第82話:沈黙の回廊
『NEXUS』の重厚なセキュリティゲートは、意外にも無防備に開いていた。
いや、こじ開けられた跡がある。
分厚い鋼鉄の扉が、何か巨大な力で内側から引きちぎられたようにひしゃげていたのだ。
「……随分と荒っぽい退出だな」
俺はひしゃげた鉄板を撫でながら呟いた。
ここから「何か」が逃げ出したのか、それとも……。
「中は……空気循環が生きてる。電力も予備電源が稼働してるみたい」
白石がタブレットで環境スキャンを行う。
俺たちは警戒しながら、薄暗い研究所の内部へと足を踏み入れた。
外観は森に飲まれていたが、内部は驚くほど保存状態が良かった。
白い壁、埃の被った受付カウンター、枯れた観葉植物。
床には書類が散乱し、研究員たちが慌てて逃げ出した当時の混乱がそのまま凍りついている。
「100年前……いや、もっと前か?」
ゲンゾウが足元に落ちていた電子ペーパーを拾い上げる。
そこには『西暦20XX年 第4期生体融合実験レポート』と記されていた。
「旧時代末期だね。世界が崩壊する直前……人類が生き残るために、なりふり構わず『進化』を模索していた時代の遺物」
白石がカウンターの端末にケーブルを繋ぐ。
キーボードを叩く音が、静寂なロビーに不気味に響く。
「……データ、残ってる?」
アリスが不安そうに白石の袖を掴む。
「断片的だけどね。……ここは『環境適応生物』の開発拠点だったみたい。汚染された大気でも生きられる肺、放射能に耐える皮膚……そういうのを人工的に作ろうとしてた」
「さっきのトンボもその一つか」
レンが鼻を鳴らす。「随分と趣味の悪い進化論だぜ」
「……奥だ」
俺は不意に口を開いた。
右腕の疼きが強くなっている。
ズキン、ズキンと、まるで心臓がもう一つあるかのように脈打つ。
「この奥に……俺を呼んでる何かがある」
俺の言葉に、全員が緊張した面持ちで頷いた。
俺たちはロビーを抜け、長く続く中央回廊を進んだ。
回廊の両脇には、ガラス張りの実験室が並んでいる。
ある部屋には、手足が異常に肥大化した猿のホルマリン漬け。
ある部屋には、植物と融合して皮膚が樹皮のようになった人間の遺体。
「うっ……吐き気がする」
レンが口元を押さえる。
ここで行われていたのは、科学という名の冒涜だ。
やがて、回廊の突き当たりに、ひときわ巨大な扉が現れた。
扉には厳重なロックが掛かっていたはずだが、それもまた、鋭利な刃物で切り裂かれたように破壊されていた。
その上のプレートにはこうある。
『特務検体保管庫』
「……行くぞ」
俺は黒い霧を纏い、破壊された扉の隙間を押し広げた。
ギギギ……と重い音が響き、その向こう側に広がっていた光景に、俺たちは息を呑んだ。
そこは、巨大なドーム状の空間だった。
壁一面に、数百……いや数千もの「培養カプセル」が並んでいる。
だが、そのほとんどは割れ、中は空っぽだった。
中に入っていた培養液は干上がり、カプセルの底には、黒ずんだシミだけが残っている。
「……全部、空っぽ?」
アリスが呟く。
「いや……一つだけ、生きてる」
俺はドームの中央、一段高い場所に設置された、特別製のカプセルを見据えた。
そこだけ、まだ薄青いライトが灯り、冷却装置の低い唸り声を上げている。
俺は吸い寄せられるように、そのカプセルへと歩み寄った。
ガラスは曇っていて中はよく見えない。
だが、確信がある。
俺の右腕の「虚無」が、再会を喜ぶように熱くなっているからだ。
俺がガラスに手を触れた、その時。
カプセルに付随していたモニターが、突然起動した。
『生体認証を確認。……おはようございます、オリジナル』
無機質な合成音声が響く。
オリジナル? 俺が?
プシュウゥゥゥ……。
白い蒸気と共に、カプセルのロックが外れ、前面のガラスがゆっくりとスライドした。
中から現れたのは――人間ではなかった。
それは、黒い泥のような不定形の「何か」だった。
だが、俺には分かった。
それはただの泥じゃない。
俺が操る「虚無」そのものの塊だ。




