第91話:狂気の観測者
「教授、だと……?」
俺は警戒を強め、黒い泥の入ったカプセルを背にして構えた。
目の前の男からは、殺気とは違う、もっと異質で冷たい気配が漂っている。
まるで、実験動物を見るような目だ。
「そう警戒しないでくれたまえ。私は君たちの敵ではない……いや、今はまだ『評価者』と言うべきかな」
教授と呼ばれた男は、武装した掃除屋たちを手で制しながら、悠然と歩み寄ってきた。
カツ、カツ、と硬い靴音がドームに響く。
「素晴らしい旅だったよ、相馬カケル君。……学園での平和な日常、S棟での悲劇的な覚醒、そして大峡谷を越えての逃避行。全てが、君という『器』を完成させるためのプロセスだった」
「……何が言いたい」
「わからないかね? 君がここまで辿り着けたのは、我々がそう誘導したからだ」
男は片眼鏡の位置を直しながら、薄ら笑いを浮かべる。
「S棟のセキュリティを一時的に甘くしたのも、君たちがここへ向かうための地図を拾わせたのも、全て私のシナリオ通りだ。……最高の食材は、野生の中でこそ育つからね」
「……ふざけんな」
レンが低く唸る。「俺たちが必死で生き抜いてきたのを、全部お前の手のひらの上だったって言うのかよ」
「結果が全てだよ。……おかげで、彼はこうして『原点』に帰還した」
教授は、俺の背後にある黒い泥のカプセルを見上げた。
その目には、狂信的な色が宿っている。
「相馬ミサキは優秀な研究員だった。……だが、愚かにも『情』に流された」
教授の声色が、急に冷徹なものに変わる。
俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「彼女は、君を『神』ではなく『人間』として育てようとした。……世界を救うための部品を盗み出し、あろうことか『幸せになってほしい』などという無駄なノイズを植え付けたのだ」
俺の手が震える。
母さんとの穏やかな日々。
それを「ノイズ」と言い捨てやがった。
「だが、君はそれを証明してくれた。……S棟での『あの日』だ」
教授がニタリと笑う。
具体的には何も言わない。
だが、その目は明らかに、俺が母さんを殺したあの瞬間を知っていた。
「母親という唯一の愛着を自ら断ち切った時、君は初めて『個』として完成したのだよ。……あの絶望こそが、君をこの泥に適合させる最後のピースだった」
ブチリ。
俺の中で、何かが切れる音がした。
怒鳴り散らしたい衝動じゃない。
もっと冷たくて、深い、底のない穴が心に開いた感覚だ。
俺の周りから音が消える。
感情の高ぶりに呼応するような「熱」はない。
ただ、俺の右腕から溢れ出す黒い霧が、静かに、そして重く、周囲の空間を侵食し始めた。
「……アリス、下がってろ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、平坦だった。
「……カケル?」
アリスが怯えたように俺を見る。
今の俺からは、きっと人間らしい匂いが消えているんだろう。
「教授。……お前が望んだのが『虚無』なら、見せてやるよ」
俺は一歩、前に出た。
殺気さえない。
ただ、目の前の男を「存在しないもの」にする。それだけの事務作業だ。
「ほう……! その目だ、その虚ろな目こそが『被検体ゼロ』の真価!」
教授は怯えるどころか、狂喜して指を鳴らした。
「さあ、見せてくれたまえ! 感情を削ぎ落とし、ただの『現象』と化した君の力を! ……掃除屋部隊、プラン・オメガ実行! 彼をテストしろ!」
ズズズズズ……!
教授の背後に控えていた掃除屋たちが一斉に動き出す。
彼らは通常の能力者ではない。
全身を黒い装甲で覆い、その背中には、俺の「虚無」を強制的に吸い上げ、解析するための巨大なタンクを背負っていた。
「対・虚無特化部隊だ。……君の力を吸い尽くし、データ化させてもらうよ」
「吸えるもんなら、吸ってみろ」
俺は右手を前にかざした。
黒い霧が、生き物のように鎌首をもたげる。
「……全部、消えろ」
静寂のドームに、俺の呟きだけが響いた。
それは戦闘の合図ではない。
一方的な「消去」の始まりだった。




