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不完全な6。  作者: 野村 聖希


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1/1

煙の向こう側

 二〇二六年二月。


 朝七時を回ったばかりだというのに、冬の空気はまだ夜の名残を色濃く残していた。岡山県総社市。住宅街の一角に建つ二階建ての家のベランダで、一人の少年がゆっくりと煙を吐き出す。


 神崎奏、十六歳。


 細身の体に黒いパーカーを羽織り、裸足のままベランダへ出ていた。右手には火のついたタバコ。左手には飲みかけの缶コーヒー。煙は白く細く伸び、朝日に照らされながら空へ溶けていく。


 住宅街は静かだった。


 近所の主婦が洗濯物を干し、小学生がランドセルを背負って歩いていく。犬の散歩をする老人と、それに付き添う孫らしき男の子。どこにでもある、穏やかな朝だった。


 奏は、その光景を眺めながら小さく笑う。


「みんな、毎日同じことの繰り返しか。」


 羨ましいとは思わない。


 むしろ退屈だった。


 スマートフォンが震えた。


 通知欄には、経済ニュースサイトの記事が表示される。


『十六歳の高校生社長、地方から全国へ。スカーフェイス・インキュベーター株式会社、過去最高売上を更新』


 自分の記事だった。


 昨日受けた取材が、もう公開されている。


 画面にはスーツ姿で笑顔を浮かべる自分の写真。


 コメント欄には「若くして成功してすごい」「日本の未来を担う起業家」「応援しています」といった言葉が並んでいた。


 奏は記事を閉じた。


 嘘ばかりだ。


 成功。


 その二文字ほど曖昧な言葉はない。


 会社の売上は確かに順調だった。高校一年で法人を立ち上げ、ホームページ制作や企業のSNS運営、動画編集、広告運用まで手掛けるようになった。取引先も少しずつ増え、地元では「高校生起業家」として名前が知られ始めている。


