恋人だった役目は、もう終わっている
本当なら、もうここにはいないはずだった。
朝の空気は冷たく、駅へ向かう人の足音が乾いている。信号の音も、コンビニの自動ドアの開閉も、いつも通りに街を動かしていく。
――私だけが、止まっている。
死んだ、と言うと大げさに聞こえる。けれど事実はそれだけだった。私はもう息をしていない。誰の視界にも入らないまま、それでも同じ道を歩けてしまう自分に、時々ぞっとする。
役目は終わった。恋人でいる資格も、隣に立つ権利も、とっくに失っている。そう分かっているのに、今日だけは足が動いた。
あの人が引っ越す。
それを知ったのは偶然だった。ポストの前で、引っ越し業者のチラシがひらひら落ちていた。宛名のない段ボールの注文票。見慣れた字の癖。たったそれだけで、胸の奥が痛んだ。
もう会わない。会えない。
それでも「今日」は、私の中に残ってしまった。
玄関の前に、白いゴミ袋が置いてあった。袋の口がきちんと結ばれていなくて、そこから空気が小さく漏れている。昔から、あの人はこういうところが雑だった。
私が「結び直して」と言うと、照れたみたいに笑って、結局すぐ忘れて。だから私は黙って、手を伸ばして結んだ。
何度も。何度も。
今の私は、その手を持っていないはずなのに。
袋の口に触れると、指先がある気がした。結び目を作る動きが、身体に染みついていて、勝手にほどけて、勝手に結び直される。
恋人だった役目は終わっているのに、体だけが覚えている。
袋を持ち上げる前に、私は一度だけ中を見た。
透明な小袋が、他のゴミに混じっていた。
落書きだらけのプリクラが一枚、少し折れたまま入っている。
私と、あの人。
画面いっぱいに寄せた顔。変なスタンプ。今見ると少し恥ずかしい笑い方。
そうだよね、と思った。
もう、残しておく理由はない。
袋を持ち上げる。軽い。生活の軽さが、逆に苦しい。人が生きている証拠って、こんなにもささやかなものだったのか。
私はそれを抱えて、集積所まで歩く。途中、誰かが私の横を通り過ぎた気配がした。すれ違う風だけが残って、誰も振り向かない。
当然だ。私は、もう「ここ」に属していない。
集積所のネットをめくる。袋を置く。ネットを戻す。
それだけだ。
プリクラも、結び直した袋の口も、同じ重さでそこに収まった。
これでいい。これで終わる。
そう自分に言い聞かせるみたいに、私は来た道を戻った。
マンションの前に、あの人が立っていた。段ボールを抱えて、鍵束を指に引っかけている。顔色は少し悪い。睡眠不足なのか、泣いたのか、分からない。
私は近づけなかった。近づく理由がない。
恋人だった役目は終わっている。
あの人は、ふと足元を見た。玄関の脇に置きっぱなしだったはずのゴミ袋がないことに気づいたのかもしれない。けれど、その視線はすぐに逸れた。
「……まあ、いいか」
声にならない口の動きが見えた。昔から、そうやって小さな違和感を飲み込む人だった。
鍵が回る。扉が閉まる。
エレベーターの表示が一階に降りていく。
私はその間、何もできない。何もする必要がない。
それなのに、心臓があった頃と同じように、胸が痛む。
エントランスを出て、あの人はトラックの方へ歩いていく。助手席のドアが開き、誰かが名前を呼んだ。あの人は軽く手を上げて応えた。
振り返らない。
当たり前だ。私がいる場所は、もう後ろではない。
車が動き出す。
尾灯が角を曲がって消えるまで、私は見送った。
恋人だった役目は終わっている。
それでも、最後にひとつだけ、できたことがある。
あの人の暮らしから、今日のゴミをひと袋、減らした。それだけ。小さすぎて、誰にも伝わらない。
見送る側の役目だけが、最後まで残ってしまった。
私は静かに息を吐く真似をして、もう一度、空っぽの玄関を見た。
そして今度こそ、ここに留まる理由がないことを、ちゃんと知った。




