第4話:輪郭を取り戻すとき
「……悪いけど、お断りだ」
俺は白石の懇願をバッサリと切り捨てた。
冷たいと言われようが構わない。さっき味わった田中の『劣等感』の味が、まだ喉の奥にこびりついていて気分が悪いのだ。他人のドロドロとした内面なんて、好き好んで摂取したいものじゃない。
「そ、そう……だよね。ごめんなさい……気持ち悪いよね」
白石がシュンと縮こまる。
その瞬間、彼女の輪郭が揺らいだ。
物理的に、だ。
彼女の『不可視』の能力が暴走しかけている。拒絶されたショックで「消えたい」という衝動が強まり、世界から自分の存在をフェードアウトさせようとしているのだ。
「おい、待て。消えるな」
「……でも、私なんていてもいなくても……」
「面倒くさいな! 分かった、少しだけだ!」
俺は溜息をつきながら、透け始めている彼女の手首を掴んだ。
ジュッ。
「ひゃっ!?」
熱い鉄に触れたような音がして、白石が小さく跳ねる。
だが、痛みはないはずだ。俺の『霧』が、彼女の過剰な能力出力を吸い上げている音だから。
(……うわ、なんだこれ)
流れ込んできたのは、田中みたいな攻撃的な味じゃなかった。
『怖い』『誰か気づいて』『でも見ないで』
相反する感情がぐちゃぐちゃに混ざった、冷たくて寂しい味。
深海の底で、誰にも見つからないように息を潜めているような孤独感。
俺は眉をひそめながら、その「過剰分」だけを慎重に啜った。
全部は奪わない。そんなことをすれば、彼女の自我まで壊れかねない。
溢れ出しそうなコップの水を、少しだけ減らすイメージで。
「……あ」
白石の口から、ほうっと熱い息が漏れる。
揺らいでいた彼女の輪郭が、次第にカチリと焦点を結んでいく。
透けていた指先に血色が戻り、背景に溶けていた存在感が「そこにあるもの」として確立される。
数秒後。
俺が手を離すと、そこには普通の――いや、驚くほど整った顔立ちをした少女が立っていた。
普段は前髪と猫背で隠しているし、能力のせいで誰もまともに彼女を認識できないから気づかなかったが、素材はかなり良い。
「……見え、てる?」
白石がおそるおそる俺の顔を覗き込む。
「ああ。くっきりな。……気分は?」
「……体が、重い」
彼女は自分の手をグーパーさせながら、泣きそうな顔で笑った。
「私が『ここにいる』感じがする。……こんなに体が重くて、足が地面についてる感じ、久しぶり」
『不可視』の能力者は、強くなればなるほど存在そのものが希薄になる。
重力からも、他人の記憶からも滑り落ちていく恐怖。
それを俺が「吸う」ことで、彼女は一時的に人間に戻れたのだ。
「……変な感じ」
俺は自分の掌を見つめた。
彼女の孤独を吸い込んだせいか、俺の中の空っぽな穴が少しだけ埋まっている気がする。
不快じゃない。むしろ、冷え切った胃に温かいスープを入れたような、妙な安らぎがあった。
(俺の『虚無』と、こいつの『孤独』は……相性が良すぎるのか?)
「あの、相馬くん」
白石が一歩、俺に近づく。
さっきまでの怯えた様子はない。まるで中毒患者が薬を見るような、少し危うい熱を瞳に宿して。
「また、苦しくなったら……お願いしてもいい?」
「……勘弁してくれ。俺はカウンセラーじゃない」
「タダとは言わない。私にできることなら何でもするから」
彼女は必死だった。
「誰にも認識されない」という地獄から引き上げてくれる唯一のロープを、離したくないのだろう。
そして俺もまた――この奇妙な充足感を、完全に拒絶できないでいた。
「……『何でも』なんて、軽々しく言うなよ」
「本当だよ。……私、盗み聞きとか、こっそり何かを調べるとかなら得意だから」
こいつ、自分の能力の犯罪的な有用性を理解してやがる。
俺は倒れている田中を見下ろし、それから目の前の「透明な共犯者」を見た。
「……とりあえず、こいつ(田中)を保健室の前に運ぶのを手伝え。話はそれからだ」
「うん!」
白石は嬉しそうに頷いた。
こうして俺は、最も目立たない、けれどある意味で最強のパートナーを手に入れてしまった。