 だが、それだけだった。


 月に数百万円売り上げても、経費を引けば利益は限られる。


 社員に給料を払い、事務所の家賃を払い、機材を買い替えれば、通帳に残る数字は思っているほど大きくはない。


 昨日も銀行で記帳したばかりだった。


 数字を見た瞬間、思わず笑ってしまった。


「これだけか。」


 世間から見れば高校生には十分すぎる金額。


 だが奏には、ただの小遣いにしか思えなかった。


 テレビで見る経営者は何十億、何百億という金を動かしている。


 海外の起業家は二十代で資産千億円。


 投資家は一日で数億円を稼ぐ。


 それなのに、自分は朝から晩まで働き続け、社員四人で必死に案件を回しても、この程度。


 効率が悪すぎる。


 そう思った瞬間から、奏の中で何かが少しずつ狂い始めていた。


 缶コーヒーを飲み干し、灰皿へタバコを押し付ける。


 ジッという音がした。


 部屋へ戻ると、リビングには母親が置いていった朝食がラップをかけられたまま置かれていた。


「朝ごはんあるから食べてね」


 メモには丸い字でそう書かれている。


 奏はそれを一瞥すると、冷蔵庫からミネラルウォーターだけ取り出した。


 腹は減っていない。


 最近はそうだった。


 何かを食べる時間があるなら、仕事をした方がいい。


 仕事をするくらいなら、新しい事業を考えた方がいい。


 新しい事業を考えるくらいなら、もっと儲かる方法を探した方がいい。


 頭の中は四六時中、金のことばかりだった。


 それでも、不思議と罪悪感はない。


 金が欲しい。


 それは悪いことなのか。


 奏には分からなかった。


 スマートフォンに再び着信が入る。


 高城悠人だった。


「もしもし。」


『おはようございます。』


 相変わらず落ち着いた声だった。


『今日、十時からの打ち合わせですが、広告代理店から一時間早められないかって連絡が来てます。』


「断って。」


『理由は?』


「こっちの都合。」


『分かりました。』


 高城は余計なことを聞かない。


 それが奏は好きだった。


 電話を切ると、今度はレイからメッセージが届く。


『昨日の案件、契約取れた』


 その一文だけ。


 絵文字もなければスタンプもない。


 奏は「了解」とだけ返す。


 営業だけなら、レイは誰よりも優秀だった。


 十五歳とは思えないほど度胸があり、大人相手でも一歩も引かない。


 最後にソウスケから電話が鳴る。


『社長、おはようさん。』


「おはよう。」


『昼飯、ラーメンでええ?』


「まだ朝だけど。」


『今から考えとかな混むやろ。』


 奏は少し笑った。


 ソウスケだけは、いつも空気が違う。


 関西弁で軽口ばかり叩くが、場の空気を読む力だけは誰より優れていた。


『ほな会社で待っとるわ。』


「あと三十分くらい。」


『了解や。』


 電話を切る。


 静かな部屋に時計の針だけが響いていた。


 奏は玄関で革靴を履くと、鏡の前に立った。


 高校生らしい顔だった。


 幼さが残っている。


 テレビに映る自分と何も変わらない。


 だが、その瞳だけは違っていた。


 数字しか見ていない目。


 利益しか考えていない目。


「まだ足りない。」


 誰に言うでもなく呟く。


 玄関のドアを閉める音が住宅街に響いた。


     ◇


 総社駅から岡山駅までは電車で三十分ほど。


 通勤時間帯の伯備線は混雑していた。


 制服姿の高校生、新聞を読む会社員、眠そうな大学生。誰もがスマートフォンを見つめ、誰とも目を合わせようとしない。


 奏は窓際に立ち、流れていく景色をぼんやり眺めていた。


 田んぼが続き、住宅街へ変わり、高架道路が現れ、やがて岡山市街へ入る。


 地方都市らしい景色だった。


 東京ほど派手ではない。


 大阪ほど人も多くない。


 だからこそ、奏はこの街が好きだった。


 目立たない。


 地方都市では、目立たないことが武器になる。


 岡山駅へ到着すると、人の流れが一気に増えた。


 スーツ姿の営業マンが早足で改札を抜け、観光客がキャリーケースを引きながら駅前へ向かう。駅前のバスロータリーではタクシーが客待ちをし、交差点の向こうには地方銀行の本店ビルが朝日に照らされていた。


 奏はそのビルを見上げる。


 ガラス張りの高層階。


 中では今も何億円という金が動いている。


 人は一生懸命働いて金を稼ぐ。


 会社は利益を積み上げる。


 銀行はその金を預かる。


 世界は、金を中心に回っている。


 ならば、その金を手にする人間が一番強い。


 奏はそう信じていた。


 駅前通りを歩く。


 大通りから一本脇道へ入ると、人通りは急に少なくなる。古い雑居ビルが並び、行政書士事務所や税理士事務所、小さな不動産会社の看板が目に入る。


 その中に、一棟だけ時代に取り残されたような六階建てのビルがあった。


 外壁は色褪せ、非常階段には薄く錆が浮いている。


 入口の集合看板には、聞いたことのない会社名ばかりが並び、一番下の端に、小さく銀色のプレートが貼られていた。


 『Scarface Incubator Inc.』


 奏はプレートを見つめ、小さく息を吐いた。


 まだ何者でもない会社。


 しかし、この場所から必ず大きくしてみせる。


 そう信じていた。


 エレベーターの古びた扉がゆっくりと開く。


 五階のボタンを押すと、モーターが軋む音を立てながら、箱はゆっくりと上昇を始めた。


 奏は鏡に映る自分を見つめる。


 その表情には、取材で見せるような爽やかな笑顔はもうなかった。


 代わりに浮かんでいたのは、誰にも見せたことのない冷たい視線だった。


 この日、彼はまだ知らなかった。


 これから口にする一つの提案が、自分自身の十五年間を、そして最後の運命まで決定づけることになるとは。


 五階でエレベーターが止まると、小さく金属音が鳴った。


 扉が開く。


 廊下は薄暗く、蛍光灯が一つだけ低い音を立てながら点滅している。壁紙はところどころ剝がれ、古い事務机が廊下の隅に無造作に積まれていた。窓から差し込む朝日だけが、この古びた空間にわずかな温もりを与えている。


