭になかった。
高校卒業と同時に俺は上京し、自ら事務所に赴き、やがてイチ歌手としてデビューした。
宮村に言われたように、何気ない歌詞の中に本当の意味を含ませて、死ぬ気で歌う。
多少過激な歌詞とその裏に隠された意図が若者世代にうけたらしく、俺はとんとん拍子で出世街道を突っ走っていった。CDは飛ぶように売れ、やがてテレビの取材も増えていく。
俺は絶好調だった。
全ては宮村のために。宮村を迎えに行くために。
しかし、好景気は長くは続かないものだ。俺はある大きな壁にぶち当たる。
「くそっ……!」
歌詞が、全く思い浮かばなくなったのだ。
それもそのはず、俺はとっくに中二病を完治させていて、金もある程度手に入った今、社会に対する不平不満も少なくなっていったからだ。
確かに、この世界は理不尽だと思う。だけど、成人してしまうとそれも仕方の無いこととして割り切れてしまう。俺が主張したいことは、とっくの昔になくなっていた。宮村に対する思いが、首の皮一枚俺をつなぎとめていたのだろう。
俺が主張したいことってなんだ?
俺が歌詞を通じて伝えたいことってなんだ?
そして、ある結論に結びつく。
「宮村だ」
結局俺は何のために歌っていたかというと、それは全て宮村のためだ。
だったら、宮村のためにとびっきりのラブソングを歌えばいいんじゃないだろうか。
そう思い立った俺は、急いで歌詞を書きあげ、曲にした。
今までで一番時間のかかった曲だったが、俺の気持ちを素直に伝えられたと思う。
陳腐な歌詞だけど、俺は気に入ってる。
そしてその曲は、しばらくスランプに陥っていた俺のニューシングルとあって、大きな期待が寄せられた。
そして発売日。
新曲の評価は、最悪だった。
「歌詞がひどい」
「ラブソングなんかに手を出した結果がこれだよ」
「金返せ」
「よくも期待を裏切ってくれたな」
今まで社会を風刺した、過激な歌詞からのラブソングとあって、ネットや雑誌での評判は俺の精神を追い込むには十分だった。
そう、俺は本物の、リアルな恋愛なぞしたこともない。
経験しているのは、中学生の、お遊びみたいな恋。
歌詞が幼稚になるのは、当たり前だった。
これを機に、またいつものスタイルに戻そう、そう思った。
だけど、俺はラブソングを歌うことをやめなかった。
幼稚でもいい。ここで宮村の思いを断ってしまったら、宮村への思いを歌にのせるのをやめてしまったら、それこそ宮村に顔向けできない。
なによりも、俺の宮村に対する思いが否定されたような気がして、腹が立つ。
それからも俺は、ラブソングを歌い続け、CDを出し続けた。
そして、とうとう俺の評価は地へと落ちる。
暴挙と評され、今までの実績のおかげで何とかCDを出すことを許可してくれた事務所からも見放された。
「元のような歌を書かないんだったら、辞めてもらう」
生活のために、宮村を迎えるためにまたもとの歌を書こうとしたが、書けない。
世間からのバッシングと歌詞がかけないジレンマ、同僚や後輩からの陰口、事務所からの冷たい目、そのような出来事が俺を苦しめ、とうとう俺は心を病んだ。
歌うことが、できなくなった。
ギターを見るのさえ恐くなった俺は、逃げるようにこの業界を去った。
宮村には、会っていない。
◆
話し終えた俺は、溜息をひとつすると、深見に背を向ける。深見は申し訳なさそうにして、俺に寄り添ってきた。
「すまない、辛いことを聞いた」
「別に構わないさ。数年のカウンセリングと薬のおかげで、今は無事社会復帰できてる」
この話をしたのは、深見が初めてだ。こいつになら話してもいい、出会って間もないくせに、妙に深見を勝手に信頼している。
俺も弱くなったな。
「でも、話して少し気分が楽になったんじゃないか?」
「そうかもな」
私もそうだったんだ、と笑う深見を見て、確かにと思った。
色々と俺は気負いすぎていたのかもしれない。友達がいなかったというのもあるが、誰かにもっと早くこの話をしていれば、俺はとっくに開放されていたのかもな。
「さ、寝るぞ」
「ああ、おやすみ」
深見に小声で礼を言ってから、俺は久しぶりに熟睡した。
◆
光陰矢のごとしと昔の人はよく言ったもので、あれから一週間が経過した。
深見は相変わらず俺のところにいる、というか俺が無理やり傍に置いている。日を重ねるごとに父親の話題を聞くのだが、聞けば聞くほど糞親父で、俺はそれを聞く度にまだいるように深見を説得した。
もうなんだか、家に付き返す気はなくなっていた。
こんな狭い部屋、しょぼい料理で我慢してくれるのなら、ずっとここにいたっていい。
……あれ? なんだか俺、すっごい恥ずかしいこと思ってないか?
