【短編】花咲姫は、魔導師様に嫌われています
第1話 “凍てつく瞳、徒花の熱”
王女リラ・アルテミスは王宮の温室で一人、蜂蜜色のふわふわとした髪を揺らし。自身の呪いのような魔導と向き合っていた。
「……咲いて」
祈るように囁き、固い蕾に触れる。
爆ぜるように薔薇が開花し。しかし、瞬く間に茶色く腐り落ちた。
足元には残骸の山。腐臭と甘い香気が混ざり合い、胸の悪くなる匂いが充満する。
「また……制御すら難しいなんて」
リラは汚れた指先を見つめた。
この国は今、魔獣の脅威に晒されている。民が求めているのは敵を焼き払う炎や、身を守る盾。花を咲かせるだけの能力など、平和な時代の見世物でしかない。
口さがない陰口はリラの耳にも届いていた。
『役立たずの姫君』
『花咲の道化』
その言葉は正しい。けれど、リラの胸を最も深く抉るのは、そんな有象無象の言葉ではなかった。
“あの御方に……シャノ様に、こんな姿を見られたくない”。
脳裏に浮かぶのは、氷で作られた刃のような女性の姿。
その名を思い浮かべるだけで、リラの胸の奥が熱く疼く。羞恥と、憧憬と、そして絶望的な恋慕。
自身の無力さを突きつけられるたびに、リラはあの方の『強さ』を思った。
シャノ・アストライア。
王国の筆頭魔導師であり、『氷の魔導師』と畏怖される麗人。王の愛を一身に受ける、リラの専属護衛の任をも授かった王国最強。
彼女は、リラとは正反対だった。
無駄なものを一切削ぎ落とした、機能美の極致。彼女が纏う魔力は絶対零度であり、彼女が歩いた後には霜が降りる。
そして、何より残酷な事実は――シャノが、リラを心底嫌っているという事。
◇ ◇ ◇
それは、数日前の回廊での出来事だった。
政務会議へ向かうシャノと、偶然すれ違った時。
カッ、カッ、と硬質なヒールの音が大理石の廊下に響く。その規則正しいリズムだけで、リラは心臓を鷲掴みにされたように立ち止まってしまった。
長い蒼銀色の髪を揺らし、漆黒のローブを纏ったシャノが歩いてくる。
その顔立ちは、神が氷から削り出したかのように端正で、人間的な温かみが欠落していた。
切れ長の瞳は、凍てつく湖面のようなサファイア色。
密かなコンプレックスと聞く低身長すら、完成された美の中にあっては、人知を超えた美しさを強調するに過ぎない。
リラは壁際に寄り、震える膝をドレスの下に隠して頭を下げた。
「ご、ごきげんよう、シャノ様」
精一杯の挨拶。無視されてもいい。ただ、同じ空気を吸えるだけでいい。
だが、シャノは立ち止まった。
リラの目の前で。
周囲の気温が急激に下がる。肌を刺すような冷気が、リラの薄い皮膚を撫でた。
「……臭う」
高く聞き心地の良いソプラノの声が、リラの鼓膜を震わせた。
かすかに寄せられた眉根。
「姫殿下。貴女の纏う爛れた花の香気……耐えがたい」
「あ……」
「傍に在るだけで、私の魔導式にノイズが走る」
冷徹な言葉の礫。
普通であれば、涙を流して走り去るところだろう。
だが、リラは違った。
まっすぐに、他の誰とも違って、自分をしっかりと見据えてくるシャノの瞳。その瞳孔の奥に、怯える自分の姿が映っている。
この国最強の魔導師が、ただの『役立たず』である自分を認識し、感情を動かし、言葉を紡いでいる。
たとえそれが『嫌悪』であっても、その鋭い視線が自分を貫いているという事実に、リラは背筋がゾクゾクと粟立つような悦びを感じてしまったのだ。
