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第58話:虚無の子守唄



俺は叫ばなかった。

怒りに任せて暴れることもしなかった。

ただ静かに、祈るように、手のひらを冷たいガラスに押し当てた。


「……怖くないよ。すぐ終わるから」


俺から溢れ出した黒い霧は、いつもの荒々しい捕食者ではなかった。

それは水に落ちたインクのように、静かに、優しく培養液の中へと浸透していく。


『……あぁ……』


母さんの声が脳内に響く。

それは苦悶の声ではなく、深い安らぎに満ちた吐息だった。


黒い霧が、母さんの下半身を侵食していた醜い機械部品を包み込む。

音もなく、痛みもなく。

鋼鉄の拘束具が、プラスチックのチューブが、雪解けのように消えていく。

10年間、彼女を縛り付け、尊厳を奪っていた鎖が、俺の「虚無」によって無へと還る。


『……暖かい。……カケルの力は……優しいのね』


「……俺は、母さんから生まれたからな」


視界が滲んで、母さんの顔が歪んで見える。

機械が消え、母さんの体だけが宙に浮いた。

もう、痛みはないはずだ。


霧がゆっくりと水位を上げ、母さんの胸、首へと這い上がっていく。

母さんは逃げようともせず、ただ愛おしそうにガラス越しの俺を見つめ続けていた。


『……生きなさい、カケル。……誰かのためじゃなく……あなたのための人生を』


「ああ。……約束する」


『……愛してるわ』


霧が母さんの顔を覆う。

最後に残ったのは、穏やかな微笑みだった。


そして、霧が晴れた時。

培養槽の中には、もう何もなかった。

機械も、母さんも、苦しみも、全てが綺麗な「ゼロ」になった。


プツン。


施設全体を揺らしていた心臓の鼓動音が止まった。

照明が落ち、非常灯の赤い明かりだけが点滅を始める。

S棟を支配していたのは、耳が痛くなるほどの静寂だけだった。


「……う、うぅ……」


背後でアリスが嗚咽を漏らす。

レンが壁を殴り、悔しそうに顔を歪めている。


俺はガラスに額を押し当てたまま、動けなかった。

手の中には何もない。

助け出したという実感も、喪失感さえも、「虚無」が飲み込んでしまったかのようだ。


ただ一筋、頬を伝う熱いものだけが、俺がまだ人間であることを証明していた。


「……終わったよ、母さん」


俺は震える息を吐き出し、ゆっくりと目を開けた。

涙はこれで最後だ。

悲しみはここで終わらせる。


「……行こう」


俺は振り返った。

その目には、もう迷いはない。

ここからは、俺自身の足で歩く番だ。


「……待ってくれ」


ゲンゾウが掠れた声で呼び止めた。

彼は停止したコンソールに近づき、震える指でキーを叩いていた。


「……この区画の自爆装置を作動させた。あと10分で、このふざけた研究所は更地になる」


「……そうか」


「それと……娘のデータも見つけた」


ゲンゾウがモニターの一角を指差す。

『検体番号774:廃棄済み』。

無情な文字がそこにあった。


「……そうか。あいつも、もう楽になってたんだな」


ゲンゾウは泣き笑いのような表情で、モニターを拳で叩き割った。

「行くぞ! ここは俺たちの墓場じゃねぇ!」


俺たちは走り出した。

崩壊を待つ白亜の棺から、生きて外の世界へ出るために。


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