第52話:死の境界線
「おいおい、なんだこの改造は。サスの調整がデタラメだぞ」
『バイソン』の後部座席で、ゲンゾウがブツブツと文句を言い続けている。
彼は乗り込むや否や、車内の配線をチェックし、勝手にエンジンの出力を調整し始めた。
「文句あんなら降りろよ、爺さん。こちとら素人改造なんだよ」
ハンドルを握るレンが不機嫌そうに言うが、車の挙動は明らかに良くなっていた。
砂丘を越える際の振動が減り、加速もスムーズだ。さすがは元・帝都の技師といったところか。
「……見えてきたぞ」
俺が前方を指差す。
地平線の彼方に、異様な色の壁がそびえ立っていた。
土埃ではない。紫色に澱んだ、分厚い霧の壁だ。空の色まで赤黒く変色している。
「『汚染障壁』だ。旧時代の生物兵器と、廃棄されたナノマシンが混ざり合った死の霧だ」
ゲンゾウが神妙な顔で説明する。
「あの中に生身で入れば、肺がドロドロに溶ける。金属だって数時間で腐食して鉄屑だ」
「そんな場所に、研究所があるのか?」
「ああ。誰も近づけねぇからこそ、極秘実験にはうってつけなんだよ」
車内の空気が重くなる。
アリスが不安そうに窓の外を見つめ、マスクをきつく締め直した。
白石がモニターを操作し、外部フィルターを最大出力にする。
「……行くよ。ゲンゾウさん、コードを」
「おう」
ゲンゾウが端末をコンソールに接続し、キーを叩く。
すると、前方の紫の霧が、モーゼの海割れのようにゆっくりと左右に開き始めた。
わずか一本、車一台が通れるだけの「安全地帯」が生まれたのだ。
「すげぇ……本当に開いたぞ」
「有効時間は10分だ。モタモタしてると閉じ込められて消化されるぞ!」
「飛ばすぜ!!」
レンがアクセルをベタ踏みする。
『バイソン』は唸りを上げて、紫の峡谷へと突入した。
左右の窓の外は、渦巻く毒の霧だ。
時折、霧の中からバチバチという放電のような音が聞こえ、車体のセンサーが警告音を鳴らす。
「警告。外装の腐食深度、0.1%……0.5%……」
「安全地帯でもこれかよ。とんでもねぇ場所だな」
俺は窓に手を当てた。
霧の向こうに、うごめく影が見える気がした。
生物? いや、こんな毒の中で生きられる生き物なんているはずが――。
「……カケル。見てる」
アリスが震える声で呟く。
「誰がだ?」
「霧の中。……いっぱい、いる。こっちを見てる」
アリスの感覚は絶対だ。
俺は即座にルーフのハッチに手をかけた。
「レン、警戒しろ。……ただの霧じゃねぇぞ」
その時、ドンッ!! と車体が横から衝撃を受けた。
霧の中から何かが飛び出し、装甲板に体当たりしてきたのだ。
「なんだ今の!?」
「右舷カメラ映像! ……これ、虫!?」
白石がモニターに映し出したのは、車のタイヤほどもある巨大な甲虫だった。
だが、その背中には怪しげな機械が埋め込まれ、複眼が赤く明滅している。
「『腐食蟲』だ! 霧のナノマシンと融合した変異種だ! 奴らの体液は酸だぞ!」
ゲンゾウが叫ぶ。
霧の中から、次々と巨大な羽音が近づいてくる。
一匹や二匹じゃない。群れだ。
「おいおい、安全な道じゃなかったのかよ!」
「道は安全だ! 住民が凶暴なだけだ!」
「減らず口を叩くな! ……来るぞ!!」
俺はハッチを開け、毒霧の充満する屋根へと躍り出た。
酸素マスク越しでも、皮膚がピリピリと痛む。
視界の先、紫の闇の中から、無数の赤い目がこちらを狙っていた。
荒野の旅は、帝都のような「人間相手」の戦いじゃない。
環境そのものが、俺たちを殺しに来る。