(ああ、なんて冷たくて……綺麗な瞳)
リラが何も言い返せずにいると、シャノは『時間の無駄でしたね』と吐き捨て、再び歩き出した。
彼女のローブが、意識せずに、追いすがるかのように伸ばしていたリラの腕を掠める。
それだけで、腕が凍傷になりそうなほどの冷たさに襲われた。
残されたリラは、一瞬で冷え切った腕を、自身の手で抱きしめるように摩った。
相反するように、熱い。顔が、身体が、芯から熱い。
「申し訳ありません、シャノ様……」
もはや誰もいない廊下で、リラは熱に浮かされたように呟いた。
嫌われている。疎まれている。
それでも、リラにとってシャノはこの世界で唯一、目が離せない『憧憬』そのものだった。
◇ ◇ ◇
温室の扉が開かれた。
激しい雨音と共に吹き込んできた冷たい風が、温室の湿気を切り裂く。
「……やはり、ここにいましたか」
リラは弾かれたように振り返った。
そこにいたのは、シャノだった。
彼女が足を踏み入れるたび、床の植物たちが恐怖するように葉を閉じていく。
「シ、シャノ様。どうしてこちらへ……」
「近道を通っただけです。……ン、不快な湿度です」
シャノは眉をひそめ、温室内を見渡した。
彼女の視線が、リラの足元――腐り落ちた薔薇の残骸で止まる。
「相変わらず、そのような事を。貴女はただ護られていればいい」
シャノが歩み寄ってくる。
逃げなければ、と本能が警鐘を鳴らすが、足が動かない。蛇に睨まれた蛙のように、リラはその場に縫い留められた。
床の残骸を避けるように、朽ちた花畑を凍てつかせながら。
「一瞬の彩りのために命を搾り取り、後には腐敗しか残さない。あなたの『花咲』は……ええ、見るに堪えない」
「私は、ただ、役に立ちたくて……」
「役に立つ?」
その冷たい疑問は、あまりに美しく、あまりに残酷だった。
彼女は手を伸ばし――リラの顎に触れた。
ひやり、とする冷たい指先。リラは思わず、小さく息を呑んだ。
「あなたのその『熱』が、私には毒なのです。不安定で、形がなく、まとわりつくような熱。……私の氷は永遠であり、完全なる静寂。あなたの存在は、その静寂を乱す穢れ」
シャノの指先が、リラの顎から頬へ、そして首筋へと滑る。
愛撫などではない。それは、獲物の急所を探る捕食者の手つき。
触れられた箇所に、火がついたように熱を感じる。
(殺されてもいい)
ふと、そんな狂気じみた思考がよぎる。
この美しい氷の魔導師の手にかかって死ねるなら、糧となれるなら、それは『役立たず』の自分にとって、最高の死に場所なのではないか。
リラは潤んだ瞳で、シャノを見つめ返した。
その視線に、シャノがピクリと反応する。
彼女のサファイアの瞳が、微かに揺れた。
嫌悪ではない。怒りでもない。
何か、もっと昏い――動揺のような光。
「……っ、その目をおやめなさい」
シャノは感電したかのように手を引っ込めた。
彼女は自身の右手を、左手で強く握りしめる。まるで、リラの肌の感触を拭い去ろうとするかのように。あるいは、残った熱を閉じ込めようとするかのように。
「……不愉快です。二度と、私にその媚びるような視線を向けないでください」
シャノは吐き捨てるように言い、逃げるように踵を返した。
黒いローブが翻る。
バタン、と扉が閉ざされる音だけが、温室に残された。
リラは、その場に崩れ落ちた。
心臓が早鐘を打って痛い。呼吸が荒い。
