第22話:透明な嫉妬、受信する本音
アリスが目覚めてから数日が経った。
俺たちの隠れ家生活は、劇的に――いや、地味に変化していた。
「……相馬お兄ちゃん、離れないで」
リビング(元・放送室)のソファ。
俺が座って本を読んでいると、横からアリスがぴったりとくっついてくる。
彼女は俺の左腕を抱きしめ、肩に頭を乗せて安心しきった顔をしている。
「……あのな、アリス。俺はトイレに行きたいんだが」
「ダメ。離れると、世界がうるさいの」
アリスはふるふると首を振る。
彼女の『受信体質』は、まだ制御が不安定だ。
俺の『虚無』の半径1メートル以内が、彼女にとって唯一、余計な心の声が聞こえない「無音室」らしい。
「……チッ」
向かいの席で、レンが盛大に舌打ちをした。
彼はヘッドホンを深めにかぶり、不貞腐れながらカップ麺をすすっている。
「なんだよ、シスコン」
「誰がシスコンだ。……ただ、妹が『実の兄』より『無愛想な他人』の方に懐いてるのが、生物学的に納得いかねぇだけだ」
レンの言い分も分かる。
だが、レンの心の中は「アリス可愛い」「アリス大丈夫か」「俺が守らなきゃ」という、暑苦しいほどの愛情で溢れかえっている。
繊細なアリスにとっては、愛ですら「大音量のロック音楽」みたいなものなのだろう。
「お待たせー。ご飯できたよ」
そこへ、エプロン姿の白石が鍋を持って入ってきた。
今日のメニューは、賞味期限ギリギリの野菜をぶち込んだ闇鍋風スープだ。
「……あれ?」
白石はテーブルに鍋を置くと、俺とアリスを見てピタリと動きを止めた。
アリスが俺にべったりなのが気に入らないらしい。
彼女の姿が、怒りで少し半透明になりかけている。
「アリスちゃん。相馬くんは座布団じゃないんだよ? ほら、こっちでご飯にしよ?」
「……ううん。ここがいい」
アリスは俺の腕にしがみついたまま、白石を上目遣いで見た。
そして、不思議そうに首を傾げる。
「……お姉ちゃん、どうして怒ってるの?」
「えっ、お、怒ってないよ!?」
「嘘だ。……心が『チクチクする』って言ってる。それに……『私の場所なのに』って」
「わあああああっ!!」
白石が顔を真っ赤にして叫んだ。
その瞬間、彼女の姿が完全に『消失』した。
「ちょ、白石! スープの配膳はどうすんだ!」
「知らない! 相馬くんのバカ! 鈍感!」
何もない空間から罵声が飛んできて、俺の脛に何かがコツンと当たった。多分、蹴られた。
「……ったく、面倒くせぇな」
レンが呆れながら、見えなくなった白石がいるであろう方向へ声をかける。
「おい透明女。アリスの『通訳』はお前じゃなきゃ無理だろ。機嫌直して出てこいよ」
「……うぅ」
空気が揺らぎ、うつむいた白石がじわりと現れる。
彼女は涙目で俺を睨むと、ドカッと俺の反対隣――右側に座り込んだ。
「……ここ、座るから」
「どうぞご自由に」
右に白石、左にアリス。
両手に花と言うには、あまりにも精神的負荷が高い食卓だ。
***
食後。
白石はアリスの髪を梳かしてやっていた。
なんだかんだ言っても、白石はアリスの世話を焼くのが好きらしい。
自分より「か弱い」存在がいることで、お姉さんぶれるのが嬉しいのだろう。
「アリスちゃん、髪サラサラだね。銀色で綺麗」
「……お姉ちゃんの髪も、綺麗。……黒くて、夜みたいで落ち着く」
アリスが気持ちよさそうに目を細める。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃんの名前、なんて言うの?」
俺とレンの手が、ピタリと止まった。
そういえば、俺たちは彼女を「白石」としか呼んでいない。
白石のブラシを持つ手が止まる。
彼女は少し困ったように笑い、それから寂しげに目を伏せた。
「……名前、かぁ」
彼女は小さな声で呟く。
「……みんな、『白石さん』って呼ぶから。それでいいよ」
「え? でも……」
「いいの。私には、そっちの方が似合ってる気がするから」
彼女はそれ以上言わせないように、少し強引にブラシを動かした。
名前。個人の証明。
「誰からも認識されない」彼女にとって、名前はあまりにも遠い存在なのかもしれない。
あるいは、名前負けするほど立派な名前なのか。
「……ふーん」
アリスは納得していない様子だったが、何かを受信したのか、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「そっか。……じゃあ、『白石お姉ちゃん』って呼ぶね」
「うん、それでいいよ」
「でもね、お姉ちゃん」
アリスは後ろを振り返り、白石の顔を覗き込んだ。
「お姉ちゃんの心の中は、すごくお喋りだね」
「えっ?」
「さっきからずっと、『可愛いなぁ』とか『守ってあげなきゃ』とか……あと、『相馬くん、こっち見てくれないかな』って聞こえるよ」
「~~~~ッッ!!?」
白石が湯沸かし器のように赤くなり、本日二度目の消失を果たした。
「き、聞こえてない! 言ってない! アリスちゃんの誤受信だよぉ!!」
「ううん、クリアに聞こえるもん。……ねー、相馬お兄ちゃん?」
「……俺に振るな。俺は何も聞いてない」
俺は本に視線を戻した。
透明になった空間から、バタバタと慌てる足音と「忘れて! 今のは忘れて!」という悲鳴が聞こえてくる。
レンがやれやれと肩をすくめ、俺に小声で耳打ちした。
「……大変だな、テメェも」
「お前の妹だろ、なんとかしろ」
「無理だ。俺の音量じゃ、あいつらのガールズトークには入れねぇよ」
廃墟の夜は更けていく。
外は冷たい海風が吹いているが、この部屋の中だけは、騒がしくて温かい温度が保たれていた。
追われている身でなければ、ずっとこうしていたいと思えるほどに。