ずっとここにって、プロポーズですか。
いかんいかん。気をしっかり持て黒沢直澄。相手はあの訳のわからないことに定評のある深見だぞ。いまだに下の名前も教えてくれないんだぞ。
なんとか平常心を保ち、俺は家のドアを開いた。
「あ、黒沢。お疲れさん」
玄関で靴を脱いでいると、トタトタという足音と共に深見がやってきた。
その腕には、まだ手錠がぶら下がっている。早く壊してやりたいのは山々だったのだが、いかんせん丈夫な手錠で、家にある道具では全く歯が立たなかった。
深見父はどうしてこんな本格的な手錠を持っているのだろう。
そんなこんなで、こっちも本格的なペンチ的何かを買ってこようとしたのだが、運悪く今日以外の日は全て残業が入ってしまい買いにいく暇がなかった。
という訳で今俺の手には、ようやく買いにいけたグッズたちが握られている。
「すまないな、私のために」
「気にすんな。家で手錠ついてたら、見てるこっちも複雑だ」
そう言って深見は両手で俺の鞄を持つ。帰ってきた時に誰かいるというのは、すごく良いことだな。
というか、これってまんま新婚さんではないだろうか。
「お風呂にする?ご飯にする? それとも私か?」
「風呂で深見を食う」
「死に腐れ」
今ではこんなやり取りが出来るまで仲良しです。ええ、死にたいです。
深見は、両手がふさがっていても出来る限りの家事をしてくれている。流石に料理は無理だが、風呂洗いや洗濯をしてくれていて、大分助かっているのは事実だ。
一週間前は病気一歩手前までやせ細っていた深見も、モリモリ食べて、今では大分健康体だ。
それでも痩せていることに変わりは無いが、以前とはレベルが違う。
「よし、とりあえず座れ。その手錠、今日こそぶっ壊す」
「期待するとしよう」
そう言って俺は深見の前に座り込み、手下げていたビニールから今日買ってきた業務用ペンチを取り出す。結構な値段がしたが、まあ気にしたら駄目だ。これも深見のためだ。
「行くぞ」
そう俺は呟くと、二人の間に妙な空気が流れる。
それを断ち切るように、俺はペンチの刃と刃の間に手錠の鎖部分をそっと入れる。
そして、思いっきり力を込めた。
バキンッ
と、鈍い音を部屋中に轟かせながら、深見を縛り付けていた手錠は、ようやく外れた。
「おお」
「……」
感嘆している俺をよそに、深見はなにやら深刻な顔をしている。少し疑問に思ったが、俺はそこまで気にせず、わっかの部分も切り離していく。
そしてついに、あっという間に手錠はすべて外れ、深見は解き放たれた。
「どうだ、一週間ぶりに自由の身となった気分は」
「……」
手の動かし方を忘れてしまったのだろうか、深見は自分の手をまじまじと見つめながら何も言わず、ただただ呆然としている。
なんだ、せっかく取り外してやったのに不服か。
なら金返せ。今すぐに業務用ペンチ代、三千九百八十円を返せ。
「どうした、手が動くのがそんなに不思議か?」
少し強めの口調で、俺は深見に問い詰めた。
いや、別に深見を責める訳ではない。ただ純粋に、理由が知りたいだけなのだ。
すると深見は、自嘲気味な笑顔を浮かべ俺の問いに答えた。
「いや……、なんだかこれで終わってしまったのかと思って」
終わった、とはなんだ。
俺の人生か。手錠が外れたら俺を殺す気だったのか、この女。
「手錠がなくなった今、黒沢と私を繋ぐものが無くなってしまったような気がして、な」
そう呟く深見は、今まで見たこともないような悲しそうな顔を見せた。
こいつは、何を言っているのだろうか。俺と深見を繋ぐもの、なんだそれは。
俺は少し、頭が真っ白になった。
「もう、黒沢が私に良くしてくれる理由がなくなった。この通り体もよくなったし、手錠も外れた。私はただの、一般人女性になった訳だ」
そう悲しそうに呟くと、深見は重そうな腰を上げ、玄関に向かって歩いていく。
なんだか俺は、深見がこれからしようとすることが分かった気がして、思わず深見の腕を掴んだ。
「お前、帰るつもりか?」
「……悪いか」
超悪いわ、馬鹿者め。