首筋には、まだシャノの指先の冷たさが、焼き印のように残っている。
「……動揺、なさっていた」
リラは、震える手で自分の首筋に触れた。
あんなにも冷徹で、完璧な氷の魔導師が。
リラの視線を受けた瞬間、確かに表情を崩したのだ。
ただの嫌悪なら、無視して踏み潰せばいい。けれど、シャノはリラに触れ、そして逃げた。
(私のせいで……あの方の氷が、乱れた)
その事実に気づいた瞬間、リラの胸に暗い炎が灯った。
それは清らかな恋心などではない。どうしようもない執着。
もし、私の存在があの方の『邪魔』になるのなら。
あの方の完璧な世界に、私という異物が爪痕を残せるのなら。
「……ふふ」
リラは涙を流しながら、歪んだ笑みを浮かべた。
温室の窓の外では、雷鳴が轟いている。
魔獣襲来の警報が、遠くで鳴り響き始めていた。
あの方を追いかけなければ。
たとえ嫌われても、拒絶されても。
この命を燃やし尽くしてでも、あの方の氷の中に、私の熱を刻み込んでやる。
リラは立ち上がった。
その瞳には、もはや怯えの色はなかった。あるのは、魔導師を愛しすぎた姫の、覚悟という名の狂気だけだった。
◇ ◇ ◇
第2話 “戦場、雪原に咲く蒼銀の星”
警報の鐘が鳴り響く。
絶対防衛線『アイギスの壁』崩落。王都城壁まで遮る物の無い平原へ、数万の魔獣が雪崩れ込んだ。
「――総員、王都城壁、最終防衛ラインまで下がらせなさい」
漆黒の戦闘衣を纏い、氷晶の杖を手にするシャノが号令を発する。
「足手まといです。私の広域殲滅魔法に巻き込まれるだけです」
冷たく言い放つと、踵を返す。その背中はあまりに小さく、細い。けれど、誰も彼女を止められなかった。
彼女が纏う拒絶のオーラが、物理的な壁となって人を寄せ付けない。
「……行きます」
呟き、すでに展開されていた転移魔法の陣に魔力を流す。光に包まれる直前、彼女は一瞬だけ、王城の上層――リラの私室がある方角を見上げた気がした。その瞳には諦念と、微かな安らぎがあった。
(これでいい。誰にも触れさせない。誰の体温も感じないまま、私は私の氷の中で完結する。最期のその時まで)
彼女の姿は掻き消えた。
バルコニーの陰から見ていたリラは、唇を噛み締める。血が滲むほど強く。
「……嘘つき」
リラには分かっていた。『足手まとい』などというのは建前だ。誰も死なせないために、自分一人を贄にするつもり。あの人はいつもそう。冷たい言葉で人を突き放し、孤独な氷の防壁を作り。その内側でたった一人、傷だらけになって戦っている。
「させない……そんなこと、絶対にさせない!」
リラは走り出した。ドレスの裾を乱暴にたくし上げ、温室へと向かう。リラが密かに少しづつ魔力を与え育てていた、王家秘伝の禁忌の種。
本来ならば、開花させるのに数千年の歳月と、膨大な魔力を要する幻の花。
だが、リラの『花咲』の異能があれば、理を無視して咲かせられる――人の身では贖いきれない魔力を注ぐ代償が、術者の『命』であるだけで。
(私の命なんて、安いものだわ)
◇ ◇ ◇
戦場はこの世の地獄であり、同時に天国のように美しかった。
北部平原は、見渡す限り白銀の世界に変貌していた。魔獣達は咆哮を上げたまま氷像と化し、飛沫さえもが赤い宝石のように凍結し輝いていた。
王都を背に、シャノは独り立っていた。
「っ、はぁ……」
