第93話:感情という名のバグ
「馬鹿な……ありえん! 私の計算では、君の出力はタンクの容量の80%で飽和するはずだ!」
教授がモニターと俺たちを交互に見比べ、狼狽する。
部隊を全滅させられたショックよりも、自分の計算式が狂わされたことへの憤りの方が大きいようだ。
こいつは最後まで、俺を「数式」としてしか見ていない。
「計算通りにいかなくて残念だったな」
俺は黒い霧を纏ったまま、教授との距離を詰める。
掃除屋たちはもういない。
残るは、この狂った科学者と、背後の黒い泥だけだ。
「なぜだ……!? 君は母親を殺し、感情を捨てたはずだ! なのに、なぜ出力が低下しない!? むしろ、安定して増幅しているだと……!?」
「捨ててねえよ」
俺は足を止めずに言い放つ。
「母さんの記憶も、学園での日々も、あいつらと食った飯の味も。……全部持っていくことにしたんだ」
S棟で、俺は母さんを楽にしてやった。
あれは「忘れる」ためじゃない。母さんの願いを、痛みごと背負って生きていくためだ。
心に空いた穴(虚無)は、何かを捨てる場所じゃない。
大切なものを、誰にも奪われないようにしまっておくための「金庫」だ。
「理解不能だ……! そんな不純物を抱えたままでは、泥とリンクした瞬間に精神が崩壊する!」
教授が懐から拳銃を取り出し、無茶苦茶に発砲する。
乾いた銃声。
だが、弾丸は俺に届く前に黒い霧に触れ、音もなく消滅した。
「くそっ、化け物め……!」
「白石、右のサーバーだ!」
俺は弾丸を無視して指示を飛ばす。
「うん!」
俺の影から白石が飛び出し、教授が守ろうとしたメインコンソールへと疾走する。
彼女は実体化し、キーボードに指を叩きつけた。
「アクセス権限、強制奪取! ……セキュリティ、全部解除するよ!」
「やめろぉッ!!」
教授が叫ぶが遅い。
カチャカチャと軽快な音が響き、ドーム内の照明が赤から青へと変わった。
施設の制御権が、俺たちに移ったのだ。
「……終わりだ、教授」
俺は教授の目の前まで歩み寄り、拳銃を構えた彼の手首を掴んだ。
「ぐっ……!」
「お前の理論は正しいのかもしれない。感情は非合理的で、進化の邪魔かもしれない。……だがな」
俺は掴んだ手首に少し力を込める。
「俺たちは、その『無駄』がないと生きていけない不完全な生き物なんだよ。……お前が切り捨てたバグに食い殺される気分はどうだ?」
「……ひ、ひぃッ!」
教授の顔が恐怖で歪む。
俺の背後で、カプセルの中の黒い泥が、俺の言葉に呼応するように激しく脈打った。
それは怒りではない。
まるで、俺の「人間臭さ」を面白がっているような反応だった。
「カケルくん、上!」
白石の声。
次の瞬間、制御を失った施設の防衛システムが誤作動を起こし、天井のアームが落下してきた。
俺は教授を突き飛ばし、バックステップで回避する。
ガシャーン!!
巨大なアームが、俺と教授の間を分断するように突き刺さる。
「……ふ、ふふふ……はーっはっはっは!!」
瓦礫の向こうで、教授が狂ったように笑い出した。
「面白い! 実に面白いぞ、相馬カケル! 君はシステムのエラーそのものだ! だが、それでいい! その混沌こそが、泥を次の段階へ進めるのかもしれん!」
教授は瓦礫の隙間から、憎悪と好奇心の入り混じった目で俺を睨みつけた。
「私は退場しよう! だが覚えておきたまえ! その泥と一つになった時、君のその『人間性』が維持できる保証はどこにもないぞ!」
教授の姿が、床の隠し通路へと消えていく。
逃がしたか。
だが、追う必要はない。
今の俺たちの目的は、彼じゃない。
「……カケルくん」
白石がコンソールの前から戻ってくる。
そして、アリスとレンたちも合流した。
全員の視線が、ドームの中央――『黒い泥』の入ったカプセルに注がれる。
『……システム・オールグリーン。拘束解除シーケンス、準備完了』
無機質なアナウンスが響く。
100年の時を経て、ついに「それ」が解き放たれようとしていた。
「……やろうぜ、カケル」
レンがニヤリと笑う。「元凶をぶっ壊して、地上に帰るんだろ?」
「ああ」
俺はカプセルの前に立った。
ここからが本番だ。
俺の腕の虚無と、このオリジナル。
どちらが主導権を握るか、生存を賭けた対話が始まる。