「だって、もう黒沢が私と一緒にいなくていはいけない理由も消えたぞ? 手錠も取れた今、同情できる要因だってないじゃないか」
「理由がなくちゃ、お前と一緒にいちゃいけないのかよ」
俺はなんだかイライラしていた。
こいつとは仲良くやってきたつもりだったのに、いきなり裏切られたような気になったからだ。
俺は深見と楽しいから一緒にいただけなのに、深見はそうは思ってくれていなくかったから。
お前は、お前が可哀相だったから俺が一緒にいてやったとでも思ってるのかよ。
ふざけんな。
「ふざけんな」
思わず、声にでた。
「お前は……、俺といてつまらなかったのか」
「そんなことはない! 黒沢と一緒にいると、その、すごく落ち着くし、やっぱり楽しかった」
「なら、それだけで十分じゃねえか」
俺はもういてもたってもいられなかった。
このまま、深見に気持ちをぶつけてしまおう。そのほうがいい。いや、そうしたい。
一瞬、宮村の顔が思い浮かんだが、すぐに消えた。
俺にはもう、宮村に会う権利すらない。
「この際だからハッキリ言おう、俺はお前が好きだ」
そして、とうとう言った。
それを聞いた深見は、鳩が対戦車ライフルでも喰らったような顔をしたあと、泣き出してしまった。
そうだ、今気がついた。
宮村と深見は、どことなく似ている。性格や体型は全く違うが、そのまっすぐな心や思い、そしてなによりも、その澄んだ瞳がそっくりだ。
俺はこいつを通して、宮村を見ていたのかもしれない。
そして、宮村を諦めようとも思っていたのだろう。
「どうして……」
「好きなのに理由はいらねえだろ」
俺がそいうと、深見は泣くのをやめ、目をこすった後、まっすぐに俺を見据えた。
やっぱり。この瞳が、宮村にそっくりだ。
そして、意を決したように俺にこう言った。
「なあ黒沢。なにも言わず私についてきてくれないか」
深見は立ち上がり、俺に背を向けた。
今すぐ返事を聞かせてくれよ、と思ったが、ぐっと堪える。
「こんな夜中にか? もう九時だぞ」
「お願いだ。返事も、そこでする」
よく見ると、深見の肩が震えている。察するに、かなり重要なことなのだろう。
返事もしてくれるというし、俺は軽く頷き肯定の言葉を口にした。
しかし、「ありがとう」と口にした深見のお願いは、予想をはるかに凌駕するものだった。
「ギターを、持ってきてくれないか」
俺の思考は、一瞬機能停止した。
なぜ、今ギターが関係あるのだろう。深見は俺の過去を聞いてから、一切ギターのことについて触れなかった。なのに、何故今になって……。
俺には、深見の意図がまったくわからなかった。
「お願いだ……。何も言わずに、持ってきてくれ……」
深見はこちらを向くと、今にも泣きそうな顔で懇願してきた。
そうだよ、さっき俺は何でもやってやろうと誓ったばかりじゃないか。
ギターに触れるのは正直恐いし、何の為かもわからないが、深見のお願いだ。
「……わかった」
そう言うと俺は、部屋の隅でひっそりと佇んでいたギターに手を伸ばす。
そしてそれに触れた瞬間、過去の映像が脳内を駆け巡った。
しかし、俺は耐える。深見のためだ、こんなところで負けるわけにはいかない。
「ありがとう……」
そう深見は再び礼を言って、俺達は玄関に向かって歩き出した。
手錠の外れて自由となった深見と、ギターと消えぬ過去を背負った俺達は、どこに向かうのだろう。
あれ、本当にどこに向かうのだろう。
「そういえば、どこに行くんだ?」
そう俺が尋ねると、深見はポケットに手を突っ込み、あるものを取り出す。
そして、とびっきりの笑顔でこう言った。
「私の行きたいところは、この魔法のコンパスが示してくれる」
深見が握っていたのは、彼女の宝物、魔法(仮)のコンパスだった。
◆
俺達は、ネオンサインやコンビニの光に染められた夜の町をせわしく駆け回っている。
別に走る必要はなかったのだが、深見が急ぎたいと言うので、こうして汗を垂れ流しながら全力疾走している。職務質問されても文句は言えまい。
「黒沢、次右だ!」
「はぁ……はぁ……」
深見は手に握ったコンパスを見ながら、ルート案内をし続ける。