白い吐息が漏れるたび、彼女の命が削げ落ちていく。限界はとっくに超えていた。指先の感覚はない。それどころか、自身の放つ絶対零度に迫る冷気が逆流し、右腕は肘まで蒼白く凍りついていた。身体の内側から、内臓が凍っていく感覚。思考が白く濁る。
(ああ……静かだ)
視界が霞む。迫りくる新たな魔獣の群れが、黒い染みのように見える。杖を振るう腕が重い。もう、指一本動かせない。
このまま、氷像になって砕け散るのも悪くない。誰の熱にも侵されず、誰にも愛されず。完全なる孤独の中で終わる。それは、彼女が望んだ最期のはずだった。
――その時。
「シャノ様!!」
裂帛の気合と共に、その静寂が破られた。シャノは重い瞼を持ち上げた。幻聴かと思った。だが、いた。引き裂かれたドレスの裾、乱れた蜂蜜色の髪。氷原を駆けてくる小さな姿。
「……リ、ラ?」
シャノの喉から、掠れた声が漏れた。なぜ。どうして? 私が最も遠ざけたかった、最も『生』の臭いがする彼女が、護られているべき箱庭の姫が、なぜこの死地にいる。
「来、ないで……ッ!」
シャノは叫ぼうとしたが、声にならなかった。
リラは止まらない。凍てついた地面に何度も足を取られ、転び、それでも這うようにしてシャノの元へ辿り着く。その瞳は、異様なほど爛々と輝いていた。狂気すら感じるほどの、純粋な熱量。
「バカ、なのですか……ここは、死ぬ場所です。貴女のような無能が……」
「ええ、死にに来ました。貴女と一緒に!」
リラはシャノの目の前で立ち上がった。その距離、わずか数十センチ。シャノの身体から発せられる冷気で、リラの睫毛が白く凍る。それでも彼女は引かない。
「私の花を、受け取ってください」
リラが懐から取り出したのは、青白く脈動する蕾。
『天燐の蒼』
魔導師の魔力を増幅し、その位階を神域にまで押し上げるとされる奇跡の花。
「そ、れは……でも、だめ。それでは無意味」
そう。この花は満開の一時だけ、奇跡の花となる。
未成熟な内は……蓄積された全魔力を一度に供給し、魔導士を塗りつぶす禁忌の猛毒。
「私が花開かせます。私の全てを使ってでも!」
常になく力強い、リラの宣言。彼女は蕾を両手で包み込むと、叫んだ。
「――咲き誇りなさい!!」
リラの身体から、黄金の光が噴出した。
それは彼女の生命力そのもの。
光を吸った蕾が、目もくらむばかりの輝きを放つ。種は深い蒼色の宝石とす化す。
蕾が綻び。凍てつく氷河のような、冬の抜ける青空のような、蒼い花弁を広げ始める。
リラの顔から血の気が失せ、肌が紙のように白くなる。
命が、花へと吸われていく。
「おやめなさい……っ!」
シャノは手を伸ばし、植物を叩き落そうとした。
だが、そうはさせじと。リラは咲き誇らんとする『天燐の蒼』を、両手で握りしめ、シャノの胸に身を寄せた。
ドクンッ。
シャノの心臓が、破裂しそうなほど大きく跳ねた。花を通じて、熱い奔流が流れ込んでくる。
「あぁああぁぁぁっ!!」
凍てつく大気を切り裂くような、悲鳴が轟く。
熱い。熱い、熱い、熱い!
それは単なる魔力ではなかった。
リラの体温。リラの匂い。リラのドロドロとした感情。
全てが溶け合った灼熱の溶岩のような奔流が、シャノの魔導回路を無理やりこじ開け、侵入してくる。
血管の一本一本に、リラの熱が流し込まれる感覚。
自身の凍れる魔法に冷え切っていた身体が。内側から焼き尽くされていくよう。
(嫌だ、怖い、やめて……!)