 突き当たりの角部屋。


 ドアには銀色のプレートが取り付けられていた。


 「Scarface Incubator Inc.」


 文字は決して大きくない。注意して見なければ通り過ぎてしまうほど控えめだった。


 奏はカードキーをかざした。


 電子音が鳴り、ドアのロックが外れる。


 部屋へ入ると、暖房の温かい空気が迎えた。


 五坪。


 広いとは到底言えない。


 壁際に四つのデスクが並び、それぞれにデュアルモニターとノートパソコンが置かれている。窓際には複合機、その横には冷蔵庫。壁にはホワイトボードと月間スケジュール。観葉植物が一つ置かれているが、水をやる暇もないのか葉先が少し茶色くなっていた。


 決して立派な会社ではない。


 それでも、ここは奏にとって城だった。


「おはようございます。」


 最初に声を掛けたのは高城悠人だった。


 黒縁眼鏡を掛けた細身の少年で、白いシャツに紺色のカーディガンを羽織っている。ノートパソコンには朝から数字が並び、画面の隅には広告配信の管理画面が表示されていた。


「昨日の広告、クリック率が少し上がりました。」


「原因は?」


「バナーを変えました。」


「なるほど。」


 高城は必要以上のことを話さない。


 感情より数字。


 数字より根拠。


 奏はそんな彼を信頼していた。


「社長。」


 窓際の椅子をくるりと回した少女が、少し不機嫌そうな声を出した。


「遅い。」


 レイだった。


 十五歳。


 明るく染めた髪を後ろで一つに結び、黒いパーカーの上からジャケットを羽織っている。机には営業資料が山積みになり、赤いマーカーでびっしり書き込みがされていた。


「契約一本取ってきた。」


「見た。」


「褒めないの?」


「よくやった。」


「棒読み。」


 そう言って口を尖らせる。


 だが、その顔はどこか嬉しそうだった。


 営業だけなら、この会社で右に出る者はいない。


 年齢を武器にすることもあれば、逆に年齢を隠して大人顔負けの交渉をすることもある。誰とでも距離を縮める才能があった。


「おーい。」


 部屋の奥から大きな声が響いた。


「コーヒー淹れたで。」


 ソウスケだった。


 関西弁が自然に出る十六歳。少し癖のある髪を無造作にかき上げながら、紙コップを四つ並べている。


「ブラックしかあらへんけど。」


「ありがとう。」


「社長、最近寝とる?」


「寝てる。」


「嘘や。」


「何で?」


「目ぇ見たら分かる。」


 ソウスケは笑った。


 その笑顔には人を安心させる力がある。


 営業でも開発でも突出しているわけではない。


 しかし、社内の空気を読むことだけは誰よりも上手かった。


 奏は紙コップを受け取り、窓際へ歩く。


 五階から見える景色は決して派手ではない。


 交差点を挟んだ向かいには地方銀行。


 その隣には信用金庫。


 道路には配送トラックが止まり、スーツ姿の会社員が足早に建物へ吸い込まれていく。


 毎朝、同じ景色。


 毎朝、同じ流れ。


 金もまた、毎日同じように流れている。


「今日は何の話?」


 レイが椅子を寄せた。


「新しい案件?」


「営業なら午後から二件。」


 高城も画面から目を離した。


「動画編集も三本残ってます。」


 ソウスケがコーヒーを飲みながら言う。


「社長、また仕事増やす気ちゃうやろな。」


 奏は振り返らなかった。


 窓の向こうを見たまま、小さく口を開く。


「みんな。」


 三人が黙る。


「会社って何のためにあると思う?」


 唐突な質問だった。


「利益。」


 高城が即答する。


「お客さんのため。」


 レイは肩をすくめる。


「どっちもちゃう?」


 ソウスケは曖昧に笑う。


 奏は静かに首を振った。


「金だ。」


 誰も返事をしない。


「利益でも、理念でもない。」


 奏はコーヒーを机へ置いた。


「結局、会社は金を集めるための仕組みだ。」


 レイが腕を組む。


「珍しいね。社長がそんなこと言うの。」


「珍しい?」


「いつもは『信用が一番大事』とか言ってるじゃん。」


「信用は金を集めるための道具だ。」


 部屋の空気が少しだけ変わった。