いや、普通のコンパスならばずっと北を向き続けるはずなのだが、俺達は何度も曲がり続け、次第に入り組んだ路地へと入っていく。
もしかして、本当に魔法のコンパスなのか。
んな訳、ないな。疲れて思考能力が鈍ったか。
「その曲がり角を左折!」
「へいへい……」
深見が言うとおりに路地を進んでいくと、少し開けた住宅街の中へ出た。市街地から比べると、大分明かりが少ない。
そして、その後数分間深見と走り続けると、とある公園にたどり着いた。
深見はその公園の中心で、足を止めた。
街灯も数本しか立っていなく、遊具も少ない、このさびれた公園がどうやら深見が行きたがっていた場所なのか。
「ここは……」
俺は、この場所に覚えがある。忘れもしない、中学時代毎日通った公園だ。
俺が驚愕とともに息を落ち着かせていると、深見はゆっくりと振り返った。
「お疲れ様」
深見は少し前かがみになりながら、俺に笑いかける。まるで、深見ではないかのような、いつもの彼女とはまた違った優しい笑み。
その姿は、俺の過去の映像と見事にシンクロした。
そうか、そういう事だったのか……。
「しばらく見ない間に、体力落ちたんじゃない?」
「ああ、そうかもな」
そうすると、あのコンパスも……。
いやはや、彼女と俺を導いてくれたのだから、やはり魔法のコンパスに間違いないな。
俺の息が落ち着いてきたのを確認すると、彼女は再び聖母のような微笑で、口を開く。
「迎えが遅いから、こっちから来ちゃったよ。黒沢くん」
宮村……、否、深見千佳は、九年前と同じ口調でそう言った。
「親の都合って、離婚だったんだな」
「そ。で、再婚のおかげで苗字も変わっちゃって、ついでに性格も妙に淡白になっちゃいました」
えへへ、と笑う宮村千佳。いや、深見千佳。
中学卒業と同時に、離婚を原因に引越し。そして、再婚。おかげで名前まで変わり、父親の暴力は深見の心を塞ぎ、肌や髪、そして体型までもを変えた。そうして、宮村は深見という全く違う人間となった。
「もう父親が嫌で嫌で、なんとか黒沢くんの住所を調べてかくまってもらおうと思ったら……」
「父親に見つかった、と」
「ご明察。で、『このコンパスをくれた、好きな男のところに逃げるのか』って。そう言って父親は、私を殴った後コンパスを壊そうとした。……あとは話した通りだよ」
監禁もどきから命からがら抜け出した深見は、手錠をつけたまま家を飛び出し、まっすぐ俺の家を目指した。
頼れる友人も、親戚ももういなかったから。
なぜかアパートの二階にいたのは、そういう訳か。
「もう私は、完全に宮村千佳じゃなくなってた。だけど、ひょっとしたら黒沢くんなら、って
思ったんだけど……。やっぱり黒沢くんも、私って気づかなかった」
きっと深見は、俺がそれとなく気がついたら、宮村と名乗り正体を明かすつもりだったのだろう。
『あー……、深見だ。よろしく』
あの時の妙に長い間は、俺が気づかなかったから、名乗るべきかどうか迷ったのだ。
そして、断固として下の名を名乗らなかったのも、そういうことか。
「……すまん」
「いいのいいの。あんなになってたら、絶対誰も気づかないし。というか正直言うと、私も最初本当に黒沢くんかどうかわからなかった」
そうか、だから最初に『あんた誰』なんて言ったのか。
『そうか、そっか。ならいいんだ』
そうすると、あの訳のわからない返事にも納得がいく。
「そのコンパス、まだ持ってたんだな」
「当たり前よ」
そしてこのコンパスは、俺がこいつとの別れ際にプレゼントしたものだ。
『いつも同じ方向を、自分がこっちだと決めた方を、真っ直ぐに見つめることが大事だよ』
という宮村のありがたいお言葉になぞらえて、いつも北を向き続けるコンパスを贈ったことを、今でもはっきりと覚えている。
そのコンパスを見ても思い出せなかったのだけが、悔やまれる。
少し古くなっていたからだろうか、いや、これも言い訳にしかならないな。
「ちゃんと、プロになってたんだね」
「一応、芸名は使ってたけど、テレビには結構出てたぞ」
「私、テレビもろくに見れなかったからさ」