シャノの本能が拒絶を叫ぶ。彼女はずっと恐れていた。自分の氷が溶かされることを。他者の温もりを知ってしまったら、二度と孤独には戻れなくなる事を。
この熱は、毒。
甘くて、痺れるような、猛毒。
「受け入れて! シャノ様、拒まないで……っ!」
意識が混濁する中で、リラの声が直接脳内に響く。
目前のリラは、虚ろな目で笑っていた。
愛らしい温かな美貌は血の気が失せ。
口の端から鮮血を流し、命を削りながら。それでも恍惚とした表情で、押し当てた花ごと抱きしめるように、シャノにしがみついている。
「私の熱で、あなたの氷を犯してあげる。……もう二度と、一人で冷たくなんてなれないように」
その言葉は、呪いのようだった。
シャノの抵抗が霧散する。
強制的に流し込まれる圧倒的な魔力と生命力。凍傷で壊死しかけていた右腕に感覚が戻り、熱が巡る。
痛いほどの快楽が、背骨を駆け上がった。
「っリラ……ぁ」
シャノの口から、甘い吐息が漏れた。膝が崩れそうになるのを、リラが抱き止める。抱きしめられた箇所から、さらに熱が伝播する。氷の魔導師の鉄壁の守りは、完全に決壊していた。
(混ざる……私が、リラに、染め変えられる……)
それは、自我の崩壊に等しい恐怖だったが、同時に、魂が震えるほどの充足感でもあった。空虚だった器に、愛という名の暴力が満たされていく。
「……ん、ぁ……ッ!」
シャノは、リラの肩下に顔を埋め、小さく喘いだ。
抗うのをやめた瞬間、魔力が爆発的に膨れ上がった。
『天燐の蒼』がもたらす、シャノの魔導『氷結』の昇華。
生命までも注いだ結果、リラの『花咲』の魔導が融合し、『氷結』を新たな境地へと昇華させる。
それはまるで2人が生み出す新たな生命の息吹。
周囲に、青白い吹雪が渦巻いた。
ただ凍らせるだけの冷たい風ではない。
生命の輝きを内包した、美しく、幻想的な氷花の嵐。
シャノは顔を上げた。
その瞳は、かつての無機質で冷たいサファイアではない。熱を帯び、潤み、リラへのどうしようもない感情を表にさらけ出してしまった、乙女の瞳だった。
「……責任は、取ってもらいますよ。姫殿下」
シャノは、リラの腰を強く引き寄せた。
身長差のせいで、肩口に顔をうずめていた自分に、思わず羞恥を刺激され、紅色に染まる肌を感じる。
折れそうなほど細いリラの身体。
今のシャノが、世界で唯一、護りたいと心の奥底から真に願う温もり。
「ええ……望むところです」
リラは、意識を失う寸前の朦朧とした頭で、幸せそうに微笑んだ。
二人の視線の先には、押し寄せる魔獣の大群。
だが、今のシャノには、それらがただの塵芥にしか見えなかった。
体内にはリラの命が燃えている。腕の中には愛する女性の体温がある。
「――見せてあげましょう。私達の……2人で一つの、魔導を」
シャノは氷晶の杖を掲げた。
その切っ先から放たれたのは己の代名詞、『氷結』たる絶対零度の冷気ではなく。
世界を温かな、凍れる蒼い花で埋め尽くす、『氷結彩花』の花畑だった。
◇ ◇ ◇
第3話 『融解する心、永遠の氷華』
夜が明けた。
戦場跡地と呼ぶにはあまりに美しく、あまりに静謐な光景。
『氷結彩花』
『氷結』と、生命に属する『花咲』の魔力が融合して生まれた、規格外の大魔法。
陽の光を浴びて七色に輝く氷原。
砕かれようとも再び咲き誇る、無数の氷の蔦と花弁に覆われた幾万もの魔物の氷像。
王都を望む平原一帯は、見渡す限りの『氷の華』で覆われていた。
シャノは立ち尽くしていた。 彼女の腕の中には、糸が切れたように眠るリラが抱かれている。
「……息は、ある」
シャノは、自身の頬をリラの口元に寄せ、微かな呼吸を確認した。
安堵と共に、空っぽの魔力が強烈な目眩を誘う。
寒さは感じない。リラに満たされた生命の焔が血管を巡り、温もりを発し続けているから。
「馬鹿な娘よ、本当に……」
シャノはリラの頬を、薄いレースの手袋を外した素手で撫でた。以前なら決してしなかった行為。