 高城がゆっくり奏を見る。


「何かあったんですか。」


「昨日。」


 奏は短く答えた。


「銀行で記帳した。」


 それだけだった。


 しかし三人は続きを待った。


「一年近く働いて残った利益を見た。」


 奏は少し笑った。


「笑えるくらい少なかった。」


「十分じゃない?」


 レイが言う。


「高校生としては。」


「高校生だから満足しろって?」


「そういう意味じゃない。」


「じゃあ何。」


 奏は椅子へ腰掛けた。


 初めて三人の顔を順番に見る。


「十億欲しい。」


 沈黙。


 ソウスケが冗談かと思って笑おうとしたが、奏の表情を見て笑えなかった。


「百億でもいい。」


 その声には熱がなかった。


 夢を語るような目でもない。


 ただ事実を口にしているだけだった。


「そんな金、ホームページ作ってても一生無理だ。」


 高城が静かに尋ねる。


「投資でも始めるんですか。」


「違う。」


「新規事業?」


「違う。」


「じゃあ?」


 奏は立ち上がった。


 ホワイトボードの前へ歩く。


 黒いマーカーを手に取り、迷いなく文字を書き始めた。


 ワラウ商事株式会社


 社長 高本


 岡山市北区


 年商 二十億円


 レイが眉をひそめる。


「通販会社?」


「知ってるの?」


「少し。」


「社長、高本。」


 奏はさらにいくつかの単語を書き加える。


 銀行。


 取引先。


 決済。


 請求。


 ホワイトボードは数分で文字で埋まった。


「ここ一か月調べてた。」


 高城が息をのむ。


「仕事の合間に?」


「全部。」


「何のために。」


 奏はマーカーのキャップを閉めた。


 その音だけが静かな部屋に響く。


「騙す。」


 誰も動かなかった。


「……え?」


 レイが聞き返す。


「詐欺。」


 奏は言葉を選ばない。


「この会社から金を奪う。」


 ソウスケの笑顔が消える。


「社長、それ本気で言うとる?」


「本気だ。」


「犯罪やで。」


「知ってる。」


 奏は淡々と答える。


「だから?」


「だからって……。」


 ソウスケは言葉を失った。


 高城だけは黙ったままホワイトボードを見つめている。


「社長。」


 低い声だった。


「その会社に恨みでもあるんですか。」


「ない。」


「じゃあ。」


「金を持っている。」


 その一言だった。


「それだけ?」


「それだけだ。」


 レイが立ち上がる。


「私は嫌。」


 部屋の空気が一瞬で張り詰める。


「営業ならやる。」


「ホームページも売る。」


「でも、人を騙して金を取るのは違う。」


 奏はレイを見た。


「違う?」


「違う。」


「営業も騙してるようなものだ。」


「それは違う。」


 レイの声は強かった。


「価値があるものを売ってる。」


「相手も納得して契約してる。」


「でも詐欺は違う。」


 奏は少しだけ目を細める。


「そうか。」


 高城がゆっくり口を開いた。


「社長。」


「はい。」


「一つだけ聞かせてください。」


「何。」


「成功したとして、その先は?」


 奏は少し考えた。


「会社を大きくする。」


「さらに?」


「もっと稼ぐ。」


「その先は?」


 問いは続く。


 奏は答えられなかった。


 十億を手に入れた後の景色を、一度も考えたことがなかった。


 静寂が流れる。


 窓の外では銀行のシャッターが完全に開き、営業車が次々と駐車場へ入っていく。


 誰も、この五坪の小さな部屋で、一人の少年が人生最初の一線を越えようとしていることなど知らない。


 奏はゆっくりとホワイトボードへ向き直った。


 黒い文字で書かれた「ワラウ商事株式会社」。


 その文字を見つめながら、小さく呟く。


「考えておいて。」


 三人は何も答えなかった。


 会社の時計だけが、カチ、カチ、と規則正しく時を刻んでいる。


 その音はまるで、四人に残された「普通の時間」が、少しずつ削られていく音のようだった。

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