27「空が黒かった」
空が、黒かった。
雲ではない。瘴気だ。
渦を巻く闇が空を覆い、雷鳴のような低い唸り声が大地を震わせている。
その中心に立つのは、漆黒の髪をなびかせる一人の男――ヴェルグ。
「……足りないな。もっと集めろ」
低く命じると、地面から瘴気が噴き出した。
黒い霧は形を持ち、牙を持ち、爪を持つ。
狼、蛇、巨人、翼を持つ怪鳥。
無数の魔物が、彼の周囲に跪いた。
かつて魔王ヴィンセントが率いた軍勢に、勝るとも劣らない。
「ベルモンド王国へ進軍する」
その一言で、大地が揺れた。
魔物の群れが雪崩のように国境へ向かう。
砦は踏み潰され、結界は引き裂かれ、兵は悲鳴を上げる間もなく蹂躙された。
ヴェルグはただ、歩く。
目に宿るのは、怒りでも憎悪でもない。
――空洞。
アルティアを失ったその瞬間から、心の中心にぽっかりと開いた穴。
そこにあるのは、ただ一つの思考。
(奪われた。なら、奪い返す)
そのためなら、国ひとつ滅んでも構わない。
「な、なんだと……!? 国境が突破された!?」
ベルモンド王国とアシュフォード帝国国境では、オルフィーは顔面を蒼白にして立ち上がった。
「魔物の数が……数万を超えております! 指揮を執っているのは、ヴェルグ・アシュペー!」
「聞いていない……!」
オルフィーの声が裏返る。
「アルティアを手に入れれば、奴は降伏するはずではなかったのか!? カミーユはそう言った!」
誰も答えない。
窓の外では、黒煙が上がっている。
遠くで轟音。城壁が崩れる音だ。
「殿下、ご決断を!」
「撤退だ! 一時撤退! 城を捨てる!」
その言葉に、側近たちの顔が凍る。
だが、もはや戦況は崩壊寸前だった。
空に巨大な魔法陣が浮かび上がる。
そこから無数の瘴気の槍が降り注ぎ、兵を蹂躙する。これ以上、犠牲を出すわけにはいかない。
そう考えたとき、玉座の間の扉が、轟音とともに吹き飛んだ。
煙の向こうに立つのは、黒衣の男。
「久しぶりだね、オルフィー」
ヴェルグの銀の瞳は、何も映していなかった。
「ひっ……」
瘴気が蛇のように伸び、オルフィーの首に絡みつく。
軽く指を動かすだけで、彼は宙に吊り上げられた。
「アルティアはどこだ」
「わ、私はし、知らない! カミーユが……!」
その名に、ヴェルグの瞳がわずかに揺れた。
「なるほど」
次の瞬間、オルフィーは地面に叩きつけられる。
「生きてる価値があるのは、今だけだよ」
魔物たちが玉座の間を埋め尽くす。
ベルモンド王国の前線は崩壊した。
「……ふふ」
テラスで一報を受けたカミーユは、静かに笑った。
「オルフィー様が人質に取られた? あら、よかったではありませんか」
「奥様……!?」
「殺しなさい、そんな男」
従者は凍りつく。
「どうせ役に立たないわ。あの方は、最初から器ではなかったのよ」
夜風が彼女の髪を揺らす。
「さあ、もっと壊れなさい。世界も、ヴェルグも」
その目は、恍惚としていた。
壊れている。そう思っていても、それを突き付ける勇気があるものはこの場にいなかった。
◇ ◇ ◇
「……ヴェルグ様」
カイルは、黒く染まった戦場を見渡していた。
かつて学校を支え、笑っていた街の青年は、恐れ多くも魔王の息子の前に膝をついていた。
魔王を止めようと何度も進言するも聞き入れられず、それでも諦めない彼は何度だって「止めろ」と伝えに来たのだ。
そんな彼を一蹴せず、話を聞き届ける心は、まだヴェルグにあった。
「アシュフォード帝国は援軍をださないってさ……ふふ。あんなにアルティアを愛しているって言ってたのに」
「もうやめましょう。アシュフォード帝国も、ベルモンド王国も、ともに魔王と戦った盟友ではないですか!」
「その魔王の息子を、奴は怒らせた」
ヴェルグの冷たい瞳には何も宿っていない。
かつては暖かい瞳があった、心があった、愛があったのに……
(もう、ヴェルグを止められるのは、アルティアしかいないというのに)
カイルは拳を握る。
このままでは、世界が終わる。
「申し訳ありません……ヴェルグ様」
小さく呟き、彼は陣を抜け出した。
夜の闇を駆ける。
目指すは、聖女が囚われているという地下牢。ベルモンド王国がほぼ壊滅した今ならたどり着けるはず。
誰よりも早く……ヴェルグよりも早く彼女のもとにたどり着かなければいけない。
「ティア……いや、アルティア。あんたしかいないんだ」
瘴気に覆われた空の下、最後の希望が、静かに走り出していた。
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