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第94話:空っぽの器と、溢れる泥



『警告。防爆壁、閉鎖。……レベル5隔離エリア、封鎖完了』


無機質なアナウンスと共に、ドームの入り口が分厚いシャッターで閉ざされた。

もう後戻りはできない。

俺たちの目の前には、脈打つ黒い泥だけがある。


「……カケル」


レンが声をかけてくる。いつもの軽口はない。

「やれるか? そいつは、俺たちの知ってる『異能』なんてレベルじゃねぇぞ」


「ああ、わかってる」


俺はカプセルの前に立つ。

ガラス越しでもわかる。

この泥は、俺を呼んでいる。

「早くしろ」「一つになろう」「この空っぽを埋めてくれ」と、赤ん坊のように泣き叫んでいる。


「……白石、アリス。レン、ゲンゾウさん」


俺は振り返らずに言った。


「もし俺が俺じゃなくなったら……迷わず殺してくれ」


「……馬鹿野郎」

レンが短く吐き捨てる。「そうならねぇために、俺たちがいるんだろうが」


「私は信じてるよ」

白石の声。「カケルくんは、負けない」


「……ん。カケルは、カケルだもん」

アリスの真っ直ぐな視線が背中に刺さる。


仲間の声を背に受け、俺はコンソールの「解除」ボタンを押した。


プシューーーッ……。


圧縮空気が抜ける音と共に、円柱状のカプセルがスライドして開く。

途端に、腐敗臭とも金属臭ともつかない、濃厚な「原初の匂い」がドーム内に充満した。


ボコッ、ボコボコッ……!


泥が溢れ出す。

それは形を持たないタールのように床に広がり、そして意志を持った蛇のように鎌首をもたげた。

眼球も口もない。

だが、俺にはわかる。こいつは今、俺を見つめている。


『――モット、ホシイ』


頭の中に直接、ノイズ混じりの声が響いた。

言葉じゃない。純粋な欠乏感。飢え。


『ウメテ、ウメテ、ウメテ……!』


「……腹ペコかよ」


俺は右手を差し出した。

泥が飛びかかってくる。

物理的な衝撃はない。

触れた瞬間、俺の右腕の皮膚から「中」へと、泥が雪崩れ込んできた。


ドクンッ!!


「ぐっ……アァッ!!」


視界が明滅する。

熱い。重い。痛い。

血管という血管に、煮えたぎった鉛を流し込まれるような感覚。


(――憎い、怖い、痛い、寒い、寂しい、殺したい、愛して、見て、誰か、私を――)


泥の中に蓄積された、100年分の「人間の感情」が濁流となって俺の精神を襲う。

地下都市で死んだ人々の無念。実験で使い潰された被検体たちの絶望。

この泥は、人類の負の遺産そのものだ。

普通の人間なら、一瞬で発狂して自我が砕け散るだろう。


だが。


「……うるせえな」


俺は歯を食いしばり、意識の深淵で仁王立ちする。


(こんなもんかよ、100年分の絶望ってのは)


俺の中には「空洞」がある。

母さんを殺したあの日、俺自身がえぐり取った巨大な穴。

自分がない。夢がない。生きたいという執着さえない。


その「空っぽ」が、泥の濁流をブラックホールのように飲み込んでいく。


『……ナゼ? 満タサレナイ? ドコニ消エル?』


泥が困惑している。

いくら感情を注ぎ込んでも、俺という器が溢れないからだ。


「俺は『虚無』だ」


俺は泥の中で、形のない泥を抱きしめた。


「お前の悲しみも、怒りも、全部ここに入りきる。……暴れるな。ここは静かで、広いぞ」


俺の「空っぽ」は、孤独な場所じゃない。

そこには、さっき教授がノイズと呼んだ、仲間たちとの記憶が散らばっている。

レンとの喧嘩。アリスの温もり。ゲンゾウさんの背中。

そして、白石との屋上の風景。


それらが「アンカー」となって、俺の自我を繋ぎ止めている。

泥の絶望は、この温かなノイズに触れて、ジュワリと溶けて中和されていく。


『……アタタカイ。……コレガ、居場所?』


泥の暴走が収まっていく。

黒一色だった俺の視界が晴れ、現実の光景が戻ってきた。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


俺は膝をついていた。

全身から汗が噴き出している。

だが、体の中の不快な重みは消えていた。

代わりに、右腕だけでなく、体全体に血液のように「力」が循環しているのがわかる。


「カケル!」


仲間たちが駆け寄ってくる。


俺は顔を上げ、自分の手を見た。

黒い霧はもう出ていない。

だが、意識すればいつでも世界そのものを書き換えられるような、全能感と静寂が同居していた。


「……大丈夫だ」


俺は立ち上がり、拳を握りしめた。


「全部、入った。……(こいつ)、意外と寂しがり屋だったみたいだ」


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俺はついに、この星を壊した力を、完全に我が物とした。


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