深見は少し声を落としながらそう言うと、俺に抱きついてきた。
俺はそれを、何も言わずに抱きとめる。
約十年の時を経て、俺達が出会い別れた場所で、再び俺達は巡り合った。
もう俺達の間に、言葉はいらなかった。
「ホント、遅すぎだよ……」
「ごめん、迎えにいけなくて」
数分、いや数時間、とにかく時を忘れるほど抱き合っていた俺達だったが、ずっと泣き叫んでいた深見はようやく落ち着き、俺から離れていった。
俺はまだまだ名残惜しかったが、ひとまず深見から距離をとる。
「さっきの返事、するね」
そして、大真面目な顔でそう言った。
俺も深見も、息を呑む。公園、いや世界に俺達ふたりだけしかいないような、そんな感覚に陥る。
たかが数秒が、俺には無限にも感じた。
「黒沢く……、いや直澄くん。好きです、大好きです。ずっと……傍にいてください」
きっと俺の顔は、真っ赤に染まり涙が頬をつたって、ひどいことになっているだろう。
恥ずかしすぎて顔からマグマが噴火してきそうな台詞を言った深見の顔も、赤くなっている。
「深見……いや、千佳。ありがとう、俺も好きだ。ずっと、ずっと一緒にいよう」
俺がそう言うと、どちらからでもなく俺達は再び抱き合った。
深見、いや千佳は、俺の胸に顔を押し当て、泣き続けている。
俺も、一生のうちで一番泣いた。
千佳の涙が徐々に収まってきたのを見て、俺はそっとこう言った。
「明日、親父さんに会いにいこう」
それを聞いた千佳は、ガバッと顔をあげ、信じられないという顔をした。
「なんで!? もう、あんな奴には会いたくない!」
「一応、あんな糞でも父親なんだ。話をつけにいかなくちゃな」
千佳は、今まで聞いたことの無いような、ヒステリックな声をあげる。
本当に、親父が嫌いなのだろう。
「バカ、お前を返すつもりはない」
「じゃあ、なんで……」
「千佳は俺が幸せにする、だからしばらく頭冷やせこのタコ! ってガツンと言ってやるんだ」
今話し合いをしたところで、家出したことに対し父親は腹を立てることだろう。
だから、俺と一緒にいることだけを伝えて、しばらく反省させる時間を与える。しばらく経てばあちらも怒りがおさまって話くらいできるだろう。
もしそれでも駄目親父は駄目なままだったら、その程度だったってことだ。
俺達は互いに二十歳を超えてることだし、母親にだけちゃんと話して勝手に結婚でもすればいい。
ちょっと、気が早いか。
「でも……」
しかし、千佳どうにも納得できない様子だ。
よし、ちょっとカッコつけるとしよう。降りて来い、中二病時代の俺。
「おいおい、俺が傍にいる。これだけじゃ不安か?」
ちょいと気持ち悪すぎた気がする。死のうかな。
しかし、千佳の方はその言葉を聞いて、涙を浮かべながらも、微笑んだ。
こういう時は、多少臭いくらいのほうが効果があるのかもしれない。
「そうだね! 直澄くんがいれば、恐くないかも」
そう言って俺達は笑いあった。
すると、千佳は何か思い出したかのように俺から離れる。そして、飄々とこう注文した。
「ねえ、そのラブソング歌ってよ」
俺に背負われている、ギターを指差しながら。
その笑顔は、俺の歌を褒めてくれた九年前と同じ笑顔だった。
だから俺も、笑顔でギターを取り出した。
不思議と、あの恐怖は消えていた。
「感想、よろしくな」
「うん!」
そして俺は、歌いだす。
俺達が出会った公園で、俺達が出会った時と同じように。
歴史は何度も繰り返す、俺の歌詞にも同じようなことが書いてある。
また歌を作ろう、そう思えた。
ファンでも事務所のためでもなく、ただこの人のためだけにラブソングを。
コンパスは俺達を導き、手錠が赤い糸のように俺達を結びつけた。そんな馬鹿みたいで笑っちゃうような、だけど彼女を感動させられるような、そんなラブソング。
その曲を作り、歌い終えた時、俺は今度こそ本当の意味で彼女を迎えに行きたいと思う。
だから、俺は真っ直ぐ前を、同じ方をいつまでも向いていよう。
魔法のコンパスが指し示す北の空には、今日も満天の星が光り輝いていた。