第46話:名前を呼ぶ声
視界がない。音もない。
俺はただ、白い光を飲み込む黒い穴になっていた。
「ありえん……! 私の計算に、この数値は存在しない! やめろ、来るな!!」
神宮寺の悲鳴が、遠い彼方で聞こえる。
奴の放つ「天啓」の光は、俺という虚無に触れた端から消滅していく。
攻撃も、防御も、物理法則の書き換えも意味をなさない。
「存在しないもの」に対して、ルールは適用できないからだ。
「貴様は……世界を滅ぼす気かァァァッ!!」
神宮寺が最期に放った極大のエネルギー波も、俺はあくびをするように飲み込んだ。
そして、奴の体そのものも。
プツン。
神宮寺の気配が消えた。
帝都を支配していた「管理者」は、塵一つ残さず、この世から削除された。
勝った。
これで終わりだ。
……いや、終わらない。
『もっと……もっと喰らわせろ』
俺の内側で、黒い衝動が囁く。
リミッターの外れた「虚無」は、主である俺の意思を離れ、周囲のあらゆる物質を侵食し始めた。
床が消える。壁が消える。天井が消える。
タワーの最上階が、虫食いのように抉られていく。
「……あ、あ……」
俺は自分の手を見た。
手がない。指の輪郭が崩れ、黒い靄になって拡散している。
戻れない。
俺はこのまま拡散して、空気に溶けて、本当の「無」になるんだ。
それでいい。俺は元々、何もない空っぽだったんだから。
「――ふざけんな!!」
不意に、強い衝撃が背中を叩いた。
物理的な衝撃ではない。音だ。魂を直接揺さぶるような、必死の叫び。
「勝手に終わらせてんじゃねぇぞ、カケル!!」
レンだ。
あいつ、俺が放つ虚無の嵐の中で、ボロボロになりながら音波の壁を張って近づいてきている。
「お前が言ったんだろ! 家族ごっこは終わったって! だったら最後まで仲間として付き合いやがれ!」
「相馬くん! 戻ってきて! お願い!」
白石の声も聞こえる。
彼女は端末を投げ捨て、生身で俺の方へ手を伸ばしていた。
「システムなんてどうでもいい! あなたがいなきゃ、脱出ルートがあっても意味がないんだよ!」
うるさいな。
近づくなよ。消えちまうぞ。
俺はもう、お前らが知ってるカケルじゃ……。
「……カケル」
目の前が温かくなった。
誰かが、俺の崩れかけた体を抱きしめていた。
「アリス……?」
虚無に触れれば、アリスだって消滅するはずだ。
なのに、彼女は離そうとしない。
小さな腕で、俺の闇を必死に繋ぎ止めようとしている。
「カケルは、空っぽじゃない」
アリスが泣きながら、俺の胸(だった場所)に顔を埋める。
「温かいよ。痛いよ。……ここに、カケルがいるよ」
アリスの涙が、黒い霧に落ちた。
その一雫が、波紋のように広がっていく。
『名前』。
そうだ、俺には名前がある。
識別番号でも、検体名でもない。母さんがくれて、こいつらが呼んでくれた名前が。
「……ああ、くそ。……痛てぇな」
感覚が戻ってきた。
全身がちぎれそうな激痛と、焼き尽くされるような疲労感。
霧が急速に収束し、俺の肉体を再構成していく。
「……お前ら、無茶しすぎだ」
俺は膝から崩れ落ちた。
完全に人の姿に戻った俺を、三人が折り重なるように支える。
「馬鹿野郎……! 本当に、馬鹿野郎だお前は……」
レンが俺の肩を掴み、声を震わせている。
白石はへたり込んで大泣きし、アリスは俺の服を握りしめたまま離さない。
周囲を見渡せば、神宮寺のいた場所は完全な空白になり、司令室の半分が消滅していた。
だが、空は青い。
風が吹き抜けていく。
俺たちは生きている。
「……帰ろうぜ。俺たちの場所に」
俺の言葉に、三人が涙と笑顔で頷いた。
最強の能力者でもなく、怪物でもなく、ただの人間「相馬カケル」として。
俺たちは、崩壊を始めたタワーからの脱出を開始した。




