第92話:日常という名のノイズ
ヒュオオオオオ……!
教授の号令と共に、掃除屋たちの背負った巨大なタンクが唸りを上げた。
強力な吸引ファンが回り、俺の放った黒い霧を、掃除機のように吸い込み始める。
「無駄だ! 我々の『対・虚無タンク』は、あらゆる異能エネルギーを圧縮・封印できる!」
部隊長らしき男が叫ぶ。
「貴様の『虚無』とて、エネルギーの一種に過ぎん! 全て吸い尽くし、データとして回収してやる!」
俺の身体から溢れ出た霧が、次々とタンクのノズルへ吸い込まれていく。
傍から見れば、俺の攻撃が無力化されているように見えるだろう。
「ははは! どうだねカケル君!」
教授が安全圏から声を上げる。
「それが君の力だ。所詮は物理法則に縛られた現象に過ぎない。……さあ、無駄な抵抗はやめて、その身を捧げたまえ!」
だが、俺は歩みを止めない。
吸い込まれていく霧を見ても、眉一つ動かさない。
脳裏に浮かぶのは、さっき教授が「ノイズ」と切り捨てた記憶だ。
――学園の屋上。
錆びた手すりと、青い空。
隣には、半透明の少女が座っていた。
『買ってきたよ、「限定・激辛麻婆パン」。……すごい行列だったけど、誰も私の割り込みに気づかなかった』
『犯罪だぞ』
『お金はちゃんと置いてきたもん』
他愛のない会話。
パサパサしたパンの味と、舌を刺す安っぽい辛さ。
世界を救うとか、進化とか、そんな高尚なものとは程遠い、ただの昼休み。
「……なぁ、教授」
俺は呟く。
「お前はそれを『ノイズ』だと言ったな。……俺が人間らしく振る舞うのは、無駄な演技だったと」
「そうだとも! 君は破壊の王だ、パンをかじるような真似事など似合わない!」
「……そうかよ。でもな」
俺は右手を、掃除屋たちの目の前で強く握り込んだ。
「あのパンの味も、白石と話した時間も……俺にとっては、このクソみたいな世界で唯一の『リアル』だったんだよ」
ピシッ。
異変は、タンクの中から始まった。
エネルギーを吸い込んでいたはずの強化樹脂製のタンクに、亀裂が入る。
いや、亀裂ではない。
タンクの装甲そのものが、「虫食い」のように欠落し始めていた。
「な、なんだ!? タンクの容量はまだ余裕があるはずだぞ!?」
「バカな……数値が出ない! エラー! 対象のエネルギー値、測定不能!?」
掃除屋たちが狼狽する。
当たり前だ。
俺の『虚無』は、カロリーやジュールで換算できる「エネルギー」じゃない。
そこに在るものを「無くす」概念だ。
「無」をタンクに詰めたらどうなるか?
タンクの内側から空間ごと削り取られ、崩壊するに決まっている。
「俺の日常を笑うな」
俺の手が開かれる。
【虚無・侵食】
ドォン!!
音を立てて弾け飛んだのは、タンクだけではなかった。
それを背負っていた掃除屋たちの防護服、武器、そして肉体の一部までもが、黒い霧に触れた瞬間、スプーンで掬い取られたように消失した。
「ぎゃあああああああッ!!? 俺の腕が!?」
「タンクが消え……いや、床が抜けるッ!?」
吸い込みすぎたタンクが崩壊し、圧縮されていた「虚無」が逆流。
部隊の中央に、巨大な黒い球体が出現し、周囲の空間をガリガリと削り取っていく。
「ひっ……退避! 退避しろぉッ!」
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うエリート部隊。
俺はその光景を冷めた目で見つめ、隣に視線をやった。
「……白石」
「……うん」
白石が、俺の横に並んでいた。
彼女は震えていない。
その瞳は、静かで強い光を宿していた。
「覚えてるよ、カケルくん。……あの屋上の風も、パンの味も」
白石が俺の手の甲に、そっと自分の手を重ねる。
「あれがノイズなんかじゃないって、私たちが一番よく知ってる」
彼女の手の冷たさが、暴走しかけていた俺の怒りを、鋭く研ぎ澄まされた刃に変えていく。
もう迷いはない。
「行くぞ。……あいつを現実から退場させる」
「了解。……ナビゲートするよ。」
俺たちは黒い霧を突き破り、教授の元へと走った。
過去を否定する狂気へ、俺たちの「日常」を叩きつけるために。




