第57話:生体部品
S棟の最深部。
そこは、教会の礼拝堂のように広大で、静謐な空間だった。
だが、神の像の代わりに鎮座していたのは、天井まで届く巨大な円筒形の培養槽だ。
ドクン……ドクン……。
スピーカーから、重低音のリズムが流れている。
誰かの心臓の音だ。この施設全体を動かす、エンジンの鼓動。
「……嘘だろ」
俺は足がすくんだ。
培養槽の中には、無数のケーブルとチューブに繋がれた一人の女性が浮かんでいた。
長い黒髪。白磁のような肌。
10年前、俺を庇って逃がしてくれた時のままの姿。
「母さん……?」
駆け寄ろうとする俺を、ゲンゾウが震える手で止めた。
「待て……よく見ろ。あれはもう……」
ゲンゾウが指差した先。
母さんの下半身は存在しなかった。
腰から下は無機質な機械と融合し、太いパイプとなって施設の床下へと伸びている。
脳には電極が突き刺さり、常にデータが吸い上げられているのが分かった。
「『生体CPU』兼『マザー・プラント』……。彼女の脳でクローンを制御し、彼女の子宮細胞を使って素体を培養しているんだ」
ゲンゾウが嘔吐くように口元を押さえる。
「なんてことしやがる……人間を、ただの部品にしちまったのか」
怒りで視界が真っ赤に染まる。
これが「聖域」の正体か。
俺の母親を喰い物にして、偽物の神を大量生産する工場か。
「……ウ、ウゥ……」
スピーカーから、ノイズ混じりの呻き声が漏れた。
培養槽の中の母さんが、ゆっくりと目を開ける。
焦点の合わない瞳が、ガラス越しに俺たちを彷徨い――そして、俺の顔で止まった。
『……カ、ケ……ル?』
思考通信のような声が、直接頭の中に響いてくる。
「ああ、俺だ! カケルだ! 今助けるから……!」
俺は培養槽に手をかけた。
だが、母さんの声がそれを制止する。
『……だめ。……来ないで』
「なんでだよ! ここから出してやる! 帝都の医者に見せれば――」
『無理なの。……私はもう、この施設の「一部」になってしまった。……ここから出れば、私は死ぬ。……そして、私が生かしている何千もの「子供たち」も、暴走して死ぬ』
母さんの瞳から、涙が溢れて培養液に溶けていく。
彼女は自分の命だけでなく、施設内で眠る全てのクローンたちの命綱にされていたのだ。
『痛い……熱い……苦しいの……。……毎日、体の中を……何かが這い回って……私の心を削っていく……』
母さんの感情が流れ込んでくる。
10年分の絶望。
終わりのない拷問。
死ぬことさえ許されない、地獄のような時間。
「……っ、クソッ!!」
俺はガラスを叩いた。
助けられない。
ここから引き剥がせば彼女は死ぬ。かといって、このままにしておけば永遠に地獄が続く。
『……お願い、カケル』
母さんが、残った力を振り絞って微笑んだ。
それは、幼い頃に見た、あの優しい笑顔だった。
『……私を、殺して』
『……この悪夢を……あなたの手で、終わらせて』
「……ッ!!」
俺の喉が詰まる。
やっと会えたのに。
世界でたった一人の家族なのに。
最初の親孝行が、「殺してあげること」だなんて。
「……カケル」
アリスが俺の背中に触れた。何も言わない。ただ、俺の震えを止めようと支えてくれている。
レンも、ゲンゾウも、沈痛な面持ちで俯いている。
やるしかない。
俺にしかできない。
「虚無」とは、全てをゼロに還す力。
苦しみも、痛みも、未練さえも消し去って、安らかな眠りを与える力だ。
「……分かった」
俺は涙を拭わずに、黒い霧を両手に集めた。
「母さん。……俺が、全部消してやる」
「……おやすみ」
『……ありがとう……私の、自慢の息子……』
俺は、震える手で黒い霧を構えた。




