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第6話:空白の心

放課後のカウンセリングルームは、鼻につくほど甘いアロマの香りで満たされていた。

ラベンダーに、何か別の薬草を混ぜたような、眠気を誘う匂い。


「どうぞ、相馬くん。リラックスして」


蔵木先生は、完璧な営業スマイルでハーブティーを差し出した。

湯気からは、室内と同じ甘ったるい香りがする。

白石の情報通りなら、これには微量の『増幅剤』か、あるいは精神を弛緩させる薬物が混ざっているはずだ。


「いただきます」


俺は躊躇なくカップに口をつけた。

……味は悪くない。

毒が入っていようが関係ない。俺の体は、他人の悪意や異物を「素通り」させる。

今の俺は、精神的なザルだ。


「それで? 『自分には何もない』というのが悩みだと言っていたね」


蔵木が眼鏡の奥の瞳を細め、俺を観察し始める。

その視線には、教師としての慈愛ではなく、実験動物を見る研究者の冷徹さが混じっていた。


「ええ。周りはみんな、立派なコンプレックスを持ってて、凄い能力に目覚めてるのに。俺だけ霧が出るだけで……。これじゃ、将来が不安で」


俺は努めて「凡庸な悩み」を演じた。

蔵木が身を乗り出す。


「焦ることはないよ。君の中にも、必ず『種』はある。……例えば、優秀な友人への嫉妬。期待してくれない親への反発。あるいは――誰にも理解されない孤独」


蔵木の声が、妙に反響して聞こえる。

言葉に『暗示』の能力ギフトを乗せているな。

普通なら、この声を聞くだけで心の奥底にある小さな傷口を広げられ、泣き出したり激昂したりするのだろう。


だが。


(……響かないなぁ)


俺の心には、フックがかかる突起がない。

蔵木の言葉は、ツルツルした壁を滑り落ちていくだけだ。


「……先生?」

「ッ!?」


俺が平然と首を傾げると、蔵木の表情が僅かに強張った。

彼は焦ったように言葉を重ねる。


「い、いや……何も感じないかい? 胸が苦しくなるとか、熱くなるとか」

「うーん……部屋がちょっと暑いくらいですかね」


俺はハーブティーを飲み干し、空になったカップを置いた。

蔵木の額に汗が浮いている。

彼には見えているはずだ。俺の心の中に、彼が期待するようなドロドロした感情の渦が一切ないことが。

そこにあるのは、底の見えない巨大な「空洞」だけ。


「君は……何なんだ?」


蔵木の仮面が剥がれかけた。

得体の知れないものを見る目。

自慢の『増幅剤』も『暗示』も通用しないイレギュラー。


ここだ。攻めるなら、相手が揺らいだ今しかない。


「先生こそ、疲れてるんじゃないですか?」


俺はわざとらしく心配そうに身を乗り出した。


「最近、大変そうですもんね。田中の件とか。……あの『赤いカプセル』の管理とか」


「――は?」


蔵木の空気が凍りついた。

完全に隙を突かれた顔だ。

俺は畳み掛けるように、あくまで無邪気に続ける。


「いやだなぁ、噂ですよ。先生が栄養サプリを配ってくれてるって、生徒の間で評判なんです。俺も疲れが取れないから、一つ欲しいなぁって」


これは賭けだ。

もし彼がここで力尽くで俺を消しに来たら、俺の実力では勝てないかもしれない。

だが、彼は「慎重な完璧主義者」だ。正体不明の俺に対し、リスクを冒してまで騒ぎを起こすはずがない。


「……ああ、ビタミンのことかな」


長い沈黙の後、蔵木は引きつった笑みを貼り付け直した。


「残念だけど、在庫切れでね。……今日はもう帰りなさい。君の悩みについては、また今度じっくり聞かせてもらおう」


「そうですか。残念です」


俺は立ち上がり、一礼して部屋を出た。

背中に、突き刺さるような殺気を感じながら。


          ***


「はぁ……死ぬかと思った」


廊下の角を曲がったところで、俺は壁に背中を預けて息を吐いた。

手足が微かに震えている。

やっぱり、プロの能力者の圧は桁違いだ。


「相馬くん!」


天井の隅から、白石がふわりと降りてきた。


「全部聞いてたよ! 凄かった……あんなに先生を動揺させるなんて」

「ハッタリだよ。でも、これで確定だ」


俺は冷や汗を拭った。


「奴は俺を警戒した。『何も効かない奴』がいることは、実験の邪魔になるからな」

「じゃあ、狙われるんじゃ……」

「逆だ。正体がバレるリスクがある以上、うかつに手は出してこない。……俺たちが証拠を掴むまでの時間は稼げた」


俺と白石は顔を見合わせた。

奇妙なバディの、最初のターゲットが決まった瞬間だった。

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