自分の冷たい手が、まき散らす氷結の魔力が、他者の熱を奪う事を恐れていたから。
だが今は、リラの温もりに侵食され、ひんやりと心地よい清涼感をもたらすだけ。
「ぅ……」
リラが苦しげに呻き声を上げた。命を削った代償は大きい。
顔色は白蝋のように青白く、身体は氷のように冷え切っている。
細い指先。末端は壊死を始めるのではないかと不安を覚える程、薄紫色に染まり始めている。
「死なせない」
シャノは強くリラを抱きしめた。その瞳に宿るのは、かつての冷徹な無表情ではない。
自分のテリトリーを荒らし、自分の身体を、魔導回路を、こんなにも変えてしまった『侵略者』を、絶対に逃がさないという昏い独占欲だった。
「貴女が始めてしまったことよ、リラ。……私を置いて逝くなんて、許さない」
シャノは懐から転移魔法の構成結晶を取り出す。練り上げる魔力に反応し、込められた魔法陣が展開される。
目指すは王城、自らの私室。誰にも邪魔させない。誰にも触れさせない。
もうこの華は、私だけのもの。そう、心の奥底で断じる。
王城の一角にある筆頭魔導師の私室。
霊安室のように冷え切っていたそこは今、暖炉の火と主の体温により、柔らかな暖かさに包まれている。
天蓋付きの大きなベッドの上で、リラは目を覚ました。
「……ん」
重い瞼を持ち上げる。視界に入ってきたのは、心配そうに覗き込むサファイアの瞳。
「気がつきましたか」
「シャノ様……?」
リラは起き上がろうとしたが、身体が鉛のように重くて動かない。全身の筋肉が悲鳴を上げている。
「動かないで。魔力欠乏と生命力の枯渇です。……三日間眠り続けていたのですよ」
シャノはそう言うとサイドテーブルからカップを取り。小さな銀のスプーンでそっとすくうと、リラの口元へ運んだ。
甘い蜜の香りがする温かいスープ。
甲斐甲斐しく、小鳥に餌付けするように少しづつ。カップが空になるまでスープを運び。
リラの口元をハンカチで拭った。
その動作があまりに自然で、あまりに優しくて。リラは、自分がまだ夢を見ているのではないかと疑った。
「……私、まだ生きているのですね」
「ええ。それこそ雑草のように、しぶとくね」
「まぁ、ひどい。雑草にだって美しい花を咲かせるものがありますのよ」
シャノはカップを置くと、ベッドの縁に腰掛けた。以前の仮面のような無表情ではない。どこか気怠げで、そしてリラを見つめる瞳には、隠しきれない熱量が宿っていた。
「姫殿下。……リラ」
名前を呼ばれた瞬間、リラの心臓が跳ねた。
「とんでもない事をなさいましたね」
シャノは、自身の手のひらをリラの目の前にかざした。
その美しい指先からは、以前の刺すような冷気は消えていた。代わりに微かな、人肌のようなぬくもりが漂っている。
「私の氷は、もう完全ではありません。あなたの熱が混ざり込み、純度が落ちてしまった。……今の私はかつて『氷の魔導師』と呼ばれた頃のような、完璧なる絶対零度の暴虐へは戻れない」
シャノは静かに、けれど弾劾するように語る。
「夜。一人で眠ろうとすると、寒くて震えが止まらないのです。あなたの熱を知ってしまったせいで私の身体は、貴女の温もりなしでは機能不全を起こすようになってしまった」
それは最強の魔導師の敗北宣言であり、 どうしようもないほど重い、愛の告白だった。
「どうしてくれるのですか。……責任、取ってくださるのでしょうね?」
シャノが身を乗り出し、リラの上に覆いかぶさる。
長い蒼銀の髪が、カーテンのようにリラの視界を遮り。二人だけの世界を作る。
リラは目の前の美しい瞳に、自分だけが映っている事に陶酔した。
ああ、やはり。私は、この人の氷を壊したのだ。不可逆な傷跡をつけ、私なしではいられない身体にしてしまったのだ。
生まれてこの方。無用の王族、生まれる時代を間違えた哀れな姫と。拒絶され、腫れ物のように温室に閉じ込められていた自分が!
