第90話:黒の揺り籠
不気味なほど平和な地下都市を抜け、『バイソン』はさらに地下へと続くスロープを下りきった。
ついに、この巨大な竪穴の底――『原初の井戸』の最深部に到達したのだ。
そこは、上の都市とは打って変わり、無機質なコンクリートと鋼鉄で固められた閉鎖区画だった。
車のヘッドライトが、巨大な防爆扉を照らし出す。
高さは20メートルはあるだろうか。
表面には、錆びついた警告表示と、薄れて読み取れない組織のエンブレムが描かれている。
「……行き止まりか?」
ゲンゾウが車を停める。
「ここが、100年前の研究施設……『NEXUS』の本部」
白石がタブレットを操作しながら、息を呑む。
「組織の前身となった、旧政府の極秘研究機関。……全ての『異能』と『黒い泥』の研究は、ここから始まった…」
ゴゴゴゴゴ……。
俺が車を降りて近づくと、分厚い扉が重低音を響かせて左右に開き始めた。
ロックは掛かっていない。
いや、まるで俺が来るのを待っていたかのように、システムが招き入れているようだ。
「……歓迎されてるみたいだな。罠かもしれねぇが」
レンが警戒しながら音波ソナーを展開する。
「中は広いぞ。……生体反応はなし。だが、微弱な駆動音がする。まだ中枢は生きてやがる」
俺たちは『バイソン』を降り、徒歩で中へ入った。
中は、冷え冷えとした金属の回廊だった。
埃はなく、非常灯の赤い光だけが、延々と続く通路を照らしている。
「……カケル。ここ、知ってる」
アリスが俺の手を握りしめ、不安そうに周囲を見回す。
「来たことはないはずなのに……匂いがするの。私の『元』になった人たちの……悲しい匂いが」
「ああ。俺もだ」
俺の右腕が、かつてないほど激しく疼いている。
共鳴しているのだ。
この奥にある「何か」と、俺の中にある「虚無」が、互いに呼び合っている。
回廊を抜けると、ドーム状の広大な空間に出た。
サッカー場がすっぽり入るほどの空間。
その中央に、鎮座しているものを見て、俺たちは足を止めた。
それは、巨大な「揺り籠」だった。
数千本のケーブルやパイプが接続された、透明な円柱状のカプセル。
その周囲には、制御用と思われるスーパーコンピュータの群れが、墓石のように並んでいる。
カプセルの中は、黒かった。
漆黒の液体――いや、不定形の「泥」が詰まっている。
その泥は、生き物のようにうねり、俺の姿を認めると、ガラス越しに張り付いてきた。
「これが……『黒い泥』のオリジナル」
白石が震える声で言う。
「全てのコンプレックスの源。……この星を狂わせた、未知のエネルギー生命体」
俺は悟った。
100年前、人類はこの泥を見つけ、その力を利用しようとした。
だが制御に失敗し、上の地下都市の人々を飲み込み、世界中に「異能」という呪いを撒き散らしたのだ。
『……生体ID照合……対象:相馬カケル(Sample-00:Adapter)』
天井のスピーカーから、感情のない合成音声が響いた。
S棟で聞いたものと同じ声。だが、ここはもっと古く、根源的な響きがある。
『おかえりなさい、オリジナルの息子よ。……そして、相馬の血を引く最後の継承者よ』
「……最後の、継承者」
俺はカプセルの前に歩み出た。
ガラス越しに、俺の手と、中の泥が重なる。
泥は、まるで再会を喜ぶ犬のように激しく泡立ち、俺の腕の「虚無」と共鳴した。
『10年前……貴方の母、相馬ミサキは、この泥の因子を貴方に託し、施設から逃亡させました』
システムが淡々と過去を語り始める。
『彼女は知っていたのです。……この「星を喰らう泥」と完全に適合し、制御できるのは、彼女の血を引く貴方だけだと』
俺の脳裏に、母さんの笑顔が浮かぶ。
優しかった母さん。
俺を守るために、記憶を消し、才能を封印して、普通の子供として育ててくれた人。
そして、その代償として組織に囚われ、S棟の生体部品として使い潰された人。
「……そうか。俺が『虚無』なんじゃない」
俺はガラスに手を触れた。
泥が俺の手の動きに合わせて形を変える。
「俺自身が、こいつを抑え込むための『檻』であり……『鍵』だったんだ」
俺の中にある空虚さ。自分がないという感覚。
それは欠落じゃなかった。
この強大すぎる力を受け入れ、飼い慣らすためにあえて空けられた、無限のスペース(余白)だったんだ。
『肯定します。……相馬カケル。貴方は、この泥に残された唯一の良心です』
黒い泥が輝きを増す。
それは脅威には見えなかった。
100年の孤独を耐え、ようやく「器」である俺に巡り会えたことで、安堵しているように見えた。
「……待たせたな」
俺は呟いた。
運命の歯車が、カチリと噛み合う音が聞こえた気がした。
だが、その時だった。
「――感動の対面だねぇ。涙が出そうだよ」
背後から、場違いな拍手の音が響いた。
静寂なドームに、乾いた音が反響する。
「誰だッ!」
レンが即座に振り返り、衝撃波を構える。
ドームの入り口、暗がりの中に一人の男が立っていた。
白衣を纏い、片眼鏡を掛けた痩身の男。
その背後には、最新鋭の装備に身を包んだ「掃除屋」たちが、銃口をこちらに向けて控えている。
「ようこそ。……そして初めまして、相馬カケル君」
男はニタリと笑った。その笑顔には、底知れない狂気と知性が張り付いていた。
「私は『教授』。……君たちの旅を、ずっと特等席で観察させてもらっていたよ」
最深部での邂逅。
自身のルーツに辿り着いた俺たちの前に、新たな、そしておそらく「元凶」を知る男が立ちはだかった。