「……はい、シャノ様」
リラは動かない腕を必死に持ち上げ、シャノの首に回し、引き寄せる。
抵抗はなかった。むしろ、シャノの方から崩れ落ちるように、リラの胸に顔を埋めてきた。
とても大きな存在なのに、自身よりも小柄で、華奢な身体。
「私の命も、熱も、全て貴女のものです。……貴女が寒くないように私が生涯、燃料となって差し上げます」
「燃料、ですか。……ふふっ、相変わらず自己評価の低い方です」
シャノはリラの胸元でくぐもった笑い声を上げた。そして顔を上げると、蕩けるような甘い視線をリラに絡ませ。
「いいえ、あなたは私の心臓ですよ。……あなたが止まれば、私も死ぬ」
窓の外からは、北方の脅威が一時払われた事を祝う鐘の音が聞こえてくる。だが、二人の間には、世界の喧騒など関係なかった。
「……キスを、その……しても?」
シャノが、らしくもなく躊躇いがちに尋ねる。
あの傲慢で冷酷だった魔導師が、リラの許可を求めている。
その変化が愛おしくて、リラは涙ぐみながら頷いた。
「命令してください、シャノ様。……私はもう貴女のモノなのですから」
「……まったく、このお姫様は」
シャノは苦笑すると、ゆっくりと顔を寄せた。
触れ合う唇。
ひやりとしたシャノの唇と、熱の籠ったリラの唇が重なる。
最初は優しく、啄ばむように。
やがて深く、互いの呼吸を奪い合うように。
「ん……ッ、ぁ……」
リラの口内へ、シャノの舌が滑り込む。
それは魔導回路同士を繋ぐ行為でもあった。
シャノの体内に僅かに残るリラの魔力と、リラの体内に流れるシャノの魔力が循環し、増幅し合う。
甘い痺れが背骨を駆け抜け、二人の境界線が溶けていく感覚。
「はぁ、っ……シャノ、さま……」
「……もっと。もっと、あなたの熱を寄越しなさい」
シャノはリラを逃がさないとばかりに、強く抱きしめた。
もはやそこには、かつての見せかけの『嫌悪』……否、触れあう恐怖からくる『拒絶』など、欠片も存在しない。
あるのは互いの欠落を埋め合う、共依存に近い執着だけ。
長い口づけの後、二人は額を合わせて見つめ合った。
シャノの頬は紅潮し、その瞳も潤んでいる。それは、リラがずっと見たかった、彼女の『人間らしい』表情だった。
「これからは、片時も離れません。執務室でも、戦場でも、寝室でも。……私の隣が、あなたのいるべき場所です」
シャノはリラの左手の薬指に、氷で作られた指輪をはめた。
ほんのり冷たさを伝え、けれど、リラの体温で溶ける事もなく。キラキラと虹色に輝く指輪。
「これは……?」
「『氷結誓約』。私の魔力で編んだ、絶対の拘束具です。これを着けている限り、貴女は私から逃れる事はできない。例え死が二人を分かとうとも」
それはあまりに重く、そして美しいプロポーズ。
リラは小さな、サファイアのように蒼い氷の花が飾られた指輪を愛おしげに胸に抱き。満面の笑みを咲かせた。
温室の花々よりも美しく、決して枯れることのない笑顔を。
「はい……覚悟の上です、私のシャノ様」
かつて『役立たず』と蔑まれた姫と、『氷の魔導師』と恐れられた魔導師。
二人は今、切り離すことのできない、1つの魔法となった。
温もりを宿す凍れる花。二輪で1つの、美しき華。
窓から差し込む陽の光の中で、二人の影が一つに重なる。
凍てついた大地に春が来るのはまだ先だが、かつて凍える冷たさに満たされていたこの部屋の中だけは。
永遠に甘い熱に満たされているのだった